はじまりは、様式美から




「まあ、素敵ですわ」
 そう王女は華やかな声をあげると、にこりと微笑みを浮かべた。
「だろ?ナタリアならわかってくれると思ったんだよな」
 こちらもにっこりと花のような笑みを浮かべて、ルークはナタリアの手を取った。
 明るい春の昼下がり、王城のテラスでのその風景は、まるで周囲の空気に花が飛んでいるかのようにほのぼのとして、なかなか微笑ましい。
 しかし、若い男女がそうやって手を取り合っていても恋人同士に見えないところが、この二人の関係がそういう甘いものではないことを如実に物語っている。
 もっとも、実際そういった感情はこの二人のあいだにはないので、なんら問題はない。
 ナタリアの方には以前はルークに対して淡い恋心のようなものがあったが、今ではすっかりそれは過保護な姉のような保護欲へと取って代わられている。
 彼女にとってこの年下の従兄弟は、いまでは庇護すべき弟同然のような存在だった。
「じゃ、そういうことで!頼んだぜナタリア」
「わかりましたわ」
 ナタリアは自信たっぷりに頷くと、うっとりと夢見るような目つきで指を組んだ。
 ナタリア・L・K・ランバルディア。彼女は勝ち気で行動的であると同時に、無敵の夢見る乙女でもあった。
 そして、乙女モードにはいった彼女を止める者は誰もいない。
 そんな命知らずがいたら、お目にかかりたいほどだ。
「最高の物を用意いたしますから、楽しみにしていてくださいましね」
 そして、そう胸を張って言い切ったナタリアをルークは頼もしく見つめ返しながら、互いに共犯者の笑みを浮かべたのだった。



「ガイ、ガーイ〜!」
 自分の名を呼ぶ声とともに、バタバタと公爵家の邸内とは思えないほど騒がしい音が玄関から聞こえてくるのに、ガイは薄く笑みを浮かべた。
 そして、騒がしい音を立ててこちらにやってくるご主人さまを迎えるために玄関の方へ足を向けると、ちょうど中庭の入口あたりでルークがこちらにやってくるのが見えた。
「おかえり、ルーク」
「ん、ただいま」
 自分の姿を見るなり、ぱっと顔を輝かせて小走りに自分の前までやってきたルークを、ガイは苦笑混じりに見下ろした。
「お前な、もうすこし静かに廊下を歩けよ。アッシュにまた怒鳴られるぜ」
「どうせ今日はいねえじゃん」
 不服そうに軽く頬をふくらませたルークに、ガイは肩をすくめる。
「ンなこと言っていると、うっかりアッシュがいるときに同じことやったりするぞ?」
「そんなドジ踏まねえよ」
 小さく鼻をならしたルークに、ガイは内心どうだかと苦笑いする。
 二人揃ってこの世界に帰還してからの赤毛の少年たちは、以前の関係の悪さが嘘のように、まるで本当の兄弟のように暮らしている。
 もともとルークの方は、アッシュに対して一種の憧憬のような好意を抱いていたので、その態度になんの違和感もなかった。だが、アッシュがルークに対してあれほどまでに過保護な兄馬鹿ぶりを見せるようになるとは、誰も予想し得なかったことだった。
 だが、アッシュも闇雲に甘いだけではない。
 厳しくするところでは厳しくと言うのが彼のスタンスなのか、甘やかすのと同時にきつい言葉を投げつけることも当然ある。
 うっかりするとそれこそつかみ合いの喧嘩にまで発展することも珍しくないのだが、周囲から見れば微笑ましい兄弟喧嘩にしか見えない。
 二人の仲が良いことはもちろん歓迎すべきことなのだが、ガイとしては少々複雑な気分にさせられることがないわけではない。
 なにしろルークは、自分のご主人様であると同時に恋人だったりもするのだ。
 いくら兄弟同然の間柄とはいえ、自分の恋人が他の男と仲良くしている姿を見るのは、やはり面白くない。
 それでもルークが幸せそうに笑っているならそれでもいいか、と考えてしまうところが、ガイのルーク優先思考を雄弁に語っていた。
「ンなことより、話があるんだ」
 きょろきょろと周囲を見回してから突然声のトーンをさげて切り出したルークに、ガイは軽く目を瞠った。
「なんだ?改まって」
 ルークはもう一度あたりを見渡して人影のないことを確認すると、ガイの顔を見上げて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「なあ、俺と駆け落ちしない?」



 自分の言葉に空色の瞳が驚きに見開かれるのを見て、ルークは一瞬だけまずっただろうかと考えた。
 だが、よく考えてみなくても突然そんなことを言われたら、驚かない方が珍しい。
 さてどんなリアクションが返ってくるか、とルークが心の中で身構えたところで、ようやく我に返ったらしいガイが口を開いた。
「いいぜ」
「……は?」
 今、なんておっしゃいましたか?
「で、いつにするんだ?今夜だと、ちょっと支度がまにあわないか……」
 ふむと顎に手を当てて思案するように、ガイが呟く。
「追っ手から逃げるんだから、水と食料も用意しておかないとな。あと、お前の頭は目立つから地味なフード付きマントも用意しないと……」
「えーと、ガイ?」
 もしもしと呼びかけると、なんだとあまりにもいつもと変わらない笑みが返ってくる。
「止めねえの?」
「止めて欲しいのか?」
 反射的に首を横に振る。
 もちろん、そんなことはない。ただあまりにあっさりと受け入れられすぎて、正直拍子抜けしているというのが正しいだろう。
 ガイが自分に甘いのは誰もが認める事実だが、さすがにこんな突拍子もないことは笑い飛ばされるだろうから説得しなければ、と意気込んでいたのに。
 なんとも複雑な顔になったルークに気付いたのか、ガイが少し意地の悪そうな目をむけてくる。
「なんだよ、嬉しくないのか?」
「んなことねーよ」
 それは嘘ではない。
 ただ、どうにも調子が狂う。
「馬鹿だな、俺がお前の頼みを断るわけないだろ」
 小さく唸りながら自分を見上げているルークの頭を苦笑混じりに撫でながら、ガイはそっと額に掠めるようなキスを落とした。
「それで、決行はいつなんだ?ご主人様」
 浮かんだ笑みは、共犯者のそれ。
 それにようやくルークの唇にも、笑みが浮かぶ。
「決行は、明日の夜だ!」



 コツンと小さく窓ガラスを叩くと、待ちかねていたように窓が開いた。
「遅い」
 第一声から少々ご機嫌斜めなようなご主人様に、ガイは苦笑しながらまるで姫君を迎えるように手を伸ばした。
「……なんだよ」
「駆け落ちなんだから、それらしくしないとな」
 深窓の姫君にしてはがさつで色気も微妙だけれど、こういうことは形式にのっとるのが筋というものだ。
「姫君、お手をどうぞ」
「……素で、ンな恥ずかしいこといってんじゃねーよ」
 ぶっきらぼうに答えながらもちゃんと手をさしだしてくる辺りは、ルークもわかっている。これがアッシュだったら、間違いなくさしだした手を切り落とす勢いで剣を抜くだろう。
 ガイの手を借りて音もなく地面に降り立ったルークは、昼にガイが買い求めてきたマントのフードを目深に被ると、その下からにやりと子供っぽく笑った。
「なんか、すげえドキドキする」
「屋敷を抜け出すのなんて、初めてじゃないだろ」
「でも、目的が違うだけでこんなにドキドキするものなんだな」
 そう言って少し恥ずかしそうに笑った顔に、ガイは反射的に彼を抱きしめなかった自分の自制心に思わず感心していた。
 人差し指を唇の前に立てて沈黙を命ずると、ルークは目線だけでついてこいと促して先に動き始める。
 その後ろをついて行きながら、ガイはだんだんと自分の心もルークに負けず劣らず高揚してゆくのを感じていた。
 ファブレ家での平和で穏やかな生活は、たしかに充足感があった。
 ルークを失うのではないかという不安に怯えていたあの日々に比べて、まるで昔に戻ったように穏やかなこの箱庭のような屋敷での生活は、嘘のように心も穏やかでいられた。
 だけど、やはり心のどこかではそれでは物足りないと思っていた。
 平和であればあるほど、近くにあるのに遠くに感じることがある。
 互いに手を取り合う相手として認めていても、この屋敷にはルークが大切に思っている相手がたくさんいすぎる。
 心が狭いと責める者は、自分の心を偽っているのか本当の恋をしたことがない者だろう。
 誰よりも愛している相手の幸せを望む一方で、自分だけのものにしてしまいたいという欲求を感じることは、ごく自然なことだ。ただ、その心の闇に耳を傾けることが危険だと言うことを誰もが知っているから、あえて表には出さないだけなのだ。
 二人きりで駆け落ちと称して旅に出ることは、その暗い欲求をわずかにだが満たしてくれる。
 前をゆく自分よりも小さな背中を見つめながら、ガイは新たに自分の中に芽生えた小さな喜びを噛みしめていた。



 街を足早に駆け抜け、外へと続く大橋を渡ると、ルークは一度背後にそびえるバチカルの街をふり返った。
 しかしその横顔には、なんの表情も浮かんでいない。だがそれも一瞬のことで、こちらに戻された顔には期待に満ちた笑顔だけがあった。
「それで、どうするんだ。とりあえずケセドニアか?」
「そうだなあ……。あ、こっちこっち」
 不意にルークは手をあげると、近くにある森の方へ向かって手を振った。
 ルークの突然の行動にガイが目を丸くしている間に、その手に答えるように森の方から一台の馬車がこちらにやってきた。
 夜に紛れるように、車体は黒。見た目を質素に装われているが、かなり高級な作りのものなのだと車輪の音でわかる。
 滑るようにやってきた馬車は二人の前で止まると、中から扉が開かれた。
「ごきげんよう、ルーク。ガイ」
「な、ナタリア!」
 涼やかな声と完璧なプリンセススマイルで現れたのは、今彼らが後にしてきた街の王城で眠っているはずの王女様その人だった。
「なんで、君が……?」
「駆け落ちのための逃走手段を、ルークに頼まれましたのよ。駆け落ちと言えば、月夜に四頭立て馬車ですわ!」
 腰に手を当てて誇らしげにそう答えた彼女に、ガイはそのまま地面に膝をつきたくなる衝動をかろうじてこらえた。
 どこの世界に、駆け落ちのための相談を身内にする者がいるのだろうか。いや、それ以前にどうしてこの王女様はそれを止めなかったのか。
 だがよく考えてみれば、駆け落ちなどと言うロマンの集大成のような事態に、ナタリアのような夢見がちな女性が共感しないはずがない。
 ただでさえ乙女思考が強いところに、駆け落ちの手助けを求めてきたのが今では弟同然に可愛がっているルークなら、彼女が一も二もなく手を貸したことは不思議ではないだろう。
 手を取り合って喜んでいる二人を横目で見ながら、ガイは大きなため息をひとつついた。
「……まさかとは思うけれど、君もついてくるとか言わないよな?」
「まあ、あたりまえですわ。駆け落ちに同行者がいてどうします」
 呆れたというように水色の瞳を見開いた彼女に、最悪の事態は免れたとガイは頭の中だけで胸をなで下ろす。
 なにしろこの正義感の塊のようなお姫様なら、安全な場所に行くまで同行すると言い出しかねないのだから。
「私にはもっと重要な役目がありますのよ。アッシュの足止めという」
「やっぱり母上だけだとちょっと心許ないしな」
「……はい?」
 今なんて言いましたか?
「ルーク、ちょっと聞いて良いか?」
「なんだよ改まって」
「……その、俺の聞き間違いじゃないなら、奥様はこの事を知ってらっしゃるの、かな?」
 まさかな、と乾いた笑みで問うたガイの期待を、このお子様は無惨にも打ち砕いてくださった。
「当たり前だろ?黙って俺がいなくなったら、大騒ぎになるに決まってるじゃねーか」
「叔母様からは、全面協力の約束を取り付けているのですよ。ね、ルーク」
 親公認の駆け落ち。
 それはもう、正確には駆け落ちとは言わないのではないだろうか。
 思わず目眩を感じながらガイはかろうじて己を保つと、不思議そうな顔で自分を見ている天然二人組を見下ろした。
「ンだよ」
「……いや、別に」
 この二人に一般的な常識を求めるのが無理なことは、長いつきあいからわかっている。それにしても、これはかなり常識外れではないだろうか。でも……。
 突然笑い出したガイに、二人はますます不思議そうな顔になった。
 そういう顔をしていると、ファブレ家の庭でともに転げまわった子供の頃の顔と全く変わらない。
 結局は、いつだってこの二人に自分は振り回される運命にあるのだろう。
「それじゃあ、ナタリア。後のことは頼んだよ」
 あらためて彼女に向き直ってそう笑えば、もちろんと蜂蜜色の髪が軽やかに揺れる。
 この駆け落ち騒ぎにはきっとなにか理由があるのだろうけれど、そんなことはどうでもいい。
 どんな理由があったとしても、しばらくの間自分がこの愛しい少年を独り占めできることには、変わりがないのだから。
 ルークが駆け落ちだと言い張るのなら、それはそれでいいだろう。
 この分だと、おそらくアッシュだけがこの事を知らされていないのだろう。この事が知られれば、まちがいなく彼は後を追ってくる。追っ手を振り切って手に手を取って逃避行、というのもなかなかスリルがあるものだ。
「たまには、連絡をくださいね。ルーク」
「わかってる」
 そう笑いながら馬車に乗りこんだルークに続いて中にはいると、ガイは馬車の扉を閉めた。
 思っていたとおり、最高級しつらえの座席に腰をおろすと、さっそくルークがくっついてくる。
「ありがとうな」
 そして、頬に軽く落とされるキス。
 呆気にとられた顔をしている間に、ルークは恥ずかしさを誤魔化すように窓から身を乗り出した。
 動きだした馬車の窓から遠ざかってゆくナタリアに手を振る少年を見下ろしながら、ガイは浮かんでくる笑みを押さえきれずにいた。
 

 いつだって、この小さなご主人様には振り回されてばかり。
 だけど、それを幸せと感じてしまう時点で、もうどうしようもないのかもしれない。
 とりあえず、いま自分の膝に乗るようにして外に身を乗り出している子供をどうするべきか、ガイは頭を働かせはじめた。



END(07/05/30)

もう少しテンポが良いと良かったかも。この後、アッシュからの便利連絡網攻撃があるに違いない。