交差点にて




 
 人は人生において、誰しも転機というものがあるらしい。
 もしそれが本当なら、シンクにとっての人生最大の転機は、間違いなくあのタタル渓谷で目覚めた日のことを指すのだろうと常々彼は思っている。
 ただし、プラスの意味合いではなく。
 預言を恨んで、生み出されたことを恨んで死んだはずなのに、どうしてか再びこの世に舞い戻ってしまった。
 初めは冗談じゃないと思っていたけれど、だからといってわざわざ自殺なんかする気は毛頭なくて。
 ただ惰性で生きてゆくことになるんだろうと、漠然と思っていた。
 だけど、そんな甘い人生が許されるはずなんてなかったのだ。
 彼をこの世に連れ戻したのは、その預言を覆した非常識な英雄。その人だったのだから。



「まったく、君の馬鹿さかげんには呆れるよ」
 演技ではない本気の溜め息に、目の前にいた赤毛の青年がむすっとした顔になった。
「んなこと言ってもよ」
「うるさい。いい訳は聞かないよ」
 ぴしゃりと返してやれば、睨みつけてくる翠の瞳がますます不満げな色をのせてシンクを睨みつけてくる。しかしそれに負けじと、シンクも座った目でルークを睨みつけた。
「だいたい、なんであんたはここにいるのさ!」
 本日の正午から王宮で昼食会。
 それが、本日のファブレ子爵達の本来の予定だった。
 ところが、いま二人が立っているのはケセドニアの埃っぽい市場のど真ん中。ようは、ルークは本日の予定を綺麗さっぱり忘れてすっぽかしたのだった。
「なんだってこんな重要『かもしれない』予定を、きれいに忘れられるのさ!」
「……かもしれないって」
 なんだよそれ、と不本意ながら現在のシンクのご主人様でもあるルークは、ふて腐れたような声をあげた。
「僕の主観では、馬鹿馬鹿しい催し物に過ぎないからね。王宮での昼食会なんて。あんなの、単なる腹の探り合いだろ?」
「あー、アッシュも似たようなこと言っていた」
 ぽむ、と納得したように手を叩いたルークに、シンクは呆れたような目をむけた。そして、その視線の先にあったルークの次の行動に、シンクは容赦のない一撃を食らわせた。
「いてっ!」
「この馬鹿っ!なにやってんのさ!」
「なにすんだよっ!」
「それはこっちの台詞だよ!」  シンクは、ルークが取ろうとしたマントのフードをぎゅうぎゅうと引っ張って目深に被らせると、乱暴に腕を引っ張って歩きはじめた。
「ちょっ……!シンク!」
「いいから、さっさと来な。たく、その目立つ頭でよくこんな所にのこのこやってきたよね」
「えー、誰も気づかなかったぜ」
「そういう問題じゃないよ!本当はバチカルにいるはずのあんたがこんなところをフラフラしていたなんて知れたら、どうすんのさ!」
「……えーと、急用?」
 可愛らしく首を傾げて見せたルークに、シンクはもう一発容赦のない拳をその頭に落とす。
「…ってえな!ポンポン叩くなよ」
「ちょっとは刺激を与えた方が賢くなるかもよ、あんたの場合。あ、そうだ。頭の具合が悪かったからここで薬を調達してましたって言えば、相手も信じてくれるかもね」
 思い切り馬鹿にしていますというように鼻で笑うと、拗ねたような視線が返ってくる。
「シンクまでアッシュみたいなこと言う……」
「……」
 あの溺愛兄と同レベルのことを言っているのかと思うと、少々複雑な気持ちになる。だが、日頃から某使用人とこの子供が自分たちを似ているよなあと話しているとは、さすがにシンクも知らない。
「ところで、なんでこんな所に一人できたのさ」
「買い物」
 ふざけた答えにさらに一発お見舞いしようとしたが、さすがに危険を察知していたのか、するりとルークはシンクの攻撃をかわした。
「暴力反対!」
「殴りたくなるようなことするあんたが悪いんでしょ?」
 いっそきっぱりと言い切ったシンクに、横暴だとルークが唸る。
「あーあ、ったく。せっかく内緒でここまで来たってーのに」
「あんたの隠し事なんて、子供が隠したいモノを後ろに隠したままこっちに背中むけて走ってるみたいなもんだよ」
 自分から見えなければそれで大丈夫、みたいな。
「なんだよそれ!」
「否定できんの?」
 うっと思わず詰まったのは、日頃から己の半身に似たようなことを言われているから。頭隠して尻隠さず。意味わかんねえってぼやいたら、やっぱり殴られた気がする。
「じゃあ、やっぱりこれもバレバレだったってことかよ……」
 途端にしょんぼりと耳の垂れた子犬のような情けない顔になったルークに、鬱陶しいと言わんばかりの目をシンクがむける。もっとも、そこにはほんの僅かだが動揺の色がある。鈍いルークには、とうてい気づけないだろうけれど。
「なにがバレバレだって?」
「これ…」
 ごそごそと道具袋の中から紙袋を引っ張り出すと、ルークはその包みをシンクの方へ差しだした。
「なに?」
「やる」
 思わず眉をひそめたところに返された答えに、シンクは不意を突かれた顔になった。
「あーあ、せっかくアッシュにも協力してもらってディンの店に注文していたのに……」
「ちょっと…どういうこと?」
 さすがに動揺を隠せずにまじまじとルークの顔を見かえしてきたシンクに、今度はルークの方がきょとんとする番だった。
「…あれ?もしかしてばれてなかった?」
「だから何!」
「開けてみろよ」
 なんだバレてなかったのか、とうって変わって嬉しそうな顔になったルークに苛立ちを感じながらも、シンクは紙袋の中身を取り出した。
「あ……」
 引っ張り出したそれは、上質ななめし革でつくられたグローブだった。
「シンクさ、こっちに戻ってきてからも、ずっと前から使っていたやつをはめていただろう?愛着があるのかもしれないけれど、随分と痛んでたし。それにせっかく新しい生活が始まったんだから、新しいのをはめても良いんじゃないかなと思って」
 ちゃんと譜術を使うのにも適しているのにしてもらったんだぜ、とルークが子供のように胸を張る。
 その顔と手の中のグローブを見比べながら、大きな戸惑いと認めたくはないがじわじわとこみ上げてくる嬉しさに、シンクはどんな顔をすればいいのかわからなくなっていた。


 どうしてこう、このお子様はさりげなく人の心の中に入り込んでくるのか。
 あの状況で育ったのならもっと捻くれてもおかしくなかったはずなのに、我が儘放題だったとはいえ、不思議にまっすぐな心だけは変わらない。
 敵対していたくせに、最後まで自分を気にかけるような素振りを見せていた彼。あの頃はそれが酷く気に障っていたけれど、いまはなぜかくすぐったいような温かな気持ちを感じさせてくれる。


 にこにこと、まるで採点を心待ちにしている子供のように期待をこめた目で見つめられる。
 ほんの少しだけ、子犬のようにまとわりつかれてまんざらでもないあの元同僚の気持ちが、わかったような気がする。
「……まあ、悪くないんじゃない?」
 だけどもちろん素直に喜ぶ事なんて出来ないから、憎まれ口で返してやる。だけど、こんな時だけは察しの良い子供は、その意味するとこをきちんと読み取って、まるでお日様のような笑顔になった。
 

 そして、この件にアッシュが関わっていたということをシンクが思い出し、そもそもここまで騙されて連れ出されたことに気づいた彼が容赦のない一撃を繰り出すのは、数分後のことだった。



END
(07/04/16)


使用人二人をたらしこむルク。