Sの言い分




『冗談じゃない!』
 目が覚めた瞬間に彼が思ったのは、その一言だった。



 まず、なんだっていま自分は目が覚めたのか。それが皆目分からない。
 なぜなら自分はその存在自体が音素に還ったはずで、目が覚めるなんて行為を行えるはずがないのだ。
 しかし現実にいま自分は目を覚ましていて、あまつさえ目の前にはどこかで見たような赤い髪の少年の顔が至近距離にあって。つまりいま、自分はなぜかこの赤毛の少年に抱きしめられたまま草原に転がっていた。
 はじめの衝撃が去った後、シンクはまず最初に自分を抱き込んでいる赤毛の少年──ルークの腕をはずそうと試みた。しかし、意識がないせいなのかどうなのか、なかなかその腕から逃げ出すことが出来ない。
 シンクは小さく舌打ちすると、いっそ譜術でもはなってやろうかなどと物騒な事を考えながら、暢気に寝こけているルークの顔を睨みつけた。
 いったい、何がどうしてこんな事になっているのか。
 そもそも彼は自分を倒して、そのままヴァンの元に向かったのではなかったのか。
 ぐるぐると色々な疑問が頭の中を駆けめぐるが、このままでは埒があかない。とりあえず今現時点で事情を知っていそうなのは、悔しいがこの幸せそうに自分を抱きかかえて眠っている相手しかいなそうだ。
 そう判断すると、行動は早かった。
 シンクは渾身の力でもって自分を抱きしめているルークを引きはがすと、その襟首を掴んで揺さぶった。
「……ふあっ……?」
 何とも暢気な声をあげて、寝起きの悪さを想像させるボケっぷりでようやくルークが目を覚ます。微かに口の端に涎のあとが見えたような気もしたが、このさい見なかったことにしておく。
「ちょっと!さっさと起きなよね!」
 さらに何度か乱暴に揺さぶってやると、ようやくきょとんとしたような目でルークがシンクを見た。そしてシンクが口を開くよりも前に、有無を言わさない勢いでいきなりまた抱きついてきた。
「……ちょっ!」
 慌てて引きはがそうとしても、逆に息が詰まりそうなほど強く抱きしめられてかなわない。
 それでも必死に抵抗していたシンクは、実力行使にでるかと拳を固く握りしめたところで、不意に聞こえてきた小さな音にそのまま固まってしまった。
 聞こえてきたのは、小さく鼻をすする音。
 よく見れば、自分を抱きしめている腕も目の前の肩も、小刻みに震えているのが見えた。
 顔が押しつけられている方の肩の辺りも、なんだか熱く湿ってきているような気がする。
 そう気付いてしまったら、すとんとまるで憑き物が落ちたように、今まで胸の中に渦巻いていた苛立ちが消えてしまった。
 逆にこみ上げてきたのは、自分でも理解の出来ない喜びの感情。あたたかな歓喜の心だった。
 これはまずい、と心の中で警鐘が打ち鳴らされる。
 それと同時に、疑問がこみ上げてくる。
 ほだされるような情がからっぽな自分の中にあるはずがないのに、どうしてかこの感情に引きずられていくような気がする。
 なぜ?どうして?
 何時だって喜びは、暗い感情から発せられるものしかなかったはずだ。
 こんな温かな感情を、自分は知らないはずなのに。
 混乱した思考でそこまで考えて、シンクはある可能性に気がついて自分の記憶をたどった。
 生まれてから僅か二年。その記憶はあまりに少ない。
 そして探り当てた記憶に、シンクはやはりと小さく舌打ちした。
 自分の中に、自分のものではない記憶がある。
 弾けるようなルークの笑顔。追い詰められて絶望に染められた横顔。そして、どこか遠慮がちな笑顔。
 自分の知らない記憶が、頭の中で渦巻く。
 ツインテールの黒髪の少女が明るく笑い、金髪の少女が上品に微笑む。
 見たことのある町並みが、なぜか少し違って見える。
 そして、その記憶がいま自分を抱きしめている存在を、懐かしいと思っている。
 シンクはそんな自分の中にある矛盾した感情に必死に逆らおうとしたが、すでにそこにある記憶を消すことはかなわない。
 必死に抱きしめてくる腕が、怖いくらいに温かい。
 それは拒むにはあまりに温かくて優しくて、もう一つの記憶に引きずられてゆく。
 そんな葛藤の中で、それでもシンクは精一杯の抵抗を試みた。
「……鼻水、つけないでよね」
 そう嫌味をこめて呟くことだけが、彼ができた唯一の抵抗だった。



 どうして自分が生きているのか。
 しかもなぜ敵対関係にあったはずのルークと一緒にいるのか。
 聞きたいことは山のようにあるけれど、とりあえず今だけはどうでもいい。
 すべては、これからだった。


END
(07/07/12)


再スタート人生。