チョコレート・ワルツ




 
街を歩いていたらふわりと甘い匂いが風に乗ってやってきて、ルークは思わずひくりと小さく鼻を動かした。

「チョコレート……?」

そう呟いてふんふんとさらに匂いをかごうとルークは身を乗り出そうとしたが、すぐに横から伸びた手に引き戻された。

「公爵家の者がみっともねえ真似するなっ!」

お小言共に軽く頭を小突かれる。ふり返れば、最近兄であると知ったばかりのアッシュの顔。その背に見える尻尾は、不機嫌そうにせわしなく動いている。
いつもなら、そんなことをされればすぐに拗ねるルークだが、今日は少し違う。いつもよりも強く匂ってくるチョコレートの甘い香りが、気になって仕方がないのだ。

「なあなあ、なんでこんなに街中でチョコレートの匂いがしてるんだ?」

小突かれたこともすぐに頭の中から抜け落ちたのか、ルークはアッシュの服の袖をひくと、好奇心いっぱいの目で訊ねてきた。

「バレンタインが近いからだろう」
「……バレンタイン、ってあれかチョコを山のようにもらえる日だ」

ぽむ、と合点がいったというように手を叩いたルークに、アッシュはちょっぴり複雑な顔になった。

「おまえ、バレンタインの本当の意味を知っているのか?」
「だからメイド達からチョコレートをもらう日」
「それだけか?」
「そういや去年、ガイの奴死にそうな顔で一日逃げ回っていたな」

あいつチョコレート嫌いなのかな、などと見当違いなことを心配しているルークに、アッシュは深いため息を一つついた。

「そうなのかもな」
「だったら今年は俺もガイの奴にチョコレートやるかなー! 俺の気持ちだって言えば、食わねえわけにはいかねえだえろうし」

いい悪戯を思いついたとばかりにルークが笑うと、なぜかぴたりとアッシュが足をとめた。

「アッシュ?」
「……勝手にしろ」
まるで言い捨てるようにそう言うと、アッシュはルークの手を振り払って先に歩いていってしまった。

「へ? アッシュ?」

振り払われた手にルークはきょとんと目を丸くしたが、すぐに慌ててアッシュの背中を追いかけた。しかしその日はもう、アッシュが手を繋いでくれることはなかった。



「ってことがあったんだけど、どう思う? ナタリア。アッシュの奴、あれから口も聞いてくれねえんだ」

しょぼんと耳を垂らしながらそう訊ねてきたルークに、ナタリアはうっかり声をあげて抱きしめたくなる衝動をなんとかこらえた。

「それは、ルークが悪いと思いますわ」
「えええ! そうなのかっ?」

途端に泣き出しそうな顔になりながら、ルークは姉のように思っている王女様を見上げた。
ナタリアは、このキムラスカ王国の王女である。だがそれと同時に、ルークが母上と慕っているシュザンヌの姪でもあった。
シュザンヌは現国王インゴベルト六世の王妹で、ファブレ公爵家に降嫁してきた身だ。必然的に現王室に一番近い存在であるだけに、姪であるナタリアも足繁く屋敷に通ってくる。
当然子供がわりにと引き取られたアッシュとルークとも親交は深く、彼女もこの小さな耳族の子供達を本当の従兄弟とも弟たちとも思っていた。

「もちろんですわ。ルーク、あなたバレンタインの本当の意味を知らないのですか?」
「本当の意味?」

こてんと首を傾げたルークに、ナタリアは少し得意げに胸を張って続けた。

「バレンタインとは、女性が殿方に日頃胸に秘めた好意を伝えるための日なのですよ」
「こうい?」
「つまり、愛の告白のことですわ」

すぐには理解できなかったのか、ルークは一瞬ポカンとした顔でナタリアを見上げた。しかしすぐに我に返ると、えええええっと驚きの声をあげた。

「じゃ、じゃあ去年俺がもらったチョコって!」
「バレンタインにはもうひとつ、挨拶がわりにチョコを本命以外の殿方にさし上げる習慣もあるのですよ。もちろんお世話になっている方や、好ましいと思っている相手にだけですが。わたくしも、去年あなたにさしあげたでしょう?」
「う、うん…」

たしかにルークは、去年ナタリアからチョコレートもらっている。だけどそれはたしかに「愛の告白」なるものとはちがうことくらいは、さすがにわかっている。

「じゃあ、男の俺がチョコをあげるのは変なのか?」
「一般的ではないかもしれないですが、絶対に変というわけではないと思いますけれど」
「でも、なんでアッシュは怒ったんだ? もしかして、俺がガイに愛の告白をするとか思ったのか??」
「あらルーク、あなたガイのことが好きなのですか?」

あらまあと目を瞠ったナタリアに、こくりと小さな頭が頷く。

「でも俺、ナタリアのことも好きだぞ」
「あら、ありがとう」

見合ってにっこり微笑み返し。

「アッシュが怒ったのは、あなたがガイにチョコレートをあげるといったからだと思いますわ」
「なんで?」
「自分が好きな相手が他の人にチョコレートをあげるなんて聞いたら、心穏やかでいられるはずがないでしょ?」
「そうか〜?」

ますます不思議そうに首を傾げるルークに、ナタリアはくすりと小さく笑った。

「ルーク。もしアッシュがガイにチョコレートをあげたのに、あなたには何もくれなかったらどう思います?」
「冗談じゃねえ! ふざけんなってーの!」

うがっと叫ぶように答えてから、ルークはきょとんと目を丸くした。

「ああああああっ! そういうことかあっ!」

昨日の会話を高速で反芻しなおしたルークは、ばったりとテーブルの上に突っ伏した。ちょっとこれは、怒られても仕方がないかも。

「わかったところで、提案ですけれど」
「……うう」
「ルークっ、聞いているのですか?」
「……うう、はい…」

ぺたりと耳を伏せながら小さく頷いたルークの頭を、ナタリアの柔らかな手が撫でる。

「ルーク、よろしかったらこれから一緒にチョコレートを買いに行きませんこと?」
「…へ?」

がばりと顔をあげたルークに、ナタリアは花のように笑う。

「一緒にお出かけして、アッシュへのチョコレートを買いましょう。もちろん、ガイにもね。今日ばかりは男の子だけでチョコレートを買うのには、相当の勇気が必要ですわよ」
「ナタリア……」

感激したように上目づかいに見上げてくるルークに、ナタリアはそっとその小さな手を取った。

「そして、今夜はわたくしのところに泊まりなさい。明日一緒にお屋敷に行って、アッシュを驚かせましょう?」
「おう!」

ようやくへたった耳と尻尾がいつものように元気を取り戻したのを見て、ナタリアは自分のことのように嬉しそうに笑った。


そして、その後二人は街にくり出してチョコレートを買い求めると、ルークはナタリアに言われたとおりに王宮に泊まることになった。
その夜、王城のすぐそばにあるファブレ公爵邸の離れでは、一人でベッドにもぐり込むことになったアッシュが結局眠れずに朝を迎えることになった。
そして王城に泊まったルークは、真夜中になってからやっぱり家に帰るとさんざんぐずりながらも、王女のベッドで泣きつかれて沈没することになる。


その翌日。真っ赤に目を腫らしたルークからチョコをもらった二人は、一人は真っ赤になりながらその場から走り去り、もう一人は感激のあまり思いきりルークに抱きつこうとして、王女の鏃の錆になりかけることとなるのだった。



END