小犬のワルツ




 
 ゆるやかなワルツの音色が、昼下がりの明るい陽射しのさしこむ部屋の中に流れていた。
 部屋の片隅に据えられた音機関から流れる音楽の合間に、衣擦れの音と軽やかな靴音が混じる。
 ターンのステップを優雅に踏みながら、アッシュは自分の腕の中で先ほどからこれ以上ないほど真剣な顔つきでステップを踏んでいるルークを見つめていた。
「……なんだよ」
 視線に気がついたルークが、怪訝そうに眉をしかめる。それに、いやと短く答えると、アッシュは微かに唇の端を上げた。
「間違えたな」
「るせっ……」
 何食わぬ顔でそのまま踏み間違えた足を誤魔化そうとしたルークに指摘してやると、悔しそうな顔で睨みつけてくる。それでも足は優雅にステップを踏み、アッシュが手をさしのべた先でターンもそつなく綺麗に回る。
 それを満足げなまなざしで見つめると、腰にまわした腕でルークの体をリードしながらゆるやかに円を描く。
「そこはこっちだ」
 逆に動こうとするルークを引き寄せながらステップを踏み直させると、先ほどから機嫌の悪かったルークの顔が完全にふくれっ面になる。それでもこればかりは意地なのか、じつに優雅に踊ってみせるのでアッシュは楽しげに目を細めた。
 ルークもアッシュも、貴族のたしなみとしてダンスの教育を受けてきている。
 もっとも、ルークの方はそれよりも先に覚えることがたくさんあったせいか、最低限のステップしか習わなかったらしい。しかしそれでは公爵家の人間として通用しない。
 アッシュ自身はこちらに戻ってきてからも二日でダンスの教師に太鼓判を押されたくらいに優秀だったため、自分でルークを教えることにしたのだった。
 もっと出来が悪いと思っていたルークだったが、運動神経が良いことが幸いしているのか、最初こそぎこちなくステップを踏んでいたが、何度か踊るうちにかなり様になってきている。
 そのことも十分にアッシュを満足させていたが、それ以上にこうやって二人で踊っていること自体が実は思っていた以上に楽しかった。



「なんでこんなことしなきゃなんねーんだよ!」
 音楽が止まると同時に、ルークはふくれっ面のまま不満の声をあげた。
「今度のナタリアの誕生パーティで、俺たち二人があいつのパートナーだからだろう」
「そんなことはわかってるよ!俺が言いたいのはそう言う事じゃなくて……!」
 ふるふると拳を振るわせながらルークは一度言葉を切ると、アッシュを睨みつけた。
「なんで、俺が女のパートを踊んなきゃなんねえんだっつーの!」
 かすかに顔を赤らめながら叫ぶルークに、アッシュはふんと鼻先で笑う。
「どっちもまともに踊れねえんだから、関係ねえだろうが」
「関係なくねーだろ!女のパートだけ踊れるようになっても、どうしろってんだよ!」
「おまえ、さっき俺が言ったことをちゃんと聞いてなかったのか……?」
 途端に声のトーンが落ちたアッシュに、ルークは一瞬うっと顔をしかめた。
「てめえはどっちも踊れねえから、最初は俺が踊るのを見て覚えろって言ったはずだよな?だけどお前は見てるだけじゃわからねえって言うから、一緒に踊ることにした。そうだったな?」
「……おっしゃるとおりです」
 そろりと、ルークがさりげなく視線をアッシュから外す。
「で、でも、それだったら俺が男のパート踊らなきゃ意味ねえんじゃねえの?」
「お前相手に、俺に女のパートを踊らせる気か?」
「だって俺たちは背も変わらねえし、別に良いじゃねえか」
 ダンスでは、女性のパートを踊る側が相手よりも長身だと、やはり色々と不都合がある。これがガイあたりであれば、ルークもしかたがないと諦めただろう。しかし相手は自分と瓜二つのアッシュだ。背も体格もほとんど変わらない同士なのだから、どちらを踊っても不都合はないはずだ。
「あ、わかった。アッシュ、おまえ女のパートは踊れないんだろ?」
「てめえと一緒にするな。いくら挑発しても。お前相手に女パートで踊る気はねえからな」
 冗談ではないと顔をしかめたアッシュに、ルークの不満顔がさらに酷いものになる。
「ナタリアと踊るのに、女パートで覚えてもしかたねえだろ」
「だから感覚で覚えろと言っている。剣舞と同じだと思え。……それとも、てめえは相手側の動きを見て覚えることもできねえのか?」
 挑発するように鼻先で笑ってやれば、ルークはあっさりとそれに乗ってくる。
「んだと〜っ!馬鹿にすんなっ!やってやろうじゃねーか!」
「……そうか、じゃあもう一度だな」
 にやりと意地の悪い笑みを浮かべたアッシュに、ハッとルークが口を押さえる。
「ずりい……」
「文句あるのか?」
 音楽の用意をして戻ってきたアッシュは、不満げに唇をとがらせているルークにむかって唇の端をあげた。
「っせーな!やりゃあいいんだろ、やりゃあ」
「ようやく聞き分けが良くなったな」
 最初の一音が鳴り、抱き込むようにしてルークの体を引き寄せながら、あやすような調子でアッシュが笑う。
「明日はナタリアが来る。その時に男パートで相手をしてもらえ。女パートが完璧に踊れるようになればナタリアの動きもわかるようになるだろうから、すぐにあっちも踊れるようになる。……だから、俺の動きをよく見ておけ」
 くいっと顎をつかまれて上向かされると、こちらを見つめているアッシュの瞳と視線が合った。
 自分よりも少し色の濃い、翡翠色の瞳。回るたびに長い赤い髪が、綺麗な軌跡を描く。
 もともと自分よりもアッシュの方がずっと大人っぽい雰囲気を持っているせいか、優雅に踊る彼からはかすかに色気のような物さえ感じられる。
 それに引き換え、やはり自分のステップはどこか辿々しく幼い。元の性格の違いもあるのだろうが、こういうところで自分の幼さを自覚させられると、やはり少し複雑な気持ちにさせられる。
「視線が下がっている」
 顎を指先ですくい上げられるようにして、顔を上向かされる。その仕草がたがいの距離と相まって、キスをする瞬間のことを想像させる。思わず赤くなった顔を誤魔化すように顔をそらそうとすると、強い力で引き戻される。
「……何を考えた?」
 薄く笑みを浮かべた意地悪げな唇に目がいってしまうのを止められず、ルークはなんとか間違えずにステップを踏みながら蚊の鳴くような声で、なんでもねえと答えた。
「なんでもねえって顔か?それが……」
 この距離で誤魔化そうとする方が無理だろう。ワルツはほとんど抱き合うような距離で踊るダンスだ。逃げ出そうにも、女性パートを踊っているルークの腰はしっかりとアッシュに押さえこまれてしまっている。
「こういう事を考えたか?」
 ターンの終わり。アッシュの腕の中に戻る一瞬の隙を突かれて抱き寄せられ、唇をかすめ取られた。
 突然のことに動揺して動きの鈍ったルークを、アッシュは強引にリードしながらなおも踊り続ける。
 優美なワルツの調べが、淡々と部屋の中を流れてゆく。
「おまっ……!」
「考えただろう?」
 踊りながら顔を寄せてそう囁いてやれば、きついまなざしで睨みつけられる。しかしかすかに頬を赤らめてのその抗議は、アッシュを煽る物でしかない。
「……エロ魔」
「言うじゃねえか」
 くるりとルークの体をターンさせると、本来なら自分の方に引き寄せるところを、逆に後ろへと突き飛ばす。
「……うっわあっ!」
 突然のことに受け身も取れずたたらを踏むと、そのまま後ろへ倒れこむ。背中にくる衝撃のことを考えて身をすくめたルークは、ふいに自分の体がやわらかな物の上に投げ出されたことに気がついて、きょとんと目を丸くした。
 慌てて体を起こそうとしたところを、追ってきたアッシュが上から押さえつける。ぱらりと長い赤い髪が頬すれすれに落ちてきて、そのしなやかな感触にぞわりと背筋に甘い痺れが走った。
 体の下に感じる柔らかな感触が、いつのまに誘導されてきたのか部屋の反対側にあるはずのベッドの上だと言うことに、今さらのように気がつく。抗議するように上にある顔を睨みつけると、また鼻先で笑われる。
「ダンスのレッスンじゃなかったのかよ」
「あれだけ踊れりゃあ、十分だろう。あとは明日ナタリアに教えてもらえ」
 勝手なその言い草に言い返してやろうと開いた唇に、小さな音を立ててキスされる。
「それに、あれだけ物欲しそうな顔で見られちゃおちおち踊ってもいられねえ」
「……なっ!」
 すっかり押さえこまれた体は、すでに逃げ場を失っている。むき出しになった腹部を意味ありげに撫で上げられたら、もうダメだった。
 諦めたように力を抜くルークに、くつりとアッシュが笑う。それが悔しくて、もう一度降りてきた唇にルークは軽く噛みついてやった。



「……おまえ、もっと手加減しろよな」
 ぐったりとシーツの上に横たわりながら、ルークは隣で上半身だけを起こして自分の髪を撫でているアッシュを上目づかいに睨みつけた。
 唇に噛みついたその報復をめいいっぱい受けて撃沈させられたルークは、すでに寝返りをうつのさえ億劫なほどに疲弊させられていた。
「てめえが煽るがの悪い」
「おまえももう少し我慢することを覚えろよな」
 涼しい顔で答えるアッシュに、ルークは苦い表情を浮かべた。
「そういえば、どうして女パートを覚えろといったのかもう一つ理由を言っていなかったな」
 ふと思い出したようにそう呟いたアッシュに、ルークは不機嫌な顔のままで彼を見上げた。
 完全に機嫌を損ねたらしいルークに苦笑しながら、アッシュは身をかがめるとそっとルークに耳打ちをした。
 その内容に、みるみるルークの顔が真っ赤に染まってゆく。
「……はずかしい奴」
「悪くないとは思うが?」
 投げつけられた悪態に平然と答えながら、アッシュは赤くなった顔を隠そうとシーツを顔の辺りまで引き上げたルークに小さく笑い声を上げた。


『二人で踊るには、必要だと思わないか?』


 普段は人一倍照れ屋のくせに、そういうことはさらりと口にする天然さ。  意外にも自分のオリジナル様は、奥深かった。



END
(07/06/29)


バカップル…。出来心です。