ひねくれ者の幸福論




 
 小さなノックの音にいらえを返すと、すこしの間をおいて軋む扉が開かれた。
「ジェイド、ちょっといい?」
「おや、どうしました?子供はもう寝る時間ですよ?」
 聞こえてきた声にジェイドは書きものをしていた手を止めて振り返ると、珍しくちょっと驚いたように目を瞠った。
「ルーク、それはいったい?」
「雪だるま」
 ルークは普通にそう答えると、盆にのせた小さな雪だるまを持ったままジェイドの側までやってきた。
「外で作ってきたんだ」
「……はあ、そうですか」
 あまりに唐突なことだったせいか、いつもの軽い嫌味も忘れてジェイドは相づちを打った。
 いま彼らは、補給と交易品の採取のためにケテルブルクを訪れていた。
 ケテルブルクは一年のほとんどを雪に閉ざされている街だが、おりしも季節は冬まっただ中。
 ほとんど雪を見たことのないルークと最年少のアニスが、家々の軒先近くまでつもった雪にはしゃいで転げまわっていたことは記憶に新しい。
 そういえば雪だるまも作っていたようだが、すでに時刻は次の日を迎えようとしている。なぜいまになってそんなものを、しかも自分の所に持ってきたのだろうか。
 さすがのジェイドもすぐにはその理由を思いつけず、内心首を傾げていた。
「うー、冷たかった。ちょっと洗面所借りるな」
 ルークは雪だるまをのせた盆をテーブルの端に置くと、ぱたぱたと洗面所の方へ消えていった。
 それは手のひらの中におさまるくらいの雪をかためたような大きさで、一応木の実や枝などで顔らしきものがつくってある。
 ジェイドはしげしげと雪だるまを見まわしたが、やはりその意味するところがわからなかった。この街の生まれであるジェイドにとっては雪など今更珍しくもなかったし、子供のように自分の作った雪だるまや雪ウサギを家の中に持ち込むような趣味ももちろんない。
 おもわず傾げた首がさらに深く傾きそうになったところに、ルークが戻ってきた。
「ルーク、これはどういう意味ですか?」
「な、けっこう上手く作れた思わねえ?」
 まったくちぐはぐな返事が返ってくるのに、ジェイドはすこしだけむっとした。もっともこの子供が人の話を聞かないのは今更なのだが、それにしてもこんなふうにあまりに唐突な行動はあまり好きではない。
「それ、おまえにやるから」
「いりません」
「んなこといわずにちゃんと受け取れよ。邪魔になるようなものじゃねえだろ」
「邪魔です」
 きっぱりと言い切ったジェイドに、ルークは頬をふくらませた。
「けち」
「関係ありません」
「意地悪」
「いまさらですね」
 眼鏡の奥で質の悪い笑みを浮かべる瞳に、ルークはますますむっとした顔になった。
「それ、おまじないなんだ。だからそのまま置いておけよ」
「おまじない?」
 そんなものがあっただろうかと思考を巡らせた一瞬の隙をつくように、ルークはくるりと身を翻すとすばやく扉のむこうに体をすべりこませた。
「いいな、絶対にそのまま溶けるまで待てよ。じゃ、おやすみ」
 そして呼び止める間もなく、そのまま出て行ってしまった。
 後に残されたかたちになったジェイドは、まだよく状況が読みこめずに彼が置いていった雪だるまをじっと見つめてから、ふと思い出したように近くの壁に貼ってあった暦へ目をむけた。
「……なるほど」
 じわりとこみ上げてくる笑みを押さえきれず、ジェイドは苦笑するように唇の端をあげた。
 旅にでいていると、日付はただ日にちの経過を数えるものでしかなくなってしまうので、すっかり忘れていた。
 そういえばどことなく街の雰囲気も華やかで慌ただしく、今日の午後は女性陣たちがそろって買い出しに出かけていたことも思い出す。
 明日は恋人たちの一大イベント、バレンタインだ。
 ようやく納得のいく理由を見つけたジェイドは、あらためて先ほど自分の小さな恋人がもってきた雪だるまに目をむけた。
「なかなか、可愛らしいことをしてくれますね……」
 たしかに人一倍照れ屋の彼が、面と向かって少女たちのイベントをこなせるはずがない。だから遠回しにこんなものをよこしてきたのだろう。
 ジェイドはともすると緩んでしまいそうになる表情をなんとかおさえながら、先ほどまでペンを滑らせていた書類へと手をのばした。
 小さな雪だるまは簡単に手で崩せてしまいそうだったが、ここは彼の気持ちに免じて溶けるまでおとなしく待つとしよう。
 久しぶりに感じるあたたかな胸の高まりを感じながら、ジェイドはふたたびペンを取った。




 そして一時間後、ジェイドはすっかり溶けきってしまった雪だるまの残骸が残る盆の上を眉をひそめて睨みつけていた。
 溶けた雪だるまの中からは、ジェイドが予測していたようなものはなにも出てこなかった。
 最後の一片が、溶けた水の中に同化するように透明になってゆく。それを最後まで確認してから、ジェイドは難しい顔で首を傾げた。
 もしかして、あのうかつなところのある子供が中身を入れ忘れたのだろうか。それもありえないことではないので、否定できない。
 しかし、まさかいまこの時間からルークを起こして問い詰めるわけにもいかない。それとも本当にただこの雪だるまを自分によこしただけなのだろうか。だとしたら、なんて紛らわしいことをしてくれたのだろう。
 もっとも勝手に誤解したのはジェイドの責任なのだが、もちろんそんなことは棚上げである。
 跡形もなく溶けてしまった雪だるまとともに、先ほどまで胸の中にあったあたたかな気持ちまで溶けてしまったようで、まるでぽっかりと胸に穴が開いたような気持ちだった。
 実際かなり浮かれた気分になっていただけに、手酷く裏切られたような気分だ。
 明日はすこしいじめてやるか、などとまったく大人げないことを考えながらジェイドは盆を持って立ち上がると、たまった水を捨てるために洗面台へむかった。
 らしくないと思いながらも、気分が沈んでいるが自分でもわかった。
 こんな些細なことで心が乱されるとは、自分でも予想外だった。
 まったくどうしてくれようかなどと半ば八つ当たり的なことを思いながら洗面所に踏み込んだジェイドは、鏡の前にリボンをかけた小さな箱が置かれていることに気がついた。
 その箱の色やリボンに印刷されている文字から、それがこの街でも有名な菓子屋のものなのだとわかってしまう。
「やられましたね……」
 まさかこう来るとは、まったく予想していなかった。
 ジェイドは鏡の中にわき上がってくる笑みを押さえきれずにいる自分の顔を見つけて、顔をしかめた。


 鏡に映ったその顔は、自分でも滑稽なくらいに幸せそうだった。


END
(07/02/14)


鏡の中の顔は、きっと緩みっぱなし。