カノン・5




 正直言えば、ルークはベルケンドの宿があまり好きではなかった。
 あらためてヴァンに自分の存在を否定されて思い悩んだのも、ガイとヴァンの関係について知ったのもこの宿に泊まったときのことだったからだ。
 あまり嬉しくない話を聞かされるときは、たいていこの宿だったような気がするのはさすがに思い過ごしなのかもしれないが。
 受付で名を告げると、アッシュは案内もなしに部屋へと向かった。
 引きずられるようにして入った部屋の中で、ルークは所在なげにその場に立ちつくした。
「ぼさっとするな」
 アッシュは上着をベッドの上に放り出すと、入り口で立ちつくしていたルークの手を強く引いてから扉を閉めた。
「座れ」
 顎でベッドに座るようにしめすと、アッシュは放り出してあった上着から小さな石を取り出してサイドテーブルの上に置いた。
 その石に触れてアッシュがなにか短い呪文を唱えると、キンと一瞬だけ耳が痛むような音がした。
「これで外に音は漏れない」
 不思議そうに自分を見あげてくるルークに面倒げにそう答えると、アッシュも向かい側のベッドに腰を下ろした。



「話って、なんだ……?」
「まずはテメエから話せ」
 話があるんだろう、とアッシュは促すように顎をしゃくってきた。
 実のところ、まだ混乱していてとりとめのないことを話してしまいそうなので、後回しにしてもらいたかった。
 しかし、そんなことを言えば気の短い彼がきつい言葉を投げてくることもわかっていたので、ルークは素直に従った。
「ちゃんと言ってなかったけど、その、ありがとう……。みんなから聞いた。アッシュが俺を連れ戻してくれたんだって」
 あんなに嫌っていたはずの自分を、なぜわざわざ生き返らせてくれたのか不思議だった。そのことを正直に口にすると、アッシュは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「俺だけが約束を守らされるのは癪だからな」
 それが真実半分、照れ隠し半分なのはルークにもわかっていた。
 なんのかの言いながら、アッシュが基本的には優しいことをルークは知っている。
 あの旅の途中も、何度も彼には助けられていた。
 出会った初めの頃はたしかに自分のことを殺したいほど憎んでいたかもしれないが、最後にはすこしだけ認めてもくれた。
 だから彼が死んだときは素直に悲しいと思ったし、こうやって二人で戻ってこれたことがとても嬉しかった。
「……あの後、なにがあったのかアッシュは知っているのか?」
「それはあとで話す……」
 なぜか一瞬言いよどんだアッシュを不思議に思いながら、ルークはもう一つ気にかかっていたことを口にした。
「おまえ、バチカルに。…ファブレの家には戻るんだよな?」
 以前のアッシュは、二度と屋敷には戻らないと断言していた。当時、そのことでも二人は散々もめたのだが、今でもその気持ちは変わらないのだろうか。
 もしそうなら、ルークは今度こそアッシュの意志を無視して実力行使に出るつもりでいる。もうすべてが終わったのだから、すべてがあるべき場所におさまるべきなのだ。
 だいたい、アッシュ自身も本当は心のどこかで戻りたいと思っているはずだ。彼の性格や矜持の高さを考えるとなかなか素直になれないのかもしれないが、それが本来あるべき姿なのだから。
「おまえは、どうするつもりだ?」
 アッシュは問いには答えず、逆にルークへ問い返してきた。
「俺は、戻るつもりだよ。母上とも約束したし。それに……」
 いいかけて、ルークは口をつぐんだ。
 ──それに、受け入れてもらえるかどうかは別として、ルークが「帰る」といえる場所はやはりあそこしかないのだ。
 そして、できればアッシュと一緒にファブレ家に戻りたいと思っている。
 アッシュは自分がいることを拒絶するかもしれないが、それでも一緒にいたいと思う。
「……俺は、アッシュにも一緒に戻って欲しい」
 だからルークは、すこし迷ってから素直に自分の心を言葉にした。
「おまえは俺と一緒じゃ嫌だというかもしれないけれど、俺はおまえと一緒にいたい」
 じっと、同じ色の瞳が自分を見つめているのがわかる。
 見つめながら、自分の言葉の意味をはかっている。
「父上や母上も、おまえに戻って欲しいと思っているんだし。その先のことは、それから考えてもいいんじゃないかと俺は思う。それに、やっぱりあそこはおまえの戻るべき場所だ。俺ができることなら、何でもするから…」
 一気にそう言い切ると、ルークは挑むような目をアッシュにむけた。
 その視線を受けて、アッシュは迷惑そうに眉間に皺を寄せた。
「あいかわらずグダグダとうるせぇ。テメエに心配されなくても、俺は一度ファブレ家に戻るつもりでいる」
「え…?」
 思いがけないこたえに、ルークは鳩が豆鉄砲をくらったような顔になった。
「ただし条件がある。必ずテメエも一緒に戻ることが条件だ」
 一瞬、夢ではないかと思った。
 あれほど自分を遠ざけようとしていたアッシュから、一緒に戻ってもいいと言われたのだから。
 単に面倒だと思われたのかもしれないが、それでも良かった。
 アッシュと一緒にいられる。そう思うだけで、嬉しくてたまらないのだ。
「ありがとう」
 だから自然とその言葉が出てきた。嬉しくてたまらなかったから。
「俺の話を聞いたあとで、おまえがもう一度そう言えるとは思えないがな……」
「アッシュ…?」
 ざわり、となにか冷たいものに背中を撫でられたような気がした。



「てめえが言いたいことは、それだけか?」
「う、うん……」
 なんだろう、この感覚は。
 闇の中で崖の端に立っていて、見えないのに気配でそこに奈落が待っているのがわかるような、曖昧な不安感。
「もう一度確認するが、おまえは戻ってきたときのことはなにも覚えてないのか?」
「うん……。落ちたって思ったら、目が醒めて。目の前におまえの顔があったのが、最初の記憶だな」
 記憶を探りながら話すルークに、アッシュはそうかと小さく呟いた。
「……本来は、俺たちはひとつに統合されるはずだった。それはさっきの医者の説明で、てめえもわかっているな?」
 ルークは頭を縦にふった。
 シュウ医師はひととおり二人の検査結果をのべたあと、簡単にではあったがあの当時ふたりのあいだに何が起こっていたのかを説明してくれたのだ。
 あの最後の瞬間、なにがおこるのかなんとなく感覚的にはわかっていた。それをあらためて理論として説明されたので、きちんと理解できていた。
「本当は理論通り俺たちは融合した形で戻されることになっていたが、俺はそれを拒絶した。いまさらおまえを統合する気もなかったし、あとの厄介ごとを全部押しつけられるのも冗談じゃねえと思ったからな」
 苦い顔でそう言うアッシュに、すこしだけ胸が痛む。
 心から望まれていると自惚れているわけではないが、こうやってあらためて態度に出されるとやはり傷つく。
「だが、ローレライの野郎は、俺が地上に戻る寸前までそれについてのリスクを説明しやがらなかった」
「リスク…?」
 おもわず問い返したルークに、皮肉げな笑みがむけられる。
「ローレライはよっぽどおまえが可愛いらしい。俺がおまえを統合しなかった代償は、全部俺にかぶせてきやがった。……俺がこの世界で生きてゆくためには、てめえの気を食わないといけないんだとよ」
 何を言われているのか、一瞬わからなかった。
 おそらく自分は、ひどく呆けたような顔をしていたのだろう。舌打ちまじりのため息が、目の前のアッシュの唇からもれる。
「……つまり、俺がこれからさき生きるためには、定期的におまえの音素を体内に取り込む必要があるという事だ。しかもローレライの野郎は、それにひとつ条件をつけやがった」
「条件……?」
「ローレライの鍵と大譜歌を使わねえと、おまえを呼び戻せないように仕組みやがったんだ。それも、成功率は半分というおまけつきでな」
 ルークの瞳が、驚きに大きく見開かれる。
「運良くあの場にはおまえの仲間たちがいた。あのユリアの子孫の女もな…。あいつらにはこの事は知らせてねえ。知らせたらなんのかのとうるせえのは分かっているからな。つまり俺がおまえを引きずり戻した理由は、俺自身のためなんだよ」
 くっ、と自嘲げな笑みがアッシュの口元に浮かんだ。
「もし俺がおまえを呼び戻せなければ、一定の時間が経った後に俺は消滅して、かわりにおまえが地上に戻される予定だったんだ。俺と違って、なんの代償もなしにな……」
「そんな…」
「てめえは知らないで寝こけていたんだろうが、事実だ。だが、俺はてめえを引きずり戻すのに成功した。つまり、生きるための第一条件はクリアできたわけだ」
 そこでアッシュは一度言葉を切ると、まっすぐルークの顔を見かえした。
「さっきてめえは、自分ができることならなんでもするって言ったな…」
「……うん」
 まだ頭の中が混乱していたが、ルークはとりあえず頷いた。
 自分ができることなら、なんでもする。それが、アッシュのためになることなら。
 そう思ったのは、嘘ではないから。
「それなら、俺におまえ自身をよこせ」
 いやな音を立てて、心臓が鳴っている。
「この際だからはっきり言う。俺はおまえの存在は認めているが、おまえのことが嫌いだ」
 言葉が刃のように胸に突き刺さる気がした。
「だが、俺が生きるためにはおまえの存在が必要だ。だから俺はおまえを手放す気はねえ」
 言葉だけなら熱烈な告白のようにも聞こえるその言葉に、ルークは胸の中で自嘲した。
 傷ついているはずなのに、求められているその事実だけでも嬉しいと思ってしまう。
 この矛盾した心は、なんなのだろう。


「今度は、おまえが俺の犠牲になる番だ」
 冷たく告げられたその言葉は、抉るような痛みとともになぜか甘く耳に響いた。




「……俺は…何をすればいい?」
 長い沈黙の後、ルークはそうぽつりと呟いた。
 その声が震えているのが、自分でもわかる。
 告げられた事実に衝撃を受けていたこともあったが、それ以上にこれから自分がなにを求められるのかわからないのが怖かった。
「まず、定期的におまえの気を喰わせてもらう必要がある。今後、俺が許可した場合をのぞいて勝手に出歩くな。どれくらいの頻度で補充させてもらわねえといけないのかもわからないからな……。それと、この事は誰にも言うな。もっとも、嫌でも言えなくしてやるつもりだがな」
 その言葉の意味をルークが考えるよりも前に、向かいのベッドに座っていたアッシュが立ちあがった。
 目の前にやってきた彼をぼんやりと見あげていたルークは、いきなり肩を押されてベッドの上に放り出されても、とっさに反応ができずにいた。
 その隙にアッシュはルークの体を引きずりあげるようにしてベッドの上に組み敷くと、ルークの足のあいだに自分の体を割り込ませて、完全に押さえこんでしまった。
「……アッシュ?」
「いくら箱入りのお坊ちゃまでも、なにも知らねえわけじゃねえだろう?」
 間近に寄せられた顔が、からかうように笑う。
「それとも、まだこっちについては教えられてなかったのか?」
 足のあいだに、アッシュの体強く押しつけられる。布ごしに感じる他人の体の感触に、反射的に震えが走った。
「なに…するんだ……?」
 密着した体から伝わってくる体温が、怖かった。
 体をくっつけているだけなのに、どうしてか震えがとまらない。
 そんなルークの怯えを感じ取ったのか、アッシュは一瞬顔をしかめたが、すぐにそれは意地の悪い笑みへと変わってゆく。
「……手っ取り早く、おまえから気を搾り取るための方法だ」
 押さえつけてくる手にさらに力がこめられて、その痛みにルークはちいさく呻いた。
 その声をふさぐように、なにかが唇に押しつけられた。
 湿った熱い感触。
 それがアッシュからあたえられたキスなのだと理解できたときには、すでにそれは始まっていた。




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*この次はエロなので、18才以下(高校生も含む)の方はとばして読んでください。
読まなくても話が通じるようにしてあります。