トロイメライ




 
瞼の上に感じる陽の明るさに、ルーシュは珍しく自分からぱちりと目を覚ました。
いつもならアッシュに蹴られるか叩かれるかして起きるのに、珍しいことがあるものだと思いながら横を見て、ぎょっとする。

「あれ……? アッシュ?」

そこには、いつもならとっくに起きているはずの兄が寝ている。一瞬ルーシュは自分がありえないほどの早起きをしてしまったのかと思ったが、この陽の明るさから察してありえない。

「ふ〜ん、珍しいことがあるもんだな」

ルーシュはいつにない優越感を感じながら、アッシュの寝顔を覗きこんだ。
昼寝の時でもないと見られないアッシュの寝顔を、こうやってベッドの上で見るのはほんとうに久しぶりのことだ。悪戯でもしてやろうかなどと意地の悪いことを考えて、ふと気がつく。だけど、普段ならまだしも、寝ているときもこんなに難しい顔をしていただろうか。
そこでようやくルーシュは、アッシュの耳の毛がいつもよりずっと艶がなくて毛羽立っていることに気付き、首を傾げた。

「アッシュ?」

ゆさゆさと肩を揺すってみるが、答えはない。それに不安を覚えて今度はもっと強く揺すってみるが、やはり反応がない。
ルーシュは不安そうにアシュの顔を見ながらおそるおそるその額に手をあてたとたん、ぶわっと尻尾をふくらませた。

「がっ、ガイ――――っ!! アッシュが死んじまう!」

困ったときのガイ頼み。
いつにない仔猫の叫び声に、めずらしく朝食の時間になっても一人もあらわれない仔猫たちを不思議に思って離れに向かっていたガイは、慌てて部屋の中に踏み込み思わず目を丸くした。
尻尾をふくらませて涙目になっているルーシュが、ガイの姿を見るなり飛びついてくる。混乱しきって何を言っているのかわからないが、聞くよりも見る方が先とベッドの上を見て、ガイは何とも言えない顔になった。
そこにいたのは、ぐったりと目を閉じて丸くなっている黒仔猫と、この騒ぎにも目を覚まさない小さな白仔猫。
その何とも言えない対比にため息をつきながら、ガイはアッシュの額に手をあててしばらく様子を見ると、まだ寝ているルークを抱きあげた。

「ガイ……」
「とりあえず、お前たちは部屋を出ていろ。ルーク起きられるか?」

抱きあげた拍子に目が覚めたのか、うにうにと目を擦っている仔猫にガイはそう訊ねると、眠そうな顔のまま頷くルークを部屋の外まで連れて行きおろした。
「ルーシュ、ルークを頼むな。それと、誰かにラムダスさんにお医者様を呼んでくれるように頼んでもらえるか? 俺は、アッシュの様子を見ているから」
「わ、わかった!」

ルーシュはまだ半目でぼんやりした顔のままでいるルークの手をしっかりと握り直すと、引きずるようにして母屋にむかって駆け出した。その後ろ姿を見送りながらガイは小さく肩をすくめると、医者が来るまでの間アッシュに付き添うために部屋の中に戻っていった。



涙目で母屋に飛びこんできた次男に驚いたメイドたちが大騒ぎしたすえ、ようやく呼ばれた医師によって風邪と診断されたアッシュは、そのまま離れで寝込むこととなった。
ちなみに、風邪をひくような原因に思いたる事はと問われたガイが、乾いた笑いを上げるしかなかったのにはわけがある。その前日、三匹の仔猫たちはそろって中庭の水路に落ちたのだが、どうやら貧乏くじを引いたのは長兄だけだったらしい。
ちなみにその原因は弟たちの方にあるのだから、本当に踏んだり蹴ったりだ。
白仔猫たちは離れへの立ち入り禁止を命じられ、母屋に臨時の部屋が設けられた。その頃になって、ようやく寝起きから引きずり回されていたルークも状況をのみこんだらしく、ちょっと寂しそうな顔はしたが大人しく与えられた部屋に引っ込んだ。
だからそれは、これで一段落と屋敷の者達が気を抜いたその一瞬のことだった。



自分の背丈よりも高い場所にある窓枠に飛び移りながら、こんな時ばかりは自分が耳族であることをルーシュは感謝していた。
音を立てないようにそっと窓を開けて部屋に降りると、ルーシュはベッドに駆け寄った。いつもは三人で並んで寝ている大きなベッドの真ん中に、いまはアッシュだけが眠っている。前にルーシュが風邪をひいたときもそうだったが、そうやって一人で寝ていると、酷く寂しいのだ。

「アッシュ」

そっと名を呼んでみると、心得ていたようにぱちりと翠の瞳が開く。だけど普段は三匹の誰よりも澄んだ深い色をしている瞳が、いまは熱に潤んでいる。

「……てめえだけか。ルークは?」
「昼寝してる。俺だけ抜け出してきた」

だいたいチビを連れてこられるわけねえだろ、とルーシュが続けると、珍しく同意するようにアッシュがすこし笑みを浮かべた。

「てめえも入るなって言われてんだろ」
「うん。でも寂しいだろ、一人だと。俺の時だっておまえが来たじゃねえか」
「はっ……、俺はおまえとは違う」

相変わらず可愛くないことを言うが、強いて追い出すようなことを言わないのだからやっぱりアッシュも寂しいのだろう。ルーシュは勝手にそう判断すると、ちょこんとベッドの端に腰をおろした。

「寝るまで手を繋いでいてやろうか」
「ガキじゃあるまいし……」
「じゃ、じゃあなにかして欲しいことはねえのかよ」

いつもならこんな風に邪険にされればへそを曲げるルーシュだが、今日は違う。だって、自分の時は寂しくてたまらなかったとき、少しの間だけどアッシュが一緒にいてくれたから我慢できたのだから。
だから、自分も同じようになにかアッシュにしてあげるのだと決めていたルーシュは、もちろん引き下がる気などない。そんなルーシュの気持ちを読み取ったのか、アッシュは仕方ないというように小さくため息をついた。

「……じゃあ、何か歌え。そうだな、前に歌ったあの歌を歌え」
「あの歌って……?」
「夏に城で歌っていただろ」
「あ〜、あれか」

理解したと同時にその時の幽霊騒ぎのことも思い出したのか、ルーシュがちょっとだけ嫌そうな顔をする。それにイヤかと訊ねてきたアッシュにルーシュは慌てて首を横にふると、覚悟を決めたようにすっと息を吸い込んで歌いはじめた。
一応内緒でもぐり込んできていることを意識してか、その歌声は小さい。それにもともと短いフレーズの歌なので、すぐに終わってしまう。そのたびにアッシュが目線で促すので、ルーシュは仕方なくそのままずっと同じ歌を歌い続けた。
もともとルーシュはルークにせがまれることが多いので、歌うこと自体はそれほど苦痛ではない。だがその相手がアッシュとなると、やはり勝手が違う。それでもちらちらと様子を伺えば、気持ちよさそうに自分の歌に耳を傾けているようなので、まあいいかと思いなおす。
とりあえずアッシュが眠るまで、子守歌がわりに歌ってやろう。
そんなことも考えていた。



静かにドアを開いて部屋に入ってきたガイは、ベッドの上にここにいてはいけないはずの仔猫が入りこんでいることに気がついて、まず目を丸くした。

「ガイか……」

そんな彼にアッシュは小さく声をかけると、そっとベッドの上に起きあがった。

「なんでルーシュがここに?」
「窓から入ってきた」
「……ったく、おまえも入れるなよな。わかってんだろ?」

小声でたしなめるが、アッシュは聞こえないふりをしている。そんな彼らしくない子供っぽい態度にガイは苦笑いしながら、アッシュの額に手をあてた。

「なんだ、熱は下がっているじゃないか」
「こいつのおかげだな」

アッシュは目線でルーシュの方をしめすと、なんとも複雑な顔をした。

「……ためしに歌わせたんだが、こいつ、ファーストエイドも使えねえくせにまんまと譜歌だけで俺のことを癒しやがった」
「じゃあ、もしかしてそれで疲れて寝ているのか?」
「かもな」

アッシュはそっとルーシュの頭を撫でると、小さくため息をついた。
夏の幽霊騒動で、どうやらルーシュに音律士の才能があるらしいことをほのめかしたのはアッシュ自身だが、まさかなんの訓練もせずにここまで力を発揮できるとは思いもしなかった。

「もっとちゃんと訓練を積んだら、ユリアの大譜歌も歌えるかもな」
「まさか……」
「わからねえぞ。もともと俺たちには第七音素の素質があるし、どうやらちょっと珍しい『超振動』なんて力もあったみたいだからな」

アッシュはまんざらでもない口調でそう言うと、小さく伸びをした。

「でも、ルーシュが音律士かあ……」
「柄でもねえけどな」
「まったくだな」

どちらかといえば剣を振り回して暴れまわっている剣士の方が、ずっとルーシュには似合っている

「それで、こいつを連れ出すのか?」
「いや、どうやらもう平気みたいだから久しぶりに二人で昼寝でもしたらどうだ?」
「……ルークが怒る」
「俺が面倒見ておいてやるよ。そのかわり、明日は二人で一緒に遊んでやれよ」

難しそうに顔をしかめたアッシュにガイは小さく笑うと、かけ布団の上で寝てしまっているルーシュの身体を少し抱きあげてベッドの中に入れた。

「それじゃ、おやすみ」

ガイの笑顔がドアの向こうに消えると、アッシュはため息をつきながらもう一度横になった。
朝の苦しい感じは嘘のように軽くはなっていたが、やはり体力は消耗しているらしく、横になるとすぐに眠気がやってきた。アッシュはすっかり寝入っているルーシュの身体をよせると、そっとその手を握った。

「おやすみ」

やわらかな眠りの世界は、もうすぐそこにあった。



END
(09/01/21)


*ルーシュが音律士の才能ありという夏別荘ネタは、キャラメルどうわに収録。リクエストの中に歌うルーシュのネタでとあったので、使わせていただきました。ありがとうございました。