子供には勝てません
(前・今日だけだからな)「アッシュ!かくまって!」
ばたばたとけたたましい音をたてて部屋に入ってきたルークは、それだけ言うとソファの背を飛び越してその後ろに身を潜めた。
あまりに突然の出来事に、アッシュは手元のペンが紙の上にインクの染みをひろげてゆくのにも気づかず、呆気にとられたように見つめていた。
「なんだ…?」
「いいから、黙って!」
ルークは必死にソファの後ろで身を縮めながら小声でそう言うと、しーっと指を口元にあてた。
やがて、廊下の方からばたばたと慌ただしい足音がいくつも聞こえてくる。
その足音は部屋の前で止まると、すこし間をおいてからノックの音が部屋に響いた。
「なんだ?」
「アッシュ様、よろしいでしょうか?」
聞こえてきたのは、メイドの誰かの声だった。
ルークにちらりと目をむけると、びくりとさらに身を小さく縮めながら必死に首を横に振っている。
「入れ」
無造作に入室を許したアッシュに、恨みがましい瞳がむけられる。
しかし彼はそれを綺麗に無視すると、遠慮がちに部屋に入ってきたメイドへと目をむけた。
「なんだ?」
「おそれながら、ルーク様がこちらにお見えになりませんでしたか?」
視界の隅で、さらにルークが身を縮めながら息をひそめているのがよく見える。その様子は、まるで雷から逃げる子犬のようにも見えなくはない。うっかりすると、その緋色の頭に見えない耳が垂れている様子まで想像できそうだ。
何があったかしらないが、どうやらルークはこのメイドから逃げてきたらしい。いや、さきほどの足音が複数だったことを考えると、おそらく外にはまだ何人か控えているのだろう。
おおかたさっきの間は、誰がこの部屋にはいるかでもめたのだろう。
アッシュは、自分がメイド達から軽い畏怖の目をむけられていることを知っている。
もちろん彼女たちには他意はないし、主人としてきちんと仰いでくれていることも分かっている。
ただ、なまじ同じ顔で正反対な存在が側にいるせいか、取っつきにくいと思われているのは事実だ。
「あいつがどうかしたのか?」
必死に自分を頼ってくる姿はなかなか可愛らしいが、その理由によっては甘い顔はできない。可愛い子犬は、きちんと躾けるのが飼い主の義務だ。
案の定、こちらを睨んでくるルークに、アッシュは涼しい顔をしたままメイドの返事を待った。
「……実は、今日は新しい礼服の採寸のために仕立屋がやってきているのですが、途中でルーク様が逃げ出されてしまいまして」
「礼服?あいつのは先日作ったはずだろう?」
たしかその時も散々文句を言っていたが、一応おとなしくしていたはずだ。
「なんでも、仕立屋の方から直々に作らせていただきたいと申し出がありまして。奥様も乗り気でいらっしゃるものですから」
その言葉に、アッシュはおもわずルークに同情した。
シュザンヌは、見目の良い二人の息子を飾り立てることをひそかな楽しみにしているので、率先して同意したのだろう。
「……そういうことか」
ちらりと視線をむけた先では、ルークがすがるような目でこちらを見ている。
あまりに必死なその様子にからかってやりたくなるが、本格的に拗ねられると後が面倒だ。
「そういえば、さっきあの窓から子犬が飛び出していったが」
「子犬、ですか…?」
メイドは不思議そうにそう呟いてから、アッシュの顔を見るなりかあっと顔を真っ赤にさせた。
いつもどこか不機嫌そうなしかめつらをしているアッシュは、使用人達の前で笑顔を見せることはほとんどない。
例外はルークと一緒にいるときぐらいだが、それでも微笑む程度の笑みしか見せないことが多い。
そんな彼が浮かべた優しげな笑みは、おもわず見惚れてしまいそうなくらいに貴重なものだった。
「おおかた庭からどこかに逃げて行ったんだろう。それ以上は知らん」
「あ、は、はいわかりました!」
すぐに笑みを消してそっけなくそう続けたアッシュに、メイドははっと我にかえると、可哀想なくらいに真っ赤になったまま頭をさげて出て行った。
ぱたぱたと足音が遠ざかってゆくのをききながら、アッシュはあらためてルークの方を見た。
「……なんだその目は」
「なんでもねーよ」
てっきり、それこそしっぽを振って喜ばんばかりの顔を見られると思っていたのに、なぜかそこにあるルークの顔は不機嫌そのものといった顔だった。
「それが、助けてやった相手に向ける顔か?」
「それは、感謝してる。…いちおう」
「なんだったら呼びもどしてやろうか?メイド達を」
「わーっ!感謝してます、してます!」
わざとらしくしなまで作ったルークを半目で見やってから、アッシュはちょいちょいとまるで犬を呼び寄せるように指を動かした。
それになんの疑問も覚えずにひょこひょことルークが近くまで行くと、いきなり腕を取られて引き寄せられた。
「うっ、わぁっ…!」
突然のことにバランスを崩したルークはそのままアッシュの膝の上にのせられ、間近に顔を近づけられた。
「なに不機嫌になってやがる…」
「……なんのことだよ」
「しらばっくれるな。いかにも拗ねてますって顔しておいて」
同じ色の瞳のあいだで、つかの間火花が散る。
先に折れたのは、ルークの方だった。
「……アッシュがあんな顔するからだろ」
「なんのことだ?」
わけのわからないことを言い出したルークに、アッシュの眉間に皺が寄る。
「さっき、メイドに笑ったじゃねえか!」
「はあ?何わけわからねえこと言ってやがる!メイドにいつもへらへら笑ってんのは、おまえの方だろうが!」
ルークは、人見知りなくせに人懐っこいところがある。
特に自分の身のまわりの相手には、惜しげもなく笑顔を見せる。アッシュはそれが気に入らないのだが、ルークが自分にむける笑みがそのどれとも比べものにならないほど幸せそうなことを知っているので、いまのところうるさく言ってはいない。
だからルークのその言い分は、アッシュにとっては理不尽きわまりないものに聞こえた。
「だって、アッシュはいつもはあんなふうに笑わねえじゃねーか。なのに…」
だんだんと、ルークの声が小さくなってゆく。
それにつられたように、目には見えない大きな耳がしおれてゆくのが見えるような錯覚をおぼえる。
「つまりおまえは、俺がメイドに笑ったのが気に入らないのか?」
普段からもっと愛想を良くしろとうるさいのは誰だ、と反論したい。これではまったくだだっ子の相手をしているのとかわりない。
「……だって、あんな綺麗に笑う顔、他の奴に見せたくねえし」
そして、爆弾は突如落とされる。
アッシュは一瞬気が遠くなりそうになりながら、かろうじてもちこたえた。
「それが、テメエがンな面している理由かよ」
「そうだよ。ったく、気分悪りい……」
ぶつぶつと他にもなにか呟きはじめたルークに、アッシュはため息をひとつつくと、ルークを膝の上にのせたまま抱きしめた。
「アッシュ…?」
「ったく、くだらねえ理由で逃げてきたから説教してやろうと思ってたんだがな」
そんなことを言われては、できるわけがない。
「しかたねえな……」
諦めたように抱きしめたルークの肩口に顔を埋めたアッシュに、ルークはきょとんと目を丸くしてから嬉しそうに笑って抱きかえした。
今日は、このままもう仕事にならないだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、アッシュは腕の中の愛しいぬくもりにそっと口づけた。
END(07/03/01)
「そういやおまえ、なんであんな大騒ぎして逃げてきたんだ?」
「そうだ!聞いてくれよ。あの仕立屋が新しく連れてきた助手がいたんだけどよ、あの野郎、採寸っていいながらベタベタ人に触りやがって。最初はなれてねえのかと思ってたんだけど、仕立屋の親父がちょっと席を外したら尻に触ろうとしたんだぜ!許せねえ!」
「……そいつはどうした?」
「一発殴ってきたけど…って、アッシュ?」
後に、公爵家出入りの仕立屋から、一人の助手が忽然と姿を消したことは言うまでもない。
*追記が余計だった気がする。
ばたばたとけたたましい音をたてて部屋に入ってきたルークは、それだけ言うとソファの背を飛び越してその後ろに身を潜めた。
あまりに突然の出来事に、アッシュは手元のペンが紙の上にインクの染みをひろげてゆくのにも気づかず、呆気にとられたように見つめていた。
「なんだ…?」
「いいから、黙って!」
ルークは必死にソファの後ろで身を縮めながら小声でそう言うと、しーっと指を口元にあてた。
やがて、廊下の方からばたばたと慌ただしい足音がいくつも聞こえてくる。
その足音は部屋の前で止まると、すこし間をおいてからノックの音が部屋に響いた。
「なんだ?」
「アッシュ様、よろしいでしょうか?」
聞こえてきたのは、メイドの誰かの声だった。
ルークにちらりと目をむけると、びくりとさらに身を小さく縮めながら必死に首を横に振っている。
「入れ」
無造作に入室を許したアッシュに、恨みがましい瞳がむけられる。
しかし彼はそれを綺麗に無視すると、遠慮がちに部屋に入ってきたメイドへと目をむけた。
「なんだ?」
「おそれながら、ルーク様がこちらにお見えになりませんでしたか?」
視界の隅で、さらにルークが身を縮めながら息をひそめているのがよく見える。その様子は、まるで雷から逃げる子犬のようにも見えなくはない。うっかりすると、その緋色の頭に見えない耳が垂れている様子まで想像できそうだ。
何があったかしらないが、どうやらルークはこのメイドから逃げてきたらしい。いや、さきほどの足音が複数だったことを考えると、おそらく外にはまだ何人か控えているのだろう。
おおかたさっきの間は、誰がこの部屋にはいるかでもめたのだろう。
アッシュは、自分がメイド達から軽い畏怖の目をむけられていることを知っている。
もちろん彼女たちには他意はないし、主人としてきちんと仰いでくれていることも分かっている。
ただ、なまじ同じ顔で正反対な存在が側にいるせいか、取っつきにくいと思われているのは事実だ。
「あいつがどうかしたのか?」
必死に自分を頼ってくる姿はなかなか可愛らしいが、その理由によっては甘い顔はできない。可愛い子犬は、きちんと躾けるのが飼い主の義務だ。
案の定、こちらを睨んでくるルークに、アッシュは涼しい顔をしたままメイドの返事を待った。
「……実は、今日は新しい礼服の採寸のために仕立屋がやってきているのですが、途中でルーク様が逃げ出されてしまいまして」
「礼服?あいつのは先日作ったはずだろう?」
たしかその時も散々文句を言っていたが、一応おとなしくしていたはずだ。
「なんでも、仕立屋の方から直々に作らせていただきたいと申し出がありまして。奥様も乗り気でいらっしゃるものですから」
その言葉に、アッシュはおもわずルークに同情した。
シュザンヌは、見目の良い二人の息子を飾り立てることをひそかな楽しみにしているので、率先して同意したのだろう。
「……そういうことか」
ちらりと視線をむけた先では、ルークがすがるような目でこちらを見ている。
あまりに必死なその様子にからかってやりたくなるが、本格的に拗ねられると後が面倒だ。
「そういえば、さっきあの窓から子犬が飛び出していったが」
「子犬、ですか…?」
メイドは不思議そうにそう呟いてから、アッシュの顔を見るなりかあっと顔を真っ赤にさせた。
いつもどこか不機嫌そうなしかめつらをしているアッシュは、使用人達の前で笑顔を見せることはほとんどない。
例外はルークと一緒にいるときぐらいだが、それでも微笑む程度の笑みしか見せないことが多い。
そんな彼が浮かべた優しげな笑みは、おもわず見惚れてしまいそうなくらいに貴重なものだった。
「おおかた庭からどこかに逃げて行ったんだろう。それ以上は知らん」
「あ、は、はいわかりました!」
すぐに笑みを消してそっけなくそう続けたアッシュに、メイドははっと我にかえると、可哀想なくらいに真っ赤になったまま頭をさげて出て行った。
ぱたぱたと足音が遠ざかってゆくのをききながら、アッシュはあらためてルークの方を見た。
「……なんだその目は」
「なんでもねーよ」
てっきり、それこそしっぽを振って喜ばんばかりの顔を見られると思っていたのに、なぜかそこにあるルークの顔は不機嫌そのものといった顔だった。
「それが、助けてやった相手に向ける顔か?」
「それは、感謝してる。…いちおう」
「なんだったら呼びもどしてやろうか?メイド達を」
「わーっ!感謝してます、してます!」
わざとらしくしなまで作ったルークを半目で見やってから、アッシュはちょいちょいとまるで犬を呼び寄せるように指を動かした。
それになんの疑問も覚えずにひょこひょことルークが近くまで行くと、いきなり腕を取られて引き寄せられた。
「うっ、わぁっ…!」
突然のことにバランスを崩したルークはそのままアッシュの膝の上にのせられ、間近に顔を近づけられた。
「なに不機嫌になってやがる…」
「……なんのことだよ」
「しらばっくれるな。いかにも拗ねてますって顔しておいて」
同じ色の瞳のあいだで、つかの間火花が散る。
先に折れたのは、ルークの方だった。
「……アッシュがあんな顔するからだろ」
「なんのことだ?」
わけのわからないことを言い出したルークに、アッシュの眉間に皺が寄る。
「さっき、メイドに笑ったじゃねえか!」
「はあ?何わけわからねえこと言ってやがる!メイドにいつもへらへら笑ってんのは、おまえの方だろうが!」
ルークは、人見知りなくせに人懐っこいところがある。
特に自分の身のまわりの相手には、惜しげもなく笑顔を見せる。アッシュはそれが気に入らないのだが、ルークが自分にむける笑みがそのどれとも比べものにならないほど幸せそうなことを知っているので、いまのところうるさく言ってはいない。
だからルークのその言い分は、アッシュにとっては理不尽きわまりないものに聞こえた。
「だって、アッシュはいつもはあんなふうに笑わねえじゃねーか。なのに…」
だんだんと、ルークの声が小さくなってゆく。
それにつられたように、目には見えない大きな耳がしおれてゆくのが見えるような錯覚をおぼえる。
「つまりおまえは、俺がメイドに笑ったのが気に入らないのか?」
普段からもっと愛想を良くしろとうるさいのは誰だ、と反論したい。これではまったくだだっ子の相手をしているのとかわりない。
「……だって、あんな綺麗に笑う顔、他の奴に見せたくねえし」
そして、爆弾は突如落とされる。
アッシュは一瞬気が遠くなりそうになりながら、かろうじてもちこたえた。
「それが、テメエがンな面している理由かよ」
「そうだよ。ったく、気分悪りい……」
ぶつぶつと他にもなにか呟きはじめたルークに、アッシュはため息をひとつつくと、ルークを膝の上にのせたまま抱きしめた。
「アッシュ…?」
「ったく、くだらねえ理由で逃げてきたから説教してやろうと思ってたんだがな」
そんなことを言われては、できるわけがない。
「しかたねえな……」
諦めたように抱きしめたルークの肩口に顔を埋めたアッシュに、ルークはきょとんと目を丸くしてから嬉しそうに笑って抱きかえした。
今日は、このままもう仕事にならないだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、アッシュは腕の中の愛しいぬくもりにそっと口づけた。
END(07/03/01)
「そういやおまえ、なんであんな大騒ぎして逃げてきたんだ?」
「そうだ!聞いてくれよ。あの仕立屋が新しく連れてきた助手がいたんだけどよ、あの野郎、採寸っていいながらベタベタ人に触りやがって。最初はなれてねえのかと思ってたんだけど、仕立屋の親父がちょっと席を外したら尻に触ろうとしたんだぜ!許せねえ!」
「……そいつはどうした?」
「一発殴ってきたけど…って、アッシュ?」
後に、公爵家出入りの仕立屋から、一人の助手が忽然と姿を消したことは言うまでもない。
*追記が余計だった気がする。