十年ロマンス<現在>




 
それはあまりにも情けないというか、気の抜けるような音だった。
ぼへっとか、ぼふっとか。緊張感の欠片もない音。
いったい何が起こったのかとっさに理解できなかったアッシュは、いつの間にかまわりを白い煙に囲まれていることに気がついて、すばやく左右に視線を走らせた。
悲しいかな、これは神託の騎士にいた頃の習性みたいなものだ。アッシュは特に襲撃の気配がないことを探ると、すぐ近くにいたルークの無事を確認しようとふり返ったところで、そちらの方向から聞こえてきた派手にひっくり返ったような音に一瞬緊張した表情を浮かべた。

「……つっ、ててっ……」

しかしすぐに聞こえてきたルークの間の抜けた声に呆れた顔をしかけて、ふと感じた違和感に眉をしかめる。
それでもついうっかりそちらに差し伸べてしまった手が、掴まれる。しかしその感触にますます違和感を感じて、アッシュは思い切りその手を自分の方へひいた。

「……っ、わわっと!」

聞き慣れたルークの慌てた声とともに、これまた見慣れた朱色から金色に変わる短い頭があらわれる。きょとんと丸くなった緑の瞳。どれを取ってみても良く見慣れたもののはずなのに、なぜか違和感がある。

「おまえ……、ルーク、だよな」
「あ、うん。…って、アッシュ?」

一瞬訝しげな顔になってから、なぜかルークは突然声のトーンを跳ね上げるとそのままの勢いでアッシュに抱きついてきた。

「そっか今日だったか! うお〜、まだ髪を上げているアッシュだ! 懐かしいなあ」

わけのわからないことを言いながら、ルークはペタペタと遠慮なくアッシュの体を触りまくってくる。それをはじめは呆気にとられた顔で見ていたアッシュだったが、すぐに我に返ると慌ててその手を振り払った。
振り払われた方のルークははじめきょとんと目を丸くしていたが、すぐにへらりと嬉しそうな笑みを浮かべた。

「悪りい悪りい。説明がまだだったな。えーと、簡単に言えば俺は十年後の俺なんだ」
「は?」

にこにこと満面に笑みを浮かべているルークに、アッシュは一気に胡散臭げな目を向けた。

「寝言は寝て言え……」
「うーん、そういう言い方もやっぱり全く変わってないよな」

じゃあひとつ証明してみようか、と笑いながらルークは改めてアッシュの前に立つ。

「……っ!?」

楽しげに自分を覗き込んでくるルークの顔を、アッシュは信じられない気持ちで見上げた。
ルークは自分とおなじ背丈だったはずだ。それなのに、なぜかいま目の前にいるルークは、僅かではあったが見上げなくてはならない位置に顔がある。

「なっ、これで信じてくれたか?」

そう言って小首を傾げたルークの顔は、まるで悪戯に成功した子供のように勝ち誇って見えた。



「それで、なんで十年後のおまえがここにいるんだ」

納得はしたくなかったのだが、数々の超常現象にはすでに慣れっこになってしまっているアッシュは、ひとまず相手の主張を受け入れることにした。
言われてみれば、やたらと嬉しそうに自分を見ているルークの顔は、わずかに頬のあたりの膨らみがシャープな印象に変わっている気もする。
しかし、その落ち着きのない小犬のような印象も、首のあたりで短く切られたヒヨコのような髪型も、あまりにいつものルークと変わらないのでいきなり十年後の彼と言われてもやはりピンとこない。

「う〜ん、原因は良くわかんねえんだよな。実は」
けろりとそんなことを言うところも、やはり普段のルークと変わらない。
「でもまあ、あと少しでもとに戻るからさ」
「なんでそう言いきれる」
「当たり前だろ? 俺にとっては二度目のことだからな」

本当に彼が十年後のルークなら、たしかにそうだろう。そしてアッシュは、ルークがそういう冗談を自分に対して突き通せないことも良くわかっていた。

「……ということは、十年後にもお前はいるんだな」
「うん。まあな」

そこでルークはちょっと微妙な笑みを浮かべたが、アッシュにとってはそれどころではなかった。
十年後からやってきたというルークの存在そのものが、彼にとっては重要な意味を持っていた。
レプリカの寿命は短い。
ルークはたしかにレプリカの中でも異例ずくめの存在だが、それでもその不安がアッシュになかったわけではない。しかしいま目の前にいるルークが本当に十年後の彼であるなら、少なくともあと十年はルークは消えることはないのだ。
だが、そのことに深い安堵を覚えながら、アッシュは同時にそんな自分を素直に認めるのにはまだ抵抗があった。

「アッシュもちゃんと十年後にいるよ。俺と一緒に」
そんなアッシュの心を読んだように、ルークが笑みを浮かべる。
「そんなことは聞いてねえ……」
「ん〜、なんか新鮮だな。こういう反応するアッシュ」

思わず反射的に捻くれた答えを返してしまったのに、なぜかこのルークはそれさえも嬉しげに受け止める。たぶん十年の間に成長した結果なのだろうけれど、なんだか居心地が悪い。
つい、あちらに行ってしまっているというルークも同じ事を感じているのだろうかなどと、考えてしまう。

「もしかして、十年前の俺のことが心配?」
「……っ! ンなわけねえだろ。てめえがここに来たって事は、無事に戻ってくるって事だろうからな」
「あーあ。こんなに心配してくれてるってあの頃知っていたらな〜」
「だから、違うって言っているだろうがっ!」

声を荒げて睨みつけても、ルークはかえって嬉しそうに笑うだけ。本来ならその態度に腹が立ちそうなものなのに、なぜか自分の顔がうっすらと赤くなるのをアッシュは感じていた。
どうしてなのか。
たぶん、自分を見るこのルークの目が優しさとか愛しさとか、そんなやわらかな物だけであふれているからだ。
自分の知っているルークはたしかに好意は示してくれているけれど、それはどこか遠慮がちなものだ。もっとも、そうさせているのが自分の態度にあるのだということは、十分にアッシュも自覚している。
もっと優しくしてやりたいのに、以前が以前なだけにどうにも踏ん切りがつかない。そしてそんな自分に苛立って、ついルークにきつくあたってしまう。そんな堂々巡りにアッシュは今陥っている。
このままでは、もしかしたらルークは自分の側から居なくなってしまうのではないか。そんな不安をアッシュはずっと持っている。
だから十年後も彼が生きて自分の側にいるのだと聞いて嬉しかったのに、その喜びをおもてに出すことも出来ない。

「……っ」

思わず唇を噛みかけたアッシュの頭の上に、そっと手が置かれる。見上げると、優しい緑色の瞳がやわらかな笑みを浮かべていた。

「本当はさ、未来のことをあんまり話しちゃいけないことになっているんだ。でも、これだけは言わせてくれよな」

するりと髪を伝って降りた手が、そのままアッシュを抱きしめる。微かに甘い匂いがしたのは、気のせいだろうか。

「俺は、いますごく幸せだよ。この十年間に喧嘩もいっぱいしたけれど、ずっとアッシュのことを好きでいて俺は幸せだったし、今もそうだよ」

わずかに低くなったような気がするルークの声は、なぜかまっすぐアッシュの心の中に落ちてきた。不思議といつも感じる反発感は沸き上がってこず、素直にその言葉を信じられた。

「だから、俺のことをもっと受け入れて欲しい。十年前の俺も同じようにアッシュのことが好きでたまらないけれど、アッシュの気持ちがわからないでいるから」
「……俺の気持ち?」
「今のアッシュは、俺のことをそれほど嫌いじゃないだろう?」

さらりと当たり前のことのように言われ、反射的に言い返そうとした唇はルークの指に塞がれる。

「もう一つ教えてやるけど。この頃の俺、屋敷を出ようと考えていたんだよね」
「なんだとっ?」
「今の俺たち、前みたいに険悪じゃないけれどぎくしゃくしているだろう? だからそのうち機会を見て自分が出て行こうなんて、後ろ向きなこと考えてたんだよな」
どこか懐かしむような顔でそう言うと、ルークは意味ありげな笑みを浮かべた。
「一応、行き先もいくつかあったし?」
「ふざけんなっ!」

アッシュは自分を抱きしめているルークの体を突き放すと、逆にその襟首をつかんで自分の方へ引き寄せた。

「なに勝手に考えてやがる!」
「いや、俺に怒られても困るんだけど……」
「てめえのことだろうが!」
「って言っても、過去のことだし」

ルークはやんわり笑うと、自分の襟を捕まえているアッシュの手にそっと手を添えた。

「……それに、そろそろタイムオーバーなんだよな」
「逃げる気か! いいか、てめえは俺のレプリカだ。勝手にどこかに行くとかそんなこと許すわけねえだろう!」
「う〜ん、まだ及第点はあげられないかなあ……」

でもまあそんなところがアッシュの可愛いところだし、などととんでもない事を口走ったルークにさらにアッシュがヒートアップするより前に、唇にやわらかな感触が触れる。

「十年前の俺のこと、頼むな。俺の気持ちは、さっき言ったとおりだから。で、これはお返しだから」

すっとルークの指がアッシュの唇をたどり、十も年上とは思えないほど子供っぽい笑みが目の前で弾ける。

「十年後で待ってるから。はやく追いかけてこいよ」
「なっ……!」

待て、と呼びかけるよりも前に、先程と同じように白い煙が二人の間にたちこめる。煙の影でこちらを見ているルークの瞳が、やわらかく細められる。だがすぐにその姿も煙の向こうに消えてしまう。

「待っ……!」

伸ばした手は空をかき、呆然としたアッシュの前に不意に何かが降ってきた。
派手な音共に降ってきたそれは、よく知っている間の抜けた叫び声をあげてごほごほと必死に咳き込んでいる。その声に一瞬緩みかけた唇を引き結び直すと、アッシュは煙の中に手を突っ込んで相手の手を掴んだ。



十年後の世界でルークが何を見てきたのかは、聞かない。
向こう側にいた自分が何を言ったのかも、訊ねない。
きっとその答えは、これから歩んでゆく時間の先に必ずあるから。
いま自分がやるべき事は、うっかり自覚させられてしまったこの独占欲にも似た気持ちに従うこと。そして、今掴んでいるこの手を決して離さずにしっかりと歩いてゆくこと。
それだけだ。


だが、それが思った以上に長い道のりになることをアッシュが思い知るのは、このすぐ後のことだった。



END (07/11/23)



ルークオンリー無料配布の現在編でした。