十年ロマンス3




何となく覚えのある奇妙な音と共に目の前に白煙が広がった瞬間、ルークは自分の体がどこかに勢いよく放り出されるのを感じた。
ああ、なんかこの感覚には覚えがある。そんなことを呑気に思っている間に、ルークは腰をしたたかに打ち付けた。

「ルークっ!」

心配するようなアッシュの声が聞こえるが、ふとその声に違和感を覚える。なぜだろうと考えて、その声が自分の名前をきちんと呼んでいることに気がつく。
もちろん名前を呼ばれるのは初めてではないけれど、いつもなんだかしっくりこないという感じで呼ばれているのとは違って、その声は実に当たり前のようにルークの名前を呼んだ。それに小さな感動を覚えているあいだに、ルークは力強い手に引かれて煙の中から抜け出した。

「やっぱりてめえか……」

苦笑混じりにそう呟かれて弾かれたように顔をあげたルークは、そのまま固まることとなった。

「アホ面さらすな。初めてじゃねえだろうが」
「あ、アッシュっ? ええええっ!」

ニヤリと、人を小馬鹿にしたように笑うその顔。しかしその顔は、ルークが知るアッシュよりも年齢を重ねた大人のもので。
そしてルークはそんなアッシュの顔を見るのは、彼が言うとおり初めてではなかった。

「ま、まさかっ!」
「てめえが思っているとおり、ここは十年後だ」
「ああああっ! やっぱり!」

途端にがくりと肩を落としたルークに、小さく笑う声が降ってくる。それと同時にひょいと体を持ち上げられて、ルーク焦ってアッシュの顔を仰ぎ見た。

「あああアッシュっ?」
「どうせ腰打って上手く歩けねえんだろ、つべこべ言わずに大人しくしていろ」

さらりとそう言われてうっかりそうかと流されそうになるが、すぐに我に返る。ひょっとしなくてもこれは、いわゆるお子様抱っことか言わないだろうか。

「お、降ろせっ!」
「うるせえ。黙っていろと言っただろうが」

ふいに低い声でそう呟かれて、ルークはぴたりと動きを止めた。怖い、むちゃくちゃ怖い。
気のせいかもしれないがなんだか不機嫌な気がするアッシュの顔をそっと横目でうかがえば、その視線に気がついたアッシュが苦笑を浮かべた。

「そんな顔をするな。おまえに怒っているわけじゃねえ」

その落ち着いた優しい声にホッとしていると、ふいに頬になにか温かくてやわらかな物が押しつけられた。
一瞬思考の止まった頭が、すぐにフル回転をはじめる。いや、きっと気のせいだ。そうに違いない。その証拠に、アッシュはなんでもない顔でルークを抱き上げたまま歩いている。
だからルークは、それは自分の気のせいだと思うことにした。
頬にキスをされたなんて、そんなことがあるわけなかった。



ルークが連れて行かれた先は、アッシュの部屋だった。
もちろん、ルークが知っているいまのアッシュの部屋とは使われているファブリックや調度品などは少し違っていたが、部屋の中の印象はいまと変わらず落ち着いている。
アッシュはルークをベッドの上に降ろすと、なぜか正面に立ってじっとルークを見下ろしてきた。

「よりによって、二度目が今日だったはな……」

しばらくしてアッシュは何かを諦めたようなため息をつくと、ぼそりとそう一言漏らした。

「なんだよ、何かあるのか?」
「まあな……」

アッシュは眉間に軽く皺を寄せると、なにかとても不本意なことを決断しなければならないというような複雑な顔になった。その顔になんとなく不安を覚えたルークがそろそろとうかがうように見上げると、それに気付いたのだろう、アッシュは困ったような笑みを浮かべながらくしゃりとルークの頭を撫でた。

「心配するな、別におまえを責めているわけじゃない」
「う、うん……」

ドギマギしながらルークが頷くと、アッシュはさらに深いため息を一つついた。

「実はこれから人に会う約束がある。もちろんおまえも一緒にだ。本来なら仮病を使えばいいんだろうが、今回に限ってはンなことしたら後が面倒なことになる…」
「なんで、仮病なんか使わなくちゃなんねえんだ?」
「てめえ、いまの自分が十年前の自分だってこと忘れているわけじゃねえだろうな」
「あっ…」

そういえばそうだったという顔になったルークに、アッシュはやれやれと言うように小さく肩をすくめた。

「見かけだけだったらいまのおまえでも十分ごまかせるが、今日の相手はそういうわけにもいかねえからな……」
「なんかそれって、すげえ複雑なんですけど」

それはつまり、十年経っても自分はほとんど成長していないということではないか。アッシュはこんなにも大人びて格好良くなっているのに、自分だけいまと変わらないなんて不公平だ。

「俺は別にかわまわねえがな」
「アッシュがよくても、俺がかまうっつーの!」

ただでさえ平均よりも背が低く、顔もアッシュと同じはずなのになぜか今でも年下に見られているのは、ルークにとってひそかなコンプレックスになっているのだ。

「テメエの場合は実年齢に見合っているんだからいいだろ。…それに、これくらい小さい方が色々と便利だからな」

そう言ってアッシュは意味ありげな笑みを浮かべると、まるで子供にするように優しく頭を撫でてくる。
いまのアッシュでは考えられない優しい接触に戸惑いながらも、ルークはなんとなくこそばゆいようなふわふわとした心地よさがこみ上げてくるのを感じずにはいられなかった。

「な、なあ。それで誰が来るんだ?」

うっかり気持ちよすぎてそのまま緩んでしまいそうになる頬を慌てて引き締めると、ルークは誤魔化すように訊ねた。すると、途端にアッシュの表情が険しくなる。

「そんなに嫌な相手なのか…?」

今更のように不安になったルークに、アッシュは実に複雑そうな顔になった。

「てめえにとっては、そうでもないかも知れねえがな」
「え? 俺が知っている人?」
「まあな」

誰だろうと好奇心いっぱいので目で問いかけると、アッシュは気が進まないといった顔で来客の名を告げた。
その名を聞いた途端、不安そうだったルークの表情が一気に明るいものへと変わる。
先程とはうって変わって浮かれたようにそわそわし始めたルークを横目で見ながら、アッシュはもう一つ深いため息をついたのだった。




「ルーク! アッシュ! 二人とも元気だったか?」

離れに通されるなり朗らかな声をあげた金髪の男性に、アッシュの隣に座っていたルークは軽く目を瞠った。
そほど面差しが変わっているわけではないし、最初から誰が来るのか聞いていたから、それが誰なのかはすぐにわかった。だがそう分かっていていも、驚かずにはいられない。
それほどに彼──ガイは、ルークが知っている彼よりもずっと精悍な面差しを持つ大人の男性へと変化していた。
思わずまじまじと見てしまったせいか、ガイはそんなルークの顔を見てちょっと不思議そうな顔をした。だがすぐにその表情は蕩けそうな笑みへと変わり、ガイは大股でルークの側までやってくると、いきなりがばりとルークの体を抱きしめてきた。

「が、ガイっ?」
「すっごい久しぶりだな! ……いや、一応これも初めましてになるのか? おまえ、十年前のルークだろう?」

ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる腕から必死に逃れようとしていたルークは、その言葉に思わず痛みも忘れて、嬉しそうに自分を覗き込んでくるガイの顔をまじまじと見返した。

「なっ、なんでわかるんだ?」
「この俺がおまえのことを見間違えるわけないだろ? ルーク坊ちゃん」
「ガイ……」

そう言って変わらない笑顔で片目を瞑って見せた親友に、ルークは思わず感動の眼差しを向けると、今度は自分の方から彼に抱きついた。

「へへッ。おまえこそすっげー格好良くなったな! 相変わらず音機関バカなのか?」
「当たり前だろ? おまえこそ十年経ってもあの魅力がわからないなんて、どうかしていると思うぜ」
「……いや、それぜってーに普通だと思うから」

座った目で見返したルークにガイは笑いながら抱きしめる腕を緩めると、くしゃりとルークの髪をかきあげた。

「でも懐かしいな。昔のおまえに会えて嬉しいぜ」
「俺も、未来のガイに会えるとは思わなかったからすげえ嬉しい!」
「……こーんなに可愛いのにな。もったいない…」

懐かしむような温かい声が、ふとなぜか一瞬暗いものにかわる。その声の変化にきょとんと目を丸くしたルークの前で、ガイがちらりと意味ありげにアッシュの方を見る。

「……?」

だが、含みのありそうなその視線の意味を問おうと口を開きかけたルークは、ガイの後ろから不意に顔を覗かせた人物の顔を見て、それどころではなくなった。

「おひさしぶりですね、ルーク」

ルークが自分を認めたのを見て取って、ジェイドはいつもとかわらない妙に色気のある声でそう言うと、嫣然と微笑んだ。

「……ジェイド、だよな」
「ええ、そうですよ」

にこりと音が聞こえそうなほど、爽やかな笑みが返される。彼という人物をよく知らない者であれば穏やかで人当たりがいいと思わされる、その嘘臭い笑み。
その笑みも含めてすべてにおいて、ルークの知るジェイドと寸分たがわない彼がそこにいた。

「化け物……」

思わずそう呟いてしまった自分に罪はないはずだ、とルークは思った。ここは十年後の世界。思わず確認するためにアッシュとガイの顔をもう一度あらためて見てしまったのも、無理もないことだと思って欲しい。
というか、どこから突っ込めばいいのか分からない。

「ル〜ク。何か言いましたか〜?」

にこやかな、だが目だけは笑っていない笑みが向けられる。その笑みにあてられたのか、途端に周囲の空気が冷たくなったような気がして、ルークは慌てて大きく首を横に振った。そんな彼にジェイドは獲物を狙う肉食動物のように瞳を細めたが、まあいいでしょうと小さく呟くと目元を緩めた。

「話には聞いていましたが、本当に十年前の貴方なんですね。お久しぶりです」
「あ、うん…」

ルークはまだバクバクと鳴っている心臓のあたりを押さえながら、なんとか返事を返す。それを見たジェイドは、ふと質の悪い笑みを浮かべると、反射的にガイにくっつくようにして立っているルークのところへ歩み寄っていった。

「ふむ……」

じいっと眼鏡の奥にある赤い瞳に見つめられて、ルークは居心地悪そうにうつむいた。

「おいおい旦那。あまり苛めないでやってくれよ」

苦笑混じりにそう取りなしてくれたガイに、ルークは思わず感謝の目を向ける。

「おや、相変わらずガイがいいんですか? ルークは」
「ばっ! ちっげーよっ! ……つか、なんでさっきから人の顔をジロジロ見てんだよ!」

からかいの言葉と分かりながらもつい反応してしまい、ルークはその気恥ずかしさを誤魔化すようにジェイドを軽く睨みつけた。

「いえ、まだ綺麗なままの貴方を見るのは本当に久しぶりだなあと思いまして」
「は…?」

およそ自分とは縁のない単語がジェイドの口から飛び出してきて、ルークはまじまじとジェイドの顔を見つめ返した。

「なにしろ、いつの間にやらでしたからね。一応あなたの保護者と名乗っても良いかもしれない立場にある私としては、些か複雑な気分を感じずにはいられなかったですよ」

なぜか苦笑混じりに続けられたその言葉に、ルークは盛大に頭の上に疑問符を飛ばしながら、ガイを見た。だが、ガイもジェイドと大差ない複雑そうな顔で、うんうんとしきりに同意するように頷いている。

「俺も、ルークは俺が育てたようなもんだったからな…。さすがにしばらくは立ち直れなかったな……」
「お、おい。なんだよ二人とも」

じっと二対の目に見下ろされて、ルークはさらにわけがわからず混乱した顔で二人を見上げた。

「ルーク! 今ならまだ間に合うぞ!」
「はあ? な、なにが?」
「そうですよ。なんでしたらあちらに戻ってすぐに私に相談いただければ……」
「え? ええっ?」

嫌に真剣な顔で二人に両側から迫られて思わず後退ったルークは、突然背後から伸びてきた腕にもの凄い勢いで引き寄せられ、そのままバランスを崩して後ろに倒れこみそうになる。
しかし床に倒れこむよりも前に、ルークの体はやわらかだがしっかりとした物に抱き留められていた。

「てめえらっ! いいかげんにしやがれっっ!」

アッシュの匂いがすると思ったと同時に頭の上で思いきり叫ばれて、ルークは反射的に身をすくめた。至近距離で叫ばれたせいか、耳の中で金属音に似た音が響いている。
しかし、強く自分を抱きしめてくるその腕がアッシュの物だと気がついたルークは、それどころではなかった。

(なな、なんでっ……!)

なんだか、むちゃくちゃ顔が近い。それに気がついた途端、先程頬を掠めるようにして押しつけられた唇の感触を思い出す。

「……っッ!」

ほとんど反射的にアッシュの腕から逃れようとして突き飛ばしてきたルークに、今度はアッシュが驚いたように目を見開いた。信じられないとでもいいたげなその顔に、ずきりと疼くような痛みが胸にはしる。
アッシュの腕から逃げ出したはいいが、だからといってこの場から逃げ出すわけにもいかない。どうすればいいのかわからなくて、ルークは情けなく眉尻を下げた。

「ご、ごめっ…」

ガイとジェイドも、呆気にとられた顔でルークを見ている。
自分に向けられる三対の瞳に、ルークは身の置き所のないようないたたまれなさを感じてうなだれた。
混乱しきった頭は、何かを必死に組み立てて考えようとすればするほど焦ってしまい、まともに動かない。どうしようという気持ちばかりが、頭の中をぐるぐる回っている。
体の奥底からこみ上げてくる震えに誘発されて、目頭がジンと痺れたように熱くなってくる。泣いてはいけないと思っているのに、勝手に涙が落ちそうになった。

「……泣くな」

あと少しで涙が本当にこみ上げてきそうになった瞬間、今度はふわりと包み込むような優しさで抱き寄せられた。
やわらかなアッシュの服に顔を埋める形で抱き寄せられ、それが泣き顔を誰にも見られないようにとの配慮なのだと、すぐに気がつく。
アッシュの匂いとぬくもりにつつまれて、一度止まりかけていた涙腺が緩みそうになる。嫌われなかったのだと分かって、それだけで一気に気が緩んだのだ。

「……やれやれ、少しからかいすぎましたかね」

少し決まり悪げなジェイドの声がしたと思うと、ふわりと優しく頭を撫でられた。

「触るな」

すると途端に不機嫌なアッシュの声がして、さらに強く抱きしめられる。

「しかたないですね……。そろそろ『彼』も帰る時間でしょう? 私とガイは少し出ていますから」

それでは、と短い別れの言葉と共に二つの足音が遠ざかってゆくのが聞こえる。ルークは慌てて顔をあげて後ろをふり返ると、声をあげた。

「お、俺っ! おまえらに会えて嬉しかったからな!」

その声に、ちょうど扉の外に出て行きかけていたジェイドとガイが振り向く。そして、そろって飛びきりの笑顔を向けてきた。

「俺も久しぶりにおまえに会えて嬉しかったよ。十年前の俺によろしくな」
「私も、嬉しかったですよ。では、また十年前で」

優しい二人の言葉になんとか笑みを返す。それを見て安心した顔になったガイが、先に扉の向こうに消える。そしてそれに続いて部屋から出て行きかけていたジェイドが、ふと何かを思い出したようにルークの方をふり返った。

「ルーク、そこにいる獣に襲われないように十分気をつけるんですよ」
「へっ? なにかいるのか、この部屋?」
「てめえっ!」
「冗談ですよ。では」

そう軽く笑って気色ばんだアッシュに意味ありげな視線をむけると、ジェイドは部屋から出て行った。



「ったく……」

ようやく静かになると、アッシュは忌々しげに小さく舌打ちした。それが自分に向けられたものではなことは分かっているはずなのに、それに反応してルークの肩が怯えたように揺れるのが見えた。
そこに過去の自分が現在進行形で犯している過ちを見て、アッシュは不機嫌そうに眉を顰めた。
ずっときつい言葉を投げつけられ続けてきたせいなのか、ルークはアッシュの怒気に過敏に反応してしまう。それがあの当時はさらにアッシュの苛立ちを煽る原因になっていたのだが、もちろんルークにはまだその自覚はないのだろう。
どれだけ自分は彼を傷つけてきたのだろう、と今更のように思う。
今では誰よりも大事な半身として惜しげもなく愛情を注いでいるが、ここにたどり着くまでの間に自分がルークに与えてきた痛みを、この十年前のルークはまざまざと見せつける。
だからなのだろうか、必要以上にかまいたくなるし抱きしめたくなる。
しかしよく考えてみれば、十年前の彼も今自分と共にある彼も同じルークなのだから、愛しく思うのは無理もないことなのかもしれない。

「アッシュ…?」

戸惑うようなルークの声に気付けば、いつの間にかその小さな体を抱きしめていた。
見上げてくる、頼りなげな瞳の色。その瞳に誘い込まれそうになるのを、懸命にこらえる。大切に思っている相手にそんな目をさせているのだと思うと、十年前の自分に殴り込みをかけてやりたい気分だった。

「そろそろだな…」

いっそこのままここに引き留めてやりたい、と思う気持ちを振り切るように呟けば、どこからともなくあの白い煙が立ちのぼってきた。

「そんな顔をするな」

思わず声に苦笑の色が混ざる。そんな顔をされたら、思わず手を伸ばしてしまいたくなってしまうではないか。

「では、また十年前で…な」

その言葉にこくりと子供のように頷くルークに、アッシュは咄嗟に手を伸ばしていた。
そして驚くルークの唇をかすめ取るように唇をあわせると、急いで離れる。そうしなければ、そのまま抱きしめてしまいそうだった。

「…アっ…!」

我に返ったルークが叫ぶよりも早く、白い煙が彼を呑みこむ。
消えてゆく過去のルークの姿を見送りながら、アッシュはふとありえない想いが自分の中に残っているのを感じた。
そしてそれは、同じ煙の中から彼のルークが戻ってくるまでの短い時間の間だけだったが、たしかにアッシュの中に小さな爪痕のように残されていたのだった。



END
(08/04/04)



10年後のガイとジェイドとの邂逅〜。