カスタネア




石畳の上に、小さな足音が響く。
カツカツとリズムを刻む靴音は、小さなカスタネットの音にも似ている。
おろしたての靴の心地よいその音に浮かれながら、ルークが小走りに駆け出そうとすると、背後から伸びてきた手がルークの上着の襟首を掴んだ。

「勝手に駆け出すな」

ぐいっと引き戻す強い力と共に不機嫌な声があがって、ルークは不満げに頬をふくらませながら自分の後ろにいるアッシュの方をふり返った。
しかし文句の一つも言おうとしていた決心は、強く睨みつけてくる瞳の前にあえなく崩れ去る。まったく、本来の教育係のガイよりもこの兄は厳しい。

「いいじゃねえか、ちょっとくらい」
「駄目だ。てめえはぼんやりだからな。走っていてそのまま馬車にはねられても、不思議ねえからな」
「んなトロくせえことしねえよっ!」
「どうだかな」

フン、と鼻先で笑うと同時に真っ黒な長い尻尾が石畳を叩く。綺麗に手入れされたその尻尾は、つい先日まで下町暮らしをしていたとは思えないほど艶やかで、つい見惚れてしまう。
もともと貴族の屋敷で飼われていたとは言え、アッシュはここ一年近くかなり劣悪な環境で暮らしていたはずだ。それなのに、ともすれば屋敷猫としてぬくぬくと育ってきたルークよりも、ずっと品があって凛としている。長い紅い髪もさらに深みと艶をましていて、つい触りたくなって手を伸ばしてしまう。
それに引き換え、と考えてルークは自分の髪に触れる。
以前はアッシュと同じくらい長かった髪は、いまではかろうじて首筋を隠すくらいの長さしかない。色もアッシュの綺麗な紅色と違って、自分のはもっと薄い朱色をしている。
いや、同じくらいの長さがあったとしても、自分の髪はいまのアッシュの髪のように綺麗な髪ではなかった気がする。同じ耳族の母親から生まれているはずなのに、この違いはなんなのだろう。

「何を唸っている」
「……なんでもねえ」

アッシュとルークは、双子ではないがそっくりな顔をしている。それは、同じ親から生まれた耳族でも珍しいことなのだという。だがこうやって比べてみると、髪の色とかくせとか小さなところで少しずつ違うのがわかる。それに少しだけ劣等感を持つこともあったけれど、アッシュはルークの憧れの対象だった。

「えへへ…」

突然にぱっと笑顔になったルークに、アッシュは呆れを含んだ怪訝そうな目を向けてきた。理解不能とでも言いたげな顔だったが、じゃれつくように腕にしがみついても少し眉を顰めただけで振り払いはしなかった。

「邪魔だ。歩きづらい」
「いいじゃねえか。これだったら俺も走らねえし」

思いきり甘えるように強くしがみつけば、「うぜえ」と呟きながらもぐりぐりと頭を撫でられた。それが嬉しくてさらにしなだれかかるようにすり寄ると、今度は本気で鬱陶しかったのか、頭をはたかれる。

「痛てえっ!」
「歩きづれえって言ってんだろうが!」

そう怒鳴りつけてから、アッシュは頭を押させてしゃがんだルークの手を掴むと、その手を引いて大股で歩き出した。
ほとんど引きずられるような勢いで一緒に歩き出しながら、一瞬何が起こっているのか理解できなかったルークも、すぐに自分の手を強く握るアッシュの手に気がついて笑みを浮かべた。
そのまま小走りに走ってアッシュの隣にならぶと、ルークはそっとアッシュの手を握りかえした。それに応える言葉はなかったけれど、しっかりと握られた手の温かさがただ嬉しかった。



二人が降りてきたのは、バチカルの中層階にある、貴族御用達の高級品店がたちならぶ商業区だった。
アッシュの行方不明事件以後に引き取られたルークは立派な屋敷猫だったので、こうやってたまにアッシュと共に外に出るのが楽しくてたまらない。
ちなみに、まだルークの一人歩きは許されていない。世間ずれしていない上に、どこか天然なところのあるルークでは危なっかしくて目が離せないというのが、屋敷の者一同の意見である。
本人にしてみればガキ扱いするなってところなのだが、もともと側にいた心配性の世話係だけでなく、いまでは立派な兄バカっぷりを発揮しているアッシュもが強く止めるので、渋々従っているというのが現状だ。
だがたしかにこうやってアッシュと出かける方がずっと楽しいし、わからないことがあっても聞けば大抵答えてくれるアッシュは、とても頼もしい存在だった。
だからその日も、楽しいままで一日が終わる予定だったのだ。



アッシュがルークの様子がおかしいことに気がついたのは、最後に寄った書店でのことだった。
難しい本は背表紙を見るだけでも頭が痛くなるからと、二階に上がってこなかったルークのことも忘れて本選びに夢中になっていたアッシュは、いつの間にかけっこうな時間がたっていることに気がついて眉を顰めた。
あまりありがたくないことだが、ルークは落ち着きがない。いくら言って聞かせても、自分の気が向けばアッシュが本を読んでいようがなんだろうが突進してくる。
特に浮かれているときはその傾向が強いのだが、これだけ時間がたっても文句の一つも言ってこないのは珍しい。
アッシュは手にしていた本を棚に戻すと、階下へ続く階段の方へ移動した。
真ん中が吹き抜けになっている店内は、階段のところから階下がすべて見渡せる。いくつもの書棚が空間を仕切るその片隅で、ルークが本を取るときに使う踏み台に腰掛けたままぼんやりとしているのが見えた。

「ルーク?」

常にないルークの大人しい姿に、アッシュは階段を駆け下りた。それに気がついたルークが慌てた様子で立ち上がったが、その瞬間ルークが微かに顔をしかめたことをアッシュは見逃さなかった。

「どうした?」
「なんでもねえよ。それより、探していた本は見つかったのかよ」
「いや、まだだ」
「だったらさっさと探してこいよ。待ちくたびれちまった」

ルークはおおげさな様子で肩をすくめてみせると、また踏み台に腰をおろしなおそうとした。

「いや、今日はもういい。出るぞ」

だがアッシュはそれをやんわりと制すると、ルークの手を引いて店を出た。

「アッシュ?」

強引に手を引かれて店を出ると、ルークは半ば引きずられるようにして歩きはじめた。しかし数歩もいかないうちにへたりこむように足をとめたルークに、アッシュは慌てた様子でルークの顔を覗き込んだ。

「どうした? やっぱり具合でも悪いのか?」
「なんでもねーよ」
「嘘言え。だったらなん…」

へたり込んだルークの足を見て、アッシュはもしかしてという表情になって眉をひそめた。

「靴擦れか」
「……」

決まり悪げに目線をそらせたルークにアッシュはひとまずホッと安堵の息をつくと、今度はそっとルークの手を引いて路地にはいりそこであらためてルークの足元にしゃがみこんだ。

「あ、アッシュ?」
「見せろ」

あわあわと慌てるルークを近くにあった木箱の上に座らせると、アッシュはルークの足を持って靴を脱がせた。
靴の中からあらわれた小さなルークの足には、指の付け根に近い足の甲とアキレス腱のあたりが擦れて小さな水ぶくれができていて、見るからに痛そうだった。そっとその部分に触れないように足を触ると、熱を持っているのか熱い。

「なんでこんなになるまで黙っていた」

これでは、随分と前からそうとう痛かったはずだ。だから階段を上ってくるのを避けて下にいたのかと、今更のように思い当たる。

「ごめん……」

つい言い方がきつくなってしまったせいか、ルークはシュンとしおれた顔になって謝ってきた。
たしかにこんなになるまで黙っていたルークに、呆れていないわけではない。だけど本当にアッシュが腹を立てているのは、それに気がつけなかった自分に対してだ。ちゃんと気にかけているつもりだったのに、こんなになるまで気がつけなかったなんて。
靴から解放されたルークは、心なしか気持ちよさそうな顔をしている。たぶん熱を持った足が風に触れて気持ちいいのだろう。だが、これでは屋敷まで歩いて帰るのは無理だろう。
そう判断すると、アッシュの決断ははやかった。
ルークの靴を荷物の中に押しこむと、そのままルークに押しつける。その有無を言わせない行動に、ルークは反射的に荷物を受け取ってからきょとんと目を丸くさせた。

「アッシュ?」

いったい何だろうと首を傾げたルークは、次の瞬間ぎょっと目を瞠った。

「あっ、ああ、アッシュっ?」
「ほら、さっさと乗れ」

こちらに背をむけて腰を落としたアッシュは、気恥ずかしさを誤魔化すようにわざと怒ったような声を出した。

「で、でもっ。俺、ゆっくり歩いてくれれば屋敷まで我慢するし……」
「うるせえっ!グダグダ言ってねえでさっさとしろ」
「だって、重いし!」
「そんなんで歩けるわけねえだろ。さっさとしねえと、無理矢理抱きかかえて帰るぞ」

どっちが良いかよーく考えろと肩越しに振り向きながらすごまれて、ルークはぺたりと耳を倒すとすごすごとアッシュの背中にしがみついた。
アッシュは危なげなくルークを背負ったまま立ち上がると、歩き出した。

「……重くねえ?」
「しつこい。大人しくしていろ」

ぴしゃりと言葉をさえぎられて、ルークはますますアッシュの背中で小さくなった。その気配を感じたアッシュは小さくため息をつくと、そっと自分の尻尾でルークの頬を軽く叩いた。

「しけた顔すんじゃねえよ」
「うん……」
「それで、なんで黙っていた」

それでもまだしょげた顔をしているルークに、アッシュはもう一度同じ事を訊ねた。

「だって、言ったらアッシュ絶対に帰るって言い出すだろ」
「当たり前だ」

なにを今更といわんばかりに答えると、突然ぎゅうっとルークが抱きついてくる。

「せっかく久しぶりにアッシュと買い物に出たのに、こんなことで帰らねーといけなくなるなんて、バカみてえじゃん……」
「……本当に、てめえはバカだな」

呆れたようにため息を一つついたアッシュに、ルークはムッとした顔になった。

「なんだよ。アッシュは嬉しくねえのかよ」
「ンなことはどうでもいいだろ」
「よくねえ」
「てめえはバカか? 一緒に出かけるのなんて、これから何度だって出来る。逆に、これでてめえはしばらく屋敷から出してもらえねえぞ」
「なっ! なんでだよっ!」

がばりと肩越しに顔を突き出してきたルークに、アッシュは意地の悪い笑みを浮かべた。

「俺におぶわれて帰ったら、大事を取って当分外出を禁じられるに決まってんだろ」
「えええええぇっ! お、おろせよっ! バカアッシュ!」

途端にジタバタと暴れはじめたルークのすねを、アッシュが叩く。

「暴れンなって言ってんだろっ! 落とすぞテメエ」
「だったらおろせっ!」
「ろくに歩けねえくせに」
「いいから、おろせ〜っ!」
「いいのか? 本当に下ろすぞ」

急にがらりと声色を変えられて、ルークはウッと言葉に詰まった。足が痛いのは確かだ。それに、こうやっておぶわれているのは確かに恥ずかしい。だけど、アッシュとぴったりくっついていられて実は気持ちよかったりもする。
ようやく大人しくなったルークにやれやれと内心胸をなで下ろしながら、アッシュは続けた。

「また、一緒に出かけてやる」
「うん」
「屋敷に閉じこめられている間は、遊んでもやる」
「うん」
「だから、もうこんなことで無理するな」

優しく尻尾で背中を叩かれて、ルークはあらためてアッシュの首に手を回すと、鼻面を首筋に押しつけるようにしてぴったりと体をくっつけた。
ふわりと鼻先を掠めるアッシュの匂いに、無条件に安心感を覚える。
悪いとは思いながらも、ルークはこっそりとこのままどこまでも帰り道が延びればいいのに、とこっそり胸の中で思った。



そして昇降機で最上階に登った後、二人は迎えに出てきていた世話係の青年に苦笑されることとなる。



END(08/02/28)



にゃんこ兄弟お出かけ。