春うらら




 
 世界の南半球側に属しているバチカルは、春の訪れが早い。
 新年を迎えてすこしすると、すぐに春の象徴といわれる萌葱色の葉を持つ黄色の花があちこちの地面からのぞく。
 そしてその花に誘われたように強い南風が吹くと、本格的な春がやってくる。



「えっ?うわわっ……!」
「ちょっと!なにやってんのさ!」

 バチカルの最上階にある、大貴族の屋敷が建ち並ぶ一画の中でもひときわ広い敷地を擁するファブレ公爵家。そのすっかり春めいた陽射しがふりそそぐ屋敷の中庭で、そんな二つの声が相次いであがった。
「あーもう!あんたはこっち押さえておいて!」
 苛立ちを隠そうともしない声があがり、テラスの中から一人の少年が飛び出してくる。
 彼はまるで風さながらの早さで中庭を走ってゆくと、風に飛ばされてゆく何枚もの紙をすべて集めてから戻ってきた。

「まったく、手間かけさせるんじゃないよ!」
「ご、ごめん…」

 テーブルの上に散らばった紙を必死にかき集めていた赤毛の少年──ルークは、ばさりと不機嫌そうに紙の束を渡してきた彼の機嫌をうかがうように、上目づかいにその顔をみあげた。
「なに?」
 冷たい視線を向けてくる少年に、うっとルークはたじろいだように視線を泳がせた。彼はそんなルークを見て呆れたように肩をすくめると、向かい側にある椅子に乱暴に腰をおろした。

「部屋の中で勉強するのは息が詰まるって言っていたのは、誰だっけ?」
「俺です……」

 じりじりとルークの視線が落ちてゆく。

「で、僕がちょっと席を外しているあいだに、君はここでなにをしていたわけ?」
「……勉強」
「へぇ。君の勉強は、紙に涎をたらすことだったんだ?」
「涎なんかたらしてねえよ!」
「でも、寝ていたことは認めるんだね」

 追い打ちのようにかけられたその言葉に、ルークはがっくりと肩を落とした。
「シンク〜、おまえ、言い方きつい」
 それでもジトっと上目づかいに自分を見あげてくるルークに、シンクはちいさく鼻を鳴らした。

「馬鹿に丁寧な言葉使ったって仕方ないだろう?」
「でも、一応おまえは俺の使用人なのに!」
「あの親馬鹿だって、あんたにまともに敬語なんて使ってないじゃないか。なのに、なんで僕があんたに敬語つけなきゃいけないのさ」
「う〜〜っ!」

 口ではかなわないことはわかっているはずなのに、毎度のことながら学習能力がない。シンクは内心呆れながら、まだ自分を見て唸っているルークにむかってすっと目を細めた。

「わかってると思うけど、それ終わらせないとお茶はおあずけだからね」
「ええぇっ!シンク横暴!」
「ああもう!うるさいよっ!」

 往生際悪くまだ文句を言っているルークを怒鳴りつけると、シンクは頭痛をこらえるように額に手をやった。
 まったく、なんで自分はこんなお子様の面倒を見ているのだろう。
 そもそも自分がここにいること自体が、まだ悪い冗談の中にいるような気がするというのに。
 しかし、いくら頬をつねったとしてもこれが現実であることは間違いなく、しかもありえなことにこの日常に慣れつつある自分がいるのも確かだった。



 あのエルドランドでの戦いで、たしかにシンクは一度音素に還って音符帯に戻ったはずだった。
 しかし次に目覚めたときには、なぜかいま目の前にいる赤毛の少年に抱きしめられたまま草原に転がっていたのだった。
 もちろん、一番最初はその場を逃げ出すことを考えた。
 だが思いの外シンクを抱きしめているルークの力が強かったことと、ここで逃げてもどこに行けばいいのか思いつかなかったことが、シンクの行動を妨げた。
 ついでに言うなら、どうしてこんなことになっているのか、この少年に問いただす必要もあった。
 決断してしまえば、行動は早かった。
 のんきな顔で寝こけている少年を無理やり引きはがすと、シンクは襟首を掴んでルークを揺さぶり起こした。
 寝起きの悪さを想像させるボケっぷりで目を覚ましたルークは、シンクの顔を見るなりなにも言わずに抱きついてきた。
 慌てて引きはがそうとしても、今度はなかなか離れない。
 業を煮やして殴りつけてやろうとしたシンクは、まさに一発拳をたたき込もうとした寸前のところで、自分にしがみつくようにして抱きついてきているルークが小さく鼻をすする音を聞いてしまった。
 よく見れば、目の前にきているルークの肩も小刻みに震えているのがわかった。
 顔が押しつけられた肩のあたりも、こころなしか熱く湿ってきている気がする。
 そう気づいてしまったら、今まであった苛立ちが嘘のように引いてしまった。
 これはまずい、と心の中で警鐘が打ち鳴らされる。
 ほだされるような情が自分の中にあるはずがないのに、引きずられていくような気がする。
 そこではじめてシンクは、自分の中に自分以外の記憶があることに気づいて小さく舌打ちした。
 そのもう一つの記憶が、いま自分を抱きしめている存在を懐かしいと思っている。
 シンクはそんな自分の感情に必死に逆らおうとしたが、一度感じてしまった温かな感情を追い出すのは難しかった。
 そんな葛藤の中で、それでもシンクは精一杯の抵抗を試みた。
「……鼻水、つけないでよね」
 そう嫌味をこめて呟くことだけが、彼ができた唯一の抵抗だった。



 その後、ルークを迎えにやってきた彼の半身と一戦を交えそうになったのを、ルークとその仲間達に止められて、うやむやのうちにシンクはルークと一緒にバチカルへと連れてこられた。
 そして、なぜか現在はファブレ家に、ガイとともにアッシュとルークの補佐役兼使用人としておさまっていた。
 


「シンク、お〜い、シンク?」
 怪訝そうなルークの呼び声ではっと我に返ると、心配そうな顔をしたルークが身を乗り出してこちらをのぞき込んできていた。

「具合でも悪いのか?いくら呼んでも返事しねぇし」
「君の馬鹿さかげんに呆れてただけだよ」
「だーっ!むかつくっ!」

 心配して損した、とむくれるお子様に、シンクはうっすらと唇の端をあげた。
「馬鹿にされたくないならさっさとそれ、終わらせなよ。あんただって全く馬鹿なわけじゃないんだから、それくらいできるでしょ?」
「……それ、褒めてるのか?」
「さあね」

 ニヤリと笑ったシンクに、ルークはびくりと肩を小さくふるわせながらこちらをうかがうような目をむけてきた。

「……シンクが優しいこと言うなんて、ありえねえ」
「ふぅん。ルークは、お茶うけのイチゴのタルトはいらないんだね」
「うそうそ!いります!いるってば!」
 慌てて首を横に振ると、ルークはうって変わって幸せそうな顔で笑った。
「なあなあ、シンクの新作?」
「愚問だね」
「やった!」

 両手をあげて満面に笑みを浮かべたルークに、シンクも優しげな苦笑を口元に刻む。

「ま、食べたかったら頑張るんだね」
「おっしゃ!」

 そう気合いを入れて必死に問題と格闘しはじめたルークをながめながら、シンクは頬杖をついた。  まったく、自分でも呆れるくらいにこの少年に毒されていることを実感する。
 なんのかの言いながらもついかまってしまうし、じゃれつかれれば本気で振り払うこともできない。あまつさえ、この自分が誰かの喜ぶ顔がみたいがために行動するなんて、以前なら考えられなかったことだ。
 それもこれも、目の前のお子様のせいで。
 でもそれが鬱陶しいと同時に、どこかくすぐったい甘さを感じてしまう。
 


 君のためになにもかも差しだそうとは思わないけれど、片手くらいはあずけてやってもいい。
 そんなことを思っている。
 しかしそう思うこと自体、すでにこの存在に参りはじめている証拠だということに、彼はまだ気がついていない。
 

 世界はようやく春をむかえる。


END
(07/03/07)


でもシンルクじゃない。