十年ロマンス




 それはあまりにも情けないというか、気の抜けるような音だった。
 ぼへっとか、ぼふっとか。緊張感の欠片もない音。
 何が起こったのかを頭が理解する前に視界がぐるりと回り、突然どこかに投げ出されたような感覚があったと思ったら、白い煙に周りを囲まれていた。

「な、なにっ? 火事?」

 ルークはごほごほと咳き込みながら、あわてて煙を追いやるように手を振る。
 と、突然煙の向こうから出てきた手に腕を掴まれ、強く引かれる。まったく油断していたこともあって、されるがままに煙の中から引っ張り出される形になったルークは、慌てて自分の腕を掴んだ相手を見上げてそのまま固まった。

「……あ、アッシュ……?」
「誰だって抜かしやがったらただじゃおかねえ所だったが、一応そこまでバカじゃなかったか」

 それはもう、間違えようのないほどいつもの調子でそう言ったアッシュは、ルークの顔を見て質の悪い笑みを浮かべる。
 いつもならそんなアッシュの言葉に何かしらの反応をかえすルークだったが、いまはそれどころではなかった。
 なぜならいま目の前にいる相手は確かに良く見知った相手であり、そのルークが大好きな綺麗な赤い髪も自分よりも深みのある深緑の瞳も、たしかに自分の半身たる彼が持っているものなのだけれど。

「えーと、アッシュ……だよな」
「何度も聞くな。相変わらず状況認識能力に欠けているようだな」

 応える皮肉たっぷりの言葉は、いつもの調子。だけどその声は自分が知っている彼よりもだいぶ落ち着いた、深みのある声。
 声だけではない。たしかにもともとアッシュは、ルークよりも大人びた顔立ちをしている。だけどそれではすまされないくらいに、いま目の前にいる彼は幼さが完全に抜けきった大人の顔をしていた。

「アッシュが老けた……」

 思わずといった感じで呟いたルークに、冷たい視線が向けられる。それに危険を察して慌てて手で口をふさいだルークに、どうやらアッシュらしい相手は呆れたと言わんばかりに深いため息をついた。

「一応説明してやる。てめえは今、十年後の世界に来ているんだ」
「十年後?」

 あまりに唐突な話に、ルークは目を丸くした。突然そんなことを言われても、にわかには信じがたい。しかしいま目の前にいるアッシュは、確かにルークが知る彼よりもはるかに年上に見える。でも、たしかにアッシュだとは思うのだけれど、本当に彼は十年後のアッシュなのだろうか。
 そんな考えが顔に出ていたのだろうか、彼はニヤリと意地の悪い笑みをうかべながらルークの目を覗き込んできた。
 もう慣れてしまった軽い頭痛と小さな金属音のような音ともに、意識が繋がったのがわかった。そんなことが出来るのは、この世界でたった一人だけだと分かっている。

「本当にアッシュなんだ……って、ええええええぇっ!」

 ようやく状況認識が追いついて突然叫び声を上げたルークに、アッシュはうるさいと言わんばかりに顔をしかめる。

「うるせえ、突然叫ぶな。とにかく、今の状況は把握できたな?」
「お、おうっ。……って、なんでアッシュはそんなに落ち着いてんだよ!」
「てめえとは出来が違うからな」

 そう言って不遜に笑う顔も、ルークが知っているアッシュよりもずっと様になっている。うわあ格好いいかもなどとうっかり呑気なことを考えていたルークは、ふと疑問に思っていたことを口にした。

「なあ、なんでこんな昼間からベッドの上にいるんだ?」

 自分がベッドの上にいるのは、あまり胸を張れたことではないが良くあることだと思う。だがルークが知る限りアッシュは、よほどのことがなければ昼寝などしないはずだ。
 その言葉を聞いてアッシュは軽く目を瞠ったが、すぐに苦笑にまぎらせる。
「そういや、まだだったか」
「は……?」

 こっちの事だとさっさと片付けられてしまい、ますます首を傾げたルークの頭を、不意にアッシュの大きな手が撫でる。

「とりあえず、呼んだらこっちに来い。戻るまでにはまだ時間があるからな」
「え…?あ、うん」

 最後にポンと軽く頭を叩くと、アッシュはさっさとベッドを降りて隣の部屋へいってしまった。その後ろ姿を見送る形になったルークは、ベッドの上に座り込んだまま先程アッシュが撫でてくれた場所にそっと触れてみた。
 なんだかそこだけがほんわりと温かく、敏感になっているような気がする。

(なんだろう?)

 気のせいか、ひどくそわそわした感じが胸のあたりにある。
 自分でも良くわからないその感じに首を傾げていると、しばらくしてアッシュの声がかかる。その声にルークはベッドを降りると、一度大きく頭を横に振ってから隣の部屋へむかった。


 * * *


 何かが違う、とすぐに思った。
 見慣れないソファは、十年のあいだに買い換えたかファブリックを貼りかえたのかもしれない。でも茶器や紅茶はなじみのもので、やはり見慣れた部屋の中で用意されたそれらはいつも通りの雰囲気を作り出している。
 いや、そもそもそれがが問題なわけではないのだけれど。

「なあ、なんかこれって変じゃねえ?」

 だから一応この場にいるもう一人に、ルークは訊いてみる。

「なにがだ?」

 しかし期待に反してあっさりと返ってきたそのこたえに、ルークは自分の常識力を試されているような気がした。

「なにがって、この状況が……」
「茶を飲んでいるだけのことが、何か問題でもあるのか?」
「いや、そうじゃなくて」

 茶を飲んでいるだけなら確かになんの問題もないし、ルークだってわざわざ訊いたりしない。問題はそれ以外の所にある。

「なんで俺の隣にいるんだ?」

 向かい合わせにソファがある場合、二人以上いるかかなり親密な状態でなければ同じソファで隣同士に座るなんて事はまずありえない。しかも、かなり密着した状態で、だ。
 借りてきた猫のように縮こまっているルークの隣で、アッシュは優雅にカップを口元に運ぶ。
 先程から何となく気がついてはいたが、十年後のアッシュだという彼はルークよりもずっと背が高くなっている。ちらりと横目で見上げた横顔も、少し冷たい感じはあるがジェイドとはまた違った種類の美形だ。
 うっかり見とれていると、視線を感じたのかアッシュがこちらを振りむく。ふとやわらかく笑んだ緑色の瞳に、なぜか心臓が跳ねあがる。
 自分の知るアッシュは、滅多にそんな目で自分を見ることはない。
 ローレライの解放後、何時まで寝こけていたんだと仲間たちに笑われながらも二人で世界に戻ってきて、いまは一緒に暮らしているけれど。たいてい怒ったような目か呆れたような目が向けられ、投げつけられる言葉もかなり辛辣だ。もっとも、それでも以前のような険悪さはこれでもだいぶ薄れているので、十分優しいと感じてはいるけれども。

「……なあ、聞いても良いか?」
「なんだ」
「ここでの俺って、今どこにいるんだ?」
「お前と入れ替わって十年後に行っている」

 さらりと返された答えは、だけどルークにとってはとても大切なことを含んでいる。

「一緒にいるんだ、俺たち……」

 呆然とした顔で呟くルークに、アッシュが怪訝そうな顔になる。

「あたりまえだ。それ以外のどこにお前がいるっていうんだ」
「うん……だな」

 ルークは、ぎゅっと誤魔化すようにカップを両手で包み込んだ。胸のあたりに何かが詰まったように苦しい。だけどそれは哀しいとかそういう辛い苦しさじゃなくて、嬉しくてのそれだ。
 アッシュにとっては、たいして意味のない言葉だったかもしれない。だけどそれは、ルークにとってはかけがえのない言葉だった。ここにいるのが当たり前なのだと、他ならぬ彼が言ってくれたから。
 突然ぽふんと軽く頭を叩かれ、驚いて顔をあげるよりも前に強い腕に引かれて抱きこまれた。
 わたわたとしているあいだにカップも取りあげられ、改めて背中から抱え込まれるように抱きしめられる。ふわりと涼やかな香りに包まれ、心臓はいまにも飛び出しそうに激しく鼓動を打っているのに、なぜか心はすとんと落ち着く。

「……落ち着いたか?」

 まるで心でも読んだかのように聞かれ、ルークは慌てて頷く。それにアッシュが頭の上でクスリと小さく笑った気配がした。

「なんか、変な感じ……」
「ん?」
「……アッシュが優しい」
「そうか? おまえはいつも文句ばっかり言ってるぞ」

 くくっと楽しそうに笑う声がちょうどつむじのあたりにかかり、むずむずとする。やはりなんだか調子が狂う。
 だいたいがいつも怒鳴られている方が多いので、こうやって優しく髪まで撫でられているいまの状況がどうにも信じられない。いったいこの十年の間に、自分たちのあいだに何があったのだろうか。

「未来のことを教えるのは、タブーだって分かってるな」
「へ……? あっ、おまえ。まだ回線繋いでんのかよっ!」
「繋いではいるが、そんなことぐらいお前の顔を見れば分かる」

 からかう口調ではあるけれど、やはりルークの知るアッシュとは違って落ち着いたその声にドギマギさせられる。どうにもこの低い声で囁かれると、反抗する気持ちが萎えてしまう。

「……じゃあ、やっぱり未来の俺がどんなかも聞いちゃダメか?」
「十年経ってもあまりかわんねえな」

 さらりと漏らされた情報に弾かれたようにふり返ると、アッシュは少し意地の悪そうな笑みを唇の端に刻んだ。

「相変わらずバカで世話が焼けて、寝汚ねえし文句はたれるし。おまけに、頭に血が上りやすいかと思えば、わけのわかんねえことでウジウジする。そう言うところは全然成長してねえな。……ついでに、身長もな」
「なにいぃっ!」

 一番最後の一言に激しく反応するルークに、アッシュはたまらず吹き出した。しかしルークはそれどころではない。

「嘘だろ? アッシュがンなでかくなってんだから、俺だって同じくらいになってるはずだ!」
「信じるかどうかは、テメエの勝手だがな。だが、確実に俺よりは小せえ」
「なんで、おまえだけでかくなってんだよ! つか、信じねえっ!」
「俺がお前よりも小さいはずねえだろ、よく考えろ」
「同位体のくせに〜!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐルークを平然とした顔で腕の中におさめたまま、アッシュはそんなルークの顔を楽しげに見下ろしている。その顔がなんというか、からかうとかそんなものではなく可愛くてたまらないという顔だったので、ルークは毒気を抜かれた。

「しかし、やはり色々と新鮮だな。十年前のおまえは」
「気味悪いこというな!」
「心外だな。褒めてやっているのに」
「俺を褒めるアッシュ……」
 あまりに想像がつかなくて変な顔をしていると、アッシュは苦笑を浮かべた。

「十年前の俺は、そこまでどうしようもない奴なのか……? いや、そうだったな」

 遠くに思いを馳せるような目をすると、アッシュはよしよしとルークの頭を撫でた。

「もう少し伝わっていると思ってたんだが、あいつの言うとおりだったな」
「へ?」
「気にするな、こっちのことだ」

 そう言ってアッシュは、まるでジェイドのような煙に巻くような表情を見せた。

「……おまえ、ジェイドみてえ」
「あのクソ眼鏡野郎と一緒にするな」

 途端に苦虫を噛みつぶしたような顔になったアッシュに、十年経ってもやはり仲が悪いのかとおかしくなる。

「みんなも元気なんだな」
「さあ、どうかな」
「俺、すごく幸せになってるんだな……」

 ルークの頭を撫でていたアッシュの手が、ぴたりと止まる。そのまま頭の上に置かれた手に怪訝に思ってふり返ると、なぜか困ったような顔でこちらを見ているアッシュの顔があった。

「……ったく、こっちは我慢してやってるって言うのに。あいかわらずお前は呑気だな」

 我慢という言葉に、すこしだけドキリとする。しかしそんな動揺などあっさりと見抜かれたのか、アッシュはそんなルークの頭をはたいた。

「だからそう言う顔をするな。てめえが考えているようなことじゃねえ」
「う、うん……」

 それでも自信なさげに眉尻をさげるルークに、アッシュはさらに言葉を重ねる代わりに抱きしめる腕に力をこめた。

「いいか、これだけは覚えておけ。なにがあっても俺はおまえを手放す気はねえ。十年前の俺がどんな態度を取っていようと、昔みたいにおまえのことを憎んだり消えろなんて欠片も思っていねえ。もし目の前から消えやがったら、草の根わけてでも探し出してやる。世界中のとこにいてもな……」

 なんだか随分と物騒なことを言われているような気もするが、それ以上に求められているのだと実感できるその言葉が嬉しかった。十年後の自分は消えてもいないし、それどころかこんなにも幸せなのだ。

「そろそろ時間だな」

 小さなその呟きにハッと顔をあげると、アッシュはまた呆れたように苦笑を浮かべる。

「だから、そんな顔をするな。俺はここで待っていてやる。だから、十年かけてここまで戻ってこい」

 その言葉にどんな思いが込められているのかわかって、ルークはくしゃりと顔を歪めた。アッシュはそれに気がつかない振りをして、続ける。

「さっきの言葉を忘れるなよ。だから逃げ出そうなんて、二度と考えるな。……たぶん、『俺』も同じ事を言うだろうけどな」

 コクコクと言葉もなく頷くルークに、アッシュは軽く眼を細めると唇を重ねてきた。
 音を立てて唇を離すと、アッシュは驚きに目を丸くしているルークに笑いかける。

「相談料だ。それと、十年前の俺を頼む」
「あ……」

 アッシュ、と呼びかけようとするよりも前に来たときと同じような白い煙が二人の間にたちこめる。煙の影で、こちらを見るアッシュの目が微かに笑ったのが見えた。
 そしてまたどこかに放り出されるような感覚がルークを引っ張り上げ、そして、それが最後だった。


 * * *


「──ってぇ!」

 ドスンと派手な音とともに腰のあたりをしたたかに打ったルークは、思わず声をあげた。目の前にはまたもや白い煙だ。うっかりそれを吸い込んでしまいごほごほと噎せていると、煙の中から手が伸びてきてルークの体を引き上げた。

「うわわっ!」

 無理矢理立ち上がらされ、その勢いのまま倒れそうになったところを誰かが支えてくれる。だがそれにホッとする間もなく、今度はその相手におもいきり頭をはたかれる。

「てめえは何をやっている!」

 苛立ちが込められた怒声に、ルークは反射的に腰の痛みも忘れて背筋を伸ばした。そして薄れてゆく煙の中にこちらを睨んでいるアッシュの顔を見つけて、引きつった笑みを浮かべた。

「あああ、アッシュ?」
「ふん、どうやら戻ったみたいだな」

 その冷たい物言いといいきつい眼差しといい、ルークがよく知るアッシュ以外の何者でもなかった。

「あ、あのさ、もしかして本当に十年後の俺がここにいたのか?」
「ああ……」

 アッシュはもの凄く嫌そうな顔で答えると、そのまま踵を返した。おいて行かれるとと思った瞬間、強い力に手を引かれてルークは勢いよくアッシュの背中に突っ込んだ。

「え……?」
「てめえは、前向いてあることもできねえのか」

 当然のことながら怒声が飛んできてまたひとつ頭をはたかれるが、そこでようやくルークは自分の手がアッシュに握られたままな事に気がついた。

「勝手に出て行こうなんて、誰が許すと思っている。これはてめえが逃げ出さないようにしているだけだからな!」

 ポカンとした顔で自分を見つめるルークに、アッシュは早口でそれだけ言うと肩を怒らせながらルークの手を引いて歩き出した。
 アッシュに引きずられるようにして歩きながら、ルークはようやくじわじわと先程言われたことの意味を理解しながらその手を握りかえした。

「アッシュ、俺、十年後のお前に会った」
「そうか」
「でも、どんなだったか教えねえ」

 ピタリとアッシュの足が止まり、後ろをふり返る。

「嘘。すげえ格好良かった」

 そう言ってへらりと笑うと、またいきなり頭をはたかれた。

「なっ! 褒めたのになんで叩くんだよっ!」
「うるせえっ! 自分の頭で考えやがれ!」

 アッシュはそう言い捨てるように叫ぶと、ルークの手を勢いよく振りはらって先に行ってしまった。

「……んだよ」

 せっかく褒めてやったのにとむくれながら、そういえばなんでアッシュは顔を赤くしていたのだろう、とルークはちいさく首を傾げた。

「やっぱりものすごく怒っていたとか?」

 ありえるなあ、などとため息をつきながらルークはずれたことを考えると、すごすごとアッシュの後を追って歩きはじめた。


 繊細な男心を全く察せないお子様がそのあたりの意味を知ることになるまでの道のりは、まだ遠かった。





END(07/12/24)




一部削って掲載する予定でしたが、そうすると次の話との整合性がとれないため、そのまま掲載しました。