チェリー




 中庭を吹き抜ける風に本のページを捲り上げられかけて、アッシュは慌ててページの端を押さえた。
 どうやら、本を読みながらぼんやりとしてしまったらしい。アッシュはふるふると何度か頭を振ると、もう一度ページの上に目を落としかけてから、諦めてきっぱりと本を閉じた。
 もともと、気が紛れるかと思って読み始めた本だ。すでに何度か読んでいるので、内容もすっかり頭に入っている。
 アッシュは長いしっぽをパタリと振ると、ちらりと母屋の方へ目を向けた。
 母屋にはいま、ファブレ家の主治医が奥方であるシュザンヌの定期診察にやってきている。だがアッシュが落ち着かないのはそれが原因ではない。
 半月前、ひょんな騒動があって、アッシュはもう二度と戻れないと思っていた懐かしいこの屋敷に、戻ってくることができた。だがその騒動の際、いまはアッシュの弟として一緒に暮らしているルークがかなりひどく足を捻り、その治療がずっと続いているのだった。
 ルーク本人はまわりが過保護すぎるとむくれているが、もともとちょっと危なっかしいところがあるので、まわりが許さない。さらに言うなら、今回の負傷の原因も勝手に屋敷を抜け出したことにあるので、ルークには反論が許されていないというのが実情だったりする。
 アッシュはパタパタと何度か尻尾を振ると、小さなため息をついた。
 出会ったときには、まさかこんなふうに相手のことを案じて自分が思い煩うようになるなんて、思ってもみなかった。なにしろ第一印象はおたがいに最悪だったのだから。
 しかし運命はまわっていま自分はここにいる。そして、可愛くて仕方がない弟のことを案じている。わからないものだ。
 そんなことをぼんやりと考えていたアッシュは、母屋の扉が開く音を聞きつけてぴこんと真っ黒な耳を立てた。はたしてそこには、ガイに抱きあげられたルークが泣きべそ半分の顔でいた。

「どうした?」

 本を抱えたままアッシュが小走りにルークの方へ走り寄ってゆくと、ガイが半笑いするような顔でルークの頭を撫でていた。

「ははは……。注射されて、ちょっとびっくりしたんだよな」

 よしよしとすっかり短くなってしまったルークのひなげし色の髪を軽く叩いてやると、ガイはルークをアッシュの目の前におろそうとした。ところが、ルークがガイにしがみついて離れない。
 ぴくん、とアッシュの黒い耳が揺れる。
 ちょっぴり心配そうにルークを見ていたアッシュの目がすっと細められると、不機嫌そうにぱたりと低い位置で尻尾が地面を叩く。いわゆる、なんだてめえいい度胸じゃねえかって目である。

「ほら、ルークいいかげんにしろ。アッシュが見ているぞ」

 すばやく小さなもう一人のご主人様の不興を読み取ったガイは、背中を丸めて自分にしがみついているルークの背中をぽんぽんと軽く叩くと、こんどこそちゃんと地面におろした。

「アッシュ〜!」

 ルークはおろされると、べそべそと泣きながら今度はアッシュにしがみついた。
   しがみつかれた方のアッシュは一瞬尻尾をふくらませたものの、まんざらでもない様子で耳を嬉しそうにぴこぴこと動かしている。そのげんきんな反応にガイは笑いをこらえながら、とりあえず少し離れた場所から二匹の様子を見守ることにした。

「注射くらいで泣くんじゃねえよ、屑が」
「だ、だって! チクって……!」
「注射なんだから痛いのは当たり前だろうが」

 あうあうと訴えてくるルークに、アッシュは呆れたような表情を向けた。

「そんなんだからいつまでもガキくせえんだよ、てめえは」
「うう、だって……」

 注射の痛みを思い出したのか、せっかく立ち上がりかけていたルークの耳がまたへにゃりとへたる。

「注射の一本くらい耐えろ。ったく大げさな奴め」
「じゃ、じゃあアッシュは平気なのかよっ」

 瞳に涙をためながら、さすがに言われ放題なのにムッときたのかルークが反撃してくる。

「当たり前だろ? 街で暮らしていたときは、そんなもんよりずっと痛い目も見ていたんだからな」
「そ、そうだったっけ……」

 へにょっ、とルークの耳がへたる。それを見て、アッシュは自分が失言をしたことに気が付いたが、もう遅かった。
 アッシュの一年以上に及ぶ街暮らしは、間接的にはルークにも原因がある。もっとも、単にアッシュが意地を張っただけなのだから気にすることは何もないのだが、どうにも一番最初に怒鳴りつけたのがいけなかったらしい。
 いまだにルークの中では、アッシュに対する小さな罪悪感の芽が生きている。それはいくらアッシュが否定しても摘みきれるものではなくて、たぶん時間が解決するより他にないとわかっているのだが、その存在を感じると、やはりいたたまれない気持ちになる。

「とっ、とにかく! ンないつまでもびーびー泣いてんじゃねえよ」
「……うん」

 ごまかすようにわしわしと頭を撫でてやると、ようやく笑顔が出る。それに内心ホッと胸をなで下ろしていたアッシュは、ガイの視線に気が付いて座った目をそちらにむけた。

「なんだ」
「いや、話は終わったのかなあと思って」
「なんか用か?」
「おう、お前にな」

 にこりとむけられたガイの笑顔に、なぜか嫌な予感がした。

「先生がな、おまえがいない間にやらなくちゃいけなかった予防接種があるっておっしゃっていて、ルークを連れて行くついでに呼んできてくれって」

 アッシュの耳がピッと立ち上がり、硬直する。

「いやあ、助かったぜ。必要ないとかなんとか、言い訳されないで」
「……てめえ」
「アッシュも注射するのか! おそろいだなっ!」

 さっきまで泣いていたくせに、お揃いということだけで嬉しくなったのかぱたぱたと嬉しそうにルークの尻尾が揺れる。そのあまりに頭の温かい弟の反応に、アッシュは思いきりその頭をはたいていた。

「いってえ! なにすんだよっ!」
「うるせえっ! この屑がっ!」
「んっ? もしかしてアッシュも注射嫌いなのか?」
「ンなわけねえだろ! てめえじゃあるまいし」

 こんな時だけ無駄に察しのいいルークの頭をもう一つ叩く。さらにもう一回手を上げようとしたところで、アッシュはひょいっと後襟を掴まれて持ち上げられた。

「さあて、遊んでないでさっさと済ませような」
「なっ! テメエはなせっ!」
「ルーク、部屋に戻って良い子にしていろよ。後でプリン持って行ってやるからな」

 ジタバタと暴れるアッシュをぶら下げたまま、ガイはにこりともう一人の小さなご主人様に笑いかける。
 プリンという単語に目を輝かせたルークはこくこくと大きく頷くと、浮かれた足取りで部屋の方へ走っていってしまった。
 あっさりとプリンに負けたアッシュはその後ろ姿を呆然と見ていたが、いきなり目の高さが変わったことに目を丸くした。

「さっ、先生がお待ちかねだぞ」

 ガイの青い瞳が、間近で笑う。アッシュは自分がガイの肩に担ぎ上げられたことを知って、思いきりガイの頬を尻尾で叩いてやった。

「……てめえ、後で覚えていろよ」
「なんだ? 別に注射の一本くらいどうってことないんだろ?」

 ガイのあげあしを取るような言葉に、アッシュは恨みのこもった目をむけた。

「終わったら、たっぷり生クリームかけたプリン食べさせてやるから」
「……ンなガキくせえものにつられるのは、ルークだけだ」
「だったら、お兄ちゃんなんだから弟に手本見せてやれよ」

 ぎゃあぎゃあ泣いて大変だったんだからな。そう言って笑うガイに、アッシュはまだふて腐れた顔のままぱたりと尻尾を振った。

「サクランボのキルシュ漬けをひとつ増やせ」
「ご主人様の仰せのままに」

 意地っ張りな小さなご主人様の要望に、ガイは小さな体を抱きかかえあげたまま小さな笑い声をあげた。
 まったくもって、このお子様たちは見ていてあきない。
 ガイは愛しそうに目を細めると、ふて腐れているお子様の頭を優しく一撫でしたのだった。




END(08/07/30)



にゃんこたちは注射嫌い。