安心の温度
不意に背中にかかってきた重みに、アッシュはまたかと思いつつも、特に何の反応も見せずにそのまま手元の本へと視線を走らせていた。
背中にのしかかってきたその重みは、しばらくのあいだはぺったりとおとなしく背中にはりついていたが、すこしするともぞもぞと落ち着きなく動きはじめた。
それもまたいつものことであったけれど、今日に限ってなぜかそれが少しだけ気になった。
「なんだ?」
「え?あ、うん…」
声をかけられるとは思っていなかったのか、背中の方から少しあわてたような声があがる。しかし離れるつもりはないらしく、背中にかかる重みはそのままだった。
「ごめん、邪魔だよな…」
「邪魔だっていったら離れるのか?」
問いには無言が返される。
つまり離れるつもりはないということなのだろうが、それならそんな事を言わなければいいのにと思う。
だいたい、今まで一度も注意をしなかったのだから推して知るべしだろう。
人の言葉を額面通りに受け取ることが多いのは性格なのか、それとも彼自身の本来の年齢ゆえなのか。…たぶん、両方だろう。
おもわずため息を漏らすと、びくりと背中にはりついた重みが震えたのがわかった。
それにさらに続きそうになったため息をどうにか押しとどめると、アッシュは肩越しに自分の背中にはりついている己の半身を見下ろした。
「だから、なんだ…?」
「……別に」
ルークは決まり悪げに目をそらしたが、それでも離れることはしなかった。
一緒にファブレ家で暮らすようになったはじめの頃はさすがにぎくしゃくしていたが、今ではすっかり実の兄弟のように彼らは暮らしている。
そのせいか最近では、ルークはアッシュに触れることに遠慮がなくなっている。
もともとスキンシップは、嫌いではないのだろう。
それに、ルークの実年齢を考えれば、まだ誰かに甘えたい時があるのもわからないでもない。
その対象に自分が選ばれたのはおそらく消去法だろうと、アッシュは思っている。
無意識に遠慮なく甘えられる対象だったガイは、いまはもうこの屋敷にいない。
かといって、いくら実年齢が10才ほどとはいえ身体的にはほぼ成人に近いこともあるから、親に甘えるのはさすがにプライドが許さないのだろう。
となると、残るのはアッシュだけなのだ。
そう考えると随分と勝手な話だが、アッシュ自身はこうやってルークに甘えられることに抵抗はあまりない。
いや、どちらかといえば甘やかせるところでは甘やかしてやりたいと密かに思ってもいる。
そう遠くない過去、誰よりも辛い運命にさらされたこの子供は、心から甘えることも許されなかった。
そのことを、アッシュは誰よりもよく知っている。
この世界に戻ってきたとき、彼らは互いの記憶を分け合ったから。
どれだけ大きな傷を彼が負ってきたのかを、知っているから。
こうやって時折ルークが背中越しに甘えてくるのは、その傷に耐えられなくなったときなのだとアッシュは知っている。
ルークは決して弱くない。
だが、悲しみに押しつぶされそうになったことのない人間などいない。
だからアッシュは、こうやって背中越しに彼が甘えてきても好きにさせておくのだ。
「こうやってると、温かいんだよ…」
少しして、ぼそぼそと言い訳のようにそうルークが呟いた。
「くっついてるんだから当たり前だろう」
「そうじゃなくて」
さらに背中にぴったりと寄り添うように体を押しつけてきながら、ぽつりと小さな声でルークが呟く。
「……温かくて、安心できるんだ」
それきり黙ってしまったルークの重みを背中に感じながら、アッシュも黙ったまま本のページをめくった。
互いの鼓動がゆっくりと同じ速度で打っているのが、くっついているところから伝わってくる。
ああ、そうなのか。
ふいに、すとんと何かが胸の中に落ちてきた感じがした。
彼を安心させるためにそれを許しているのではない。
こうやってルークが自分に寄りかかってくることで、アッシュ自身も説明のつかない温かなものを彼からもらっているのだと。
やさしい温度を分けあい、互いを支えるためのこれは儀式なのかもしれなかった。
END
(06/12/06)