月の話




「なにしているんですか?」

不意に後ろから聞こえたのんびりとした声に、アッシュは黙ったまま後ろをふり返った。

「こんなところでそんな薄着のままでいると、風邪を引いちゃいますよ」

そういって呑気に笑ったギンジは、手に持っていた二つのマグカップの片方をアッシュの方へ差しだすと、彼がなにも言わないうちにさっさと隣に座りこんでしまった。

「メンテナンスはどうした?」
「終わりました。機体はウルシーさんが見ていてくれるそうなんで」

たまには地上に降りて歩いてきたらどうだっ、て言われちまいました。ギンジは照れくさそうにそう言うと、頭をかく。
そういえばいつもアルビオールで留守番していることが多かったなと思い出して、アッシュは自分がそこまで考えてやる余裕がなかったことに、今更のように気がついた。

「どうもおいらは譜業とかを弄っている方が楽しくて、つい外に出ることを忘れちまうんですよね。妹にもよくそれで怒られました」

そんなアッシュの心を読んだように、ギンジは明るい笑い声をあげる。
ギンジの妹はいま、ルークたちと共に行動している。
アッシュも会ったことがあるが、ぽややんとした兄とは対照的なしっかりとした女性だった。たしかに彼女なら、このどこか頼りない青年の尻を叩いて色々世話を焼いてただろうという姿を容易に想像できた。
なにしろアルビオールの操縦や譜業に関しての腕はピカイチなくせに、ギンジは地上では空での頼もしさが嘘のように頼りない。空では絶対に迷ったりなどしないのに、街中に連れ出せば人にぶつかるわ道に迷うわで、目が離せない。
しかしその度に怒りながらも、アッシュは彼が嫌いではなかった。
ギンジは、かつては幼なじみとして慕っていたガイを思いおこさせる部分が多いのだ。やわらかな笑顔も優しいところも、そしてなによりも譜業の話をするときに一番嬉しそうな顔をするところも……。
もちろんそれを口にしたこともないし、深く考えてみたこともない。だけど彼を自分が嫌いになれないのはそれが一番大きな理由であることを、アッシュは心の中だけで認めていた。

「月を見ていたんですか?」

のんびりとしたギンジの声に、アッシュはふと我に返った。
小さく瞬きして隣を見ると、人の良さそうな笑みを浮かべたギンジがこちらを見ている。

「綺麗な月ですよね、今夜は。こういう夜に空を飛ぶと、すごく気持ちが良いんですよ。ちょっと危ないですけれど……」

ギンジが渡してきたマグの中身に口をつけて、アッシュはかすかに顔をしかめた。蜂蜜の味がする濃いミルクティ。だけどその甘さが、なぜか染みるように温かい。

「……月を目指して飛んでいると、どこまでも飛んでいけそうな気がするんですよ。だけど、晴れた青い空の下を飛んでいる時のような爽快感とはまたちょっと違って、世界に自分と月しかいないみたいな気持ちになるんです。だけどそれがまたちょっと気持ちよくて、だからちょっと危ないんです」

何故だと目で問うたのがわかったのだろう、ギンジはほにゃりと笑みを浮かべた。

「そうやって飛んじゃうとね、一瞬ですけれど自分の位置を見失っちゃうんですよ。気がついてまわりを見たら真っ暗な夜で、月の明るい夜は星もよく見えませんから、だから怖いですよ」

そう言いながらも、ギンジの目は楽しげに笑っている。

「でも、おいらは月が好きですよ。綺麗ですからね」
「おまえは呑気だな……」
「あ〜、よく言われます。それよりも、アッシュさんも好きなんですか?」
「なにがだ?」
「月。さっきからずっと見ていたし、珍しくおいらの気配にも気がつかなかったでしょ」

その言葉にアッシュは一瞬だけ顔を強ばらせると、すぐにいつものように顔をしかめた。

「くだらねえことを気にしてんじゃねえよ」
「そうですか?」
「それに、別に俺は月に特別な思い入れがあるわけじゃねえ。むしろ嫌いな方だ」
「そう、なんですか?」

意外だと言うように目を瞠ったギンジに小さく舌打ちすると、アッシュは空になったマグをギンジに押しつけるようにして返して立ち上がった。
ギンジも心得たもので、黙ってそれを受け取るとそれ以上なにも言わない。
本当に時々だが、そうやって自分の回りにいる彼らが黙って自分を見つめる時、アッシュは自分がまだ大人になりきれていないのだと強く思わされることがある。自分では色々と考えて心を強くもって生きているつもりでも、こうやってやわらかく受け止められると、わけもなく喚きたくなる。



足早にその場から遠ざかると、アッシュは睨むようにして月を見あげた。
月を嫌いだと言ったのは本当だ。
夜の世界でだけ光り輝く事の出来るあの天体は、まるで今の自分のようだから。
聖なる焔の光をただ映すだけの、鏡のような存在。認めたくなくても、それがいまの自分だ。
もとの場所に戻るつもりはないとくり返し言うのも、本当はもうそこに自分よりも明るい光があることを知っているから。
昼の世界からはじき出された、夜の光。それでも無心に太陽を映す月が、だから嫌いだ。
だがそれでも知らぬうちに見上げてしまうのは、どうしてなのか。


きっとその答えは、誰も知らない。




END(08/05/13)(初出07/11頃?)



拍手にこそっといたギンジとアッシュの話。