タナトスと小さな共犯者






「……以上が今回の任務の報告になります。まったく、こんな片手間にすませられるような任務など、今後振ってきたら全力で拒否させていただきますよ」

サフィールは不機嫌を隠すことなくそう言うと、神経質そうな仕草で眼鏡のブリッジを押しあげた。
そんなサフィールに微かに苦笑いを唇の端に刻みながら、ヴァンは手渡された報告書を置いてゆっくりと指を組んだ。

「いや、貴殿だからこそこれほど簡単に決着が付いたのだ」
「当たり前です」

持ち上げるようなヴァンの言葉に、サフィールは冷ややかにかえす。

「とにかく、私の研究の邪魔をするようなことは今後避けていただきたいものですね。必要なのでしょう? あなたにとっても」
「言うまでもない」

ヴァンはうっすらと食えない笑みを浮かべると、静かに頷いた。
自分よりも年下のくせにどこかつかみ所のないこの青年が、サフィールはあまり好きではなかった。
たしかにこのダアトに籍を用意して亡命させてくれたのは彼だったが、それは当時のサフィールの目的と彼が提案してきた条件が合致していたから、手を組んだだけのこと。
別に彼の思想に同意したわけでもなければ、その人柄に惹かれたわけでもない。むしろ今でははっきりと気にくわない相手として、サフィールの心の閻魔帳の上位に記されている。
だけど、まだその感情をあからさまに見せるわけにはいかないのだ。
幸いにも、もともと割り切った関係を結んでいただけに、こちらが多少嫌悪の感情を見せても疑われることはない。前はそのことに関してなんとも思っていなかったけれど、今になってみればなんと都合の良いことかと内心ほくそ笑みたい気持ちだった。
だって、どうあっても今の自分は、この男に対して好意を持っているように振る舞えないだろうから。

「では、私は失礼させていただきますよ」

一刻も早くこの男を視界から消したくて、サフィールはさっさと踵を返した。

「ああ、すまないがもう一つ話しておきたいことがある」

だがそのまま部屋から出て行こうとしたところを呼び止められ、サフィールはあからさまに面倒げな表情でヴァンの方をふり返った。

「なんですか? 私は忙しいのですが」
「アッシュと、……それと、レプリカルークのことで貴殿に頼みたいことがある」

ヴァンの口から出たその名に、サフィールは器用に片方の眉だけを跳ねあげた。

「……なんですか?」
気をつけたつもりだったのに、微かに声が震えているのに気がついて、舌打ちしたい気持ちになる。だがヴァンはそれをどうやら都合良いように解釈をしたらしく、指摘されることはない。

「どうにも最近アッシュが反抗的なようなので、ここいらで今の自分の立場というものをきちんと自覚させておこうと思っている」

ヴァンは指を組むと、その上に顎をのせてサフィールを見あげた。

「バチカルのあの屋敷には、もうあの子の居場所はないのだと。あの紛い物のレプリカドールに居場所を奪われたのだと、見せつけておいた方がいいだろう」

紛い物のレプリカドール、と口にしたときのヴァンの口元が蔑むように歪むのを見て、サフィールは軽く目を細めた。
この男を殺したいと思うのは、こんなときだ。
自分の最高傑作であり、そして今ではサフィールにとって数少ないかけがえのない人間の一人になっている、あの子供。
そんな愛しいあの子供を侮蔑するような態度をとるこの男を、何度心の中で八つ裂きにしたことか。

「……それで、何をするつもりなんですか?」

サフィールは一拍おいて問い返すと、したり顔でこちらを見ているヴァンの視線をさえぎるように、眼鏡のブリッジを押し上げた。

「貴殿に、アッシュをバチカルの屋敷まで連れて来てもらいたい」
「私が、ですか……?」

思わず軽く目を見開いたサフィールに、ヴァンは小さく頷いた。

「それと、レプリカルークの方もそれなりに落ち着いたようだが……。念のためだ。異常がないか、一度貴殿に見てもらいたい」

ヴァンの言葉に、サフィールは唇に指を当てながら思考を巡らせた。
本音を言えば、ずっと先まで会えないと思っていたあの子供に会えるのなら、何を押してでもその話を受けたい。
だが、アッシュはどうだろうか。
彼の決意がまだそこまで強固なものになっていないことを、サフィールは時々感じていた。
無理もないだろう。自立心が旺盛とはいえ、アッシュもまだ本来なら親の庇護下にある幼い子供だ。決意が偽物だとまでは言わないが、複雑な気持ちもないわけではないだろう。

「いかがかな?」

促すヴァンの声に、サフィールは一度軽く目を閉じると小さく肩をすくめた。そして。

「いいでしょう」

そう、少々やる気のない声で答えた。


*  *  *



最上階へと登る昇降機を降りると、サフィールは、微かに目を細めて空にそびえるバチカル城を囲む譜業砲を見あげた。
譜業大国キムラスカ王国のその中心部、バチカル。
それは譜業研究に入れ込む彼にとっては、譜業の街シェリダンに続いて魅力的な場所でもあった。
思わずうっとりと城を囲む譜業の数々を眺めていたサフィールの服の裾を、隣にいた少年が引っ張った。

「なにぼさっとしてやがる……」

低く呟かれたその声には、はっきりと苛立ちの音が混じっている。サフィールはようやく我に返ったように同行していた少年──アッシュを見下ろすと、小さく咳払いをした。

「いいじゃないですか、少しくらい……」
「うるせえ。さっさと行くぞ」

アッシュはフードを目深に被ったまま先に歩き出すと、数歩進んだところで苛立たしげにサフィールをふり返った。
まるで毛を逆立てた猫のようなその様子にサフィールは小さく肩をすくめると、アッシュの隣にならんだ。

「それで、ファブレのお屋敷はどちらですか?」
「……こっちだ」

アシュは一瞬フードの陰で目を泳がせたが、すぐに思いきったように歩き出した。
そんな少年の様子を軽く目を細めて見つめながら、サフィールもその後に続く。

「お屋敷に着くまではそんなに必死に顔を隠さなくても、誰もあなただとわかりませんよ」
「うるせえ」

勢いよくふり返った拍子に、フードの中から髪がこぼれ落ちる。地味な榛色のフードの上にこぼれ落ちた髪の色は、赤味のかった栗色。フードの陰から睨みつける瞳の色も、深い青だった。
もともと屋敷からほとんど出してもらえなかったというアッシュの顔を、知るものは少ない。それでも万が一のことを考えて薬と譜術で色を変えているのだから、よほど親しいものでなければ本人だと見抜くことは出来ないだろう。

(──ヴァンも、思い切ったことをする。)

サフィールがヴァンを嫌う点は、そういうところにもある。
人の心の弱いところをつくのが上手いのだ。あの男は。
かつては自分も、レプリカ研究だけでなくネビリムの復活をも投げ出してしまったジェイドに絶望していたところを、ヴァンに言葉巧みに誘われダアトに亡命してしまった。
そんなふうに、人を唆して自分の思うように操る術にあの男は長けている。しかも始末の悪いことに、その能力は善意のときでも悪意のときでも同じように発揮されるのだ。
人は、弱った心を優しく羽根で包んでくれるような人間を盲目的に信じてしまう。そういう点で、ヴァンという男は鬱屈した思いや弱った心を抱えている人間にとって、恐ろしく魅力的な人間であった。
そして、時には恐ろしく大胆にそして冷酷にもなれる男でもあることを、サフィールも認めないわけにはいかない。
今回のアッシュの件だってそうだ。
もしこれでアッシュが屋敷で名乗りをあげてヴァンを糾弾したら、ひとたまりもないはずだ。
それなのにあえてその危険を侵そうとする彼のやり方は、サフィールから見ればひどく馬鹿馬鹿しくも思えるが、こうやってアッシュと一緒にここまで来てみると、あながち的外れなやり方ではないのかもしれないと思わされてしまう。
正直言って、サフィールは他人の気持ちを察するという類のことが苦手だ。
だから実際アッシュにここまで同行してきて、彼がまだヴァンへの憧憬や思慕を捨てきれず、自分でも自覚のないままヴァンの思惑通りの心理へ押しやられていることを改めて知った。
ヴァンは、アッシュが自分を訴えるような真似に出るはずがないと、確信しているのだ。

(不快ですね……)

サフィールは、ざらりとした何かが胸の奥を撫でたような不快感に小さく顔をしかめた。
善人ぶる気は毛頭ないが、人の弱さにつけ込むヴァンのやり方はどうにも好きになれない。もっともそれは、サフィール自身が弱い心を抱えている自覚があるからなのかもしれない。
彼だったらどうするだろう。
ふと、金茶色の髪を持つ幼なじみの白皙の横顔を思い出して、サフィールは唇の端をあげた。
同じ騙すにしても、彼は甘い言葉だけで騙すことなんてしない。もっと巧妙で腹立たしい騙し方をするだろう。だけど、時には優しくない方が残酷ではないこともあるのだ。

「何を笑っている」
「……なんでもないですよ。それよりあなた、今からそんなに緊張していてどうするんですか? 見て、確かめたいのでしょう?」

苛立ちを含んだアッシュの声にサフィールは小さく肩をすくめると、フードの上からアッシュの頭をぎこちなく撫でた。
手の下で、びくりと驚いたようにアッシュの身体が震えるのがわかる。それだけで、この子供が人との接触に慣れていないのだとすぐにわかった。
以前ならそんなことにも気づけなかっただろうけれど、今は違う。
大切に守りたいものが出来てからこちら、サフィールの中には今までにない感情が生まれている。だからこそ、わかるようになったことがあった。

「いつまで撫でている」

ようやく我に返ったアッシュが、決まり悪そうにサフィールの手を払いのける。だが先程まであったぴりぴりした雰囲気は、彼からなくなっていた。

「では、行きましょうか」
「ああ」

短く答えるアッシュの声にはまだ少し迷いがあったが、大丈夫だろうという確信がサフィールにはあった。
そう、この密かな里帰りがかえって彼の決意を強めるだろう、と。
そうなれば、彼は自分にとって小さな共犯者となる。
同じたった一人のために、自分たちは密かに計画を進めてゆくのだ。


そしてその愛しいたった一人に会うために、いま自分たちは運命の門をくぐる。



END(08/09/23)


時間があれば、この後のアッシュ視点も書きたい。