十年ロマンス・バレンタイン編
非日常的なことも数を重ねれば慣れてしまうもので、ルークは突然白い煙の中に放り出されてもひどく焦りはしなかった。
「わ……っ」
だけどこの空中に放り出される感覚には、いつまでたっても慣れない。それでもなんとか受け身らしきものをとって落ちると、そこは柔らかなベッドの上だった。
そう言えば前もこうやってベッドの上に落ちたことがあったな、などとぼんやりしながら思っていると、煙の中から手が伸びてきてルークの腕を掴んだ。
「ルーク?」
自分が知るよりもすこし低い、落ち着いた声。小さく鼓動が跳ねあがるのを感じながら、ルークはじっと煙が晴れてゆくのを待った。
煙のむこうからあらわれた、精悍な大人の顔。だがその顔がいつもよりもなぜか焦っているように見えて、ルークはきょとんと目を丸くした。
「……入れ替わったのか」
かすかに困惑の滲む声。その声になぜかぎゅっと胸を締め付けられたような気がして、ルークは無意識に上着の裾を握っていた。
そんなルークの反応に十年後の世界のアッシュはすぐに気がつくと、苦笑を唇の端に浮かべた。
「そんな顔をするな。苛めているような気分になる」
「……あ、ご、ごめん」
普段からアッシュにおどおどした顔をするなと怒られているのだが、どうしても自分は反射的にそういう顔をしてしまうらしい。自分の時代のアッシュはそんなルークを見るたびに小さく舌打ちするのだが、もしかしたらこちらのアッシュにもそんな不快な思いをさせてしまったのだろうか。
自然と下がってゆく視線に、これではダメだと思うのに顔をあげられない。子供ではないのだからと自身に言い聞かせようとしても、気持ちが先に沈んでゆくのが自分でもわかる。
自分でもどうすればいいのかわからなくなってきはじめていたルークの頭の上に、ポンと軽く手が置かれる。その温かさにつられてそろそろと視線をあげると、優しく細められたアッシュの目と視線が合った。
「……まったく、相変わらずだなおまえは」
「アッシュ……」
「だから、そういう顔をするな。かまいたくなるだろう?」
自分の知るアッシュでは想像できないような、優しくからかうような言葉に硬直していると、頭の上に置かれていたアッシュの手が頬をかるく拭った。
「こちらこそ悪かったな。驚かせたようだ」
「そ、そんなことねえから!」
ルークは慌てて頭を強く横にふってから、そんな自分の大げさな反応に気がついて赤くなった。
十年後の世界のアッシュだという彼は、自分の知るアッシュと確かに同じはずなのだけれど、ただ一つ決定的に違うのは彼が自分に驚く優しいことだ。
こうされたいとルークが願っているとおりに優しい彼に、本当はこうやって会っているのも自分が都合のいい夢を見ているだけなのではないか、と思ったことも何度もある。
だがどうやら入れ替わっているのは確かなことらしく、たいていあちらに戻るとアッシュが不機嫌になっている。互いに相手がどんな相手なのかは話したことはないが、たしかに短い時間だが入れ替わっているのは間違いないらしい。
「気にするな……とは言っても、おまえにはまだ無理か」
「へ…?」
「まったく、こんな時ばかりは十年前の自分を蹴り飛ばしたくなるな……」
アッシュは自嘲するように小さく呟いたが、ルークは不思議そうに首を傾げることしかできなかった。
「まあいい。まだ少しくらい時間はあるんだろう? 茶でも飲んでいけ」
「ああ、うん」
良くわからないながらも頷いてベッドを降りかけて、ふとルークは訊ねてみた。
「なあ、なんでベッドの上にアッシュもいたんだ?」
「……てめえを起こしに来ただけだ」
「ふうん」
でも、それならなぜしっかりとベッドの上にのっていただろうか。ルークは小さく首を傾げたが、促すアッシュの声にあっさりと疑問を流してしまう。そんなルークの顔をちらりと横目で確かめながらアッシュがほっと息をついたことには、もちろんルークは気付いていなかった。
今回もまたアッシュが手ずから入れてくれたお茶を飲みながら、ルークは当然のようにソファで自分の隣にくっつくようにして座っている彼に、そわそわと視線をおよがせていた。
「なんだ、美味くなかったか?」
「いや、すっげー美味い」
そんな落ち着かない態度のルークを不思議に思ったのか、アッシュが覗き込むようにして訊ねてくるのに、ルークは慌てて首を横にふった。
嘘ではない。アッシュが入れてくれたお茶は自分好みの濃さで、とても美味しい。美味しいのだが、落ち着くような落ち着かないような、どっちつかずな感覚をもてあましてしまう。
いまだってまともに顔が見られなくて視線をおよがせていたルークは、ふとテーブルの端に置いてある小さな箱に気がついて、なにげなくジッと見つめてしまった。
「気になるか?」
「へ? やっ! え〜と……」
いまさら言い訳をしても、あれだけじっと見てしまった後ではむなしい。それに、たしかに興味がないわけでもないので、ルークはちいさく頷いた。
アッシュは手を伸ばして箱を取ると、ルークの目の前で蓋を開けた。
「……わ」
箱が開くと同時に、甘い香りがひろがる。箱の中身は、綺麗に仕切られてならんだチョコレートだった。
ひとつひとつ味が違うのか、形や表面を飾る飾りや色が少しずつ違う。まるで宝石箱の中身のようなそのチョコレートたちに、ルークは思わず見とれてしまった。
「食べるか?」
「えっ?」
ルークが返事をしないうちにアッシュの手がチョコレートを一つ摘むと、当たり前のようにルークの口元まで運んできた。
「あ、アッシュ?」
「食べないのか? なかなか美味しいと評判の店のものだぞ」
甘い物は好きだろうとからかうように言われて、唇にチョコレートが押しつけられる。それに半分ヤケになりながら口を開くと、チョコレートが口の中に押し込まれた。
「……んっ。美味い」
とろりと蕩けたチョコレートは、たしかにアッシュが言うように美味しかった。
甘すぎず風味もあって、香り付けのリキュールなどの匂いも気にならない。甘さもルーク好みの甘さだ。
「もう一つどうだ」
優しく笑いながら、もう一つチョコレートが差しだされる。やはりそれも口元まで運ばれて、ルークは戸惑いながらも口を開いた。
今度口の中に放り込まれたのは、キャラメルの味のするチョコレートだった。かすかに苦いカラメルの風味がきいて、チョコレートの甘さが引き立っている。
そうやって何度かチョコレートを食べさせてもらっているうちに、うっかりアッシュの指ごとチョコレートを口の中に入れてしまい、ルークは慌てて顔を引こうとした。
だが、何を考えているのか、逆にアッシュの指がそのまま唇の裏を撫でルークの舌に触れる。
「……んっ」
舌に触れられた途端、ぞくぞくとした感触が背筋を走り抜けて、ルークは戸惑ったような目をアッシュにむけ思わず目を見開いた。こちらを見ているアッシュの目も、なぜか驚きに見開いたままルークを見つめている。
胃の上あたりをぎゅうっと押されるような感覚がこみあげてくるが、なぜか目をそらせない。
「アッシュ……?」
そろりと伸びたもう一つの手が、頬に触れる。触れた指のすこしひんやりとした感触に鼓動が跳ねあがるのがわかる。
なにかがくる、という予感めいた物があった。反射的に閉じた目に応えるように、指で開かれた上唇にやわらかな物が触れてくる。これはキスだと理解するよりも前に、ふとルークはあの移動の瞬間の違和感を覚えて目を開いた。
「……っ!」
思いがけず近くにあった、睫の伏せられた端正な顔に一瞬息が止まりそうになる。
「わ……っ!」
しかしなにかを口にしようとする前に、どこかに身体が引っ張られるような感覚が襲ってきて、そちらの方に気を取られる。
「ルーク!」
突然目の前に広がった白い煙のむこうから、声がする。そういえば今回は別れの挨拶も出来なかったな、とぼんやりと思いながら、ルークは自分を引っ張ってゆく強い力に身をゆだねながら目を閉じた。
戻った先の元の時間では、予想通りというか不機嫌な顔のアッシュが待っていた。
さきほどまでのアッシュとのギャップに思わずぽかんとしながら その顔を見あげていると、突然なにかに気がついたのかぴくりとアッシュの片方の眉が跳ねあがった。
「え? わぶっ!」
突然伸びてきた手に口元を拭われて、ルークは目を白黒させながら目の前の不機嫌な顔を見あげた。
「ふんっ」
全身から気にくわないといった気配を発しながら、アッシュはルークに背をむけるとそのまま部屋から出て行ってしまった。後に一人残されたルークは、いったい何が起こったのかわからず首を傾げることしかできなかった。
そして、ようやく今日がバレンタインデーだったことをルークが知ったのは、昼前に突撃してきたナタリアからチョコを渡されてからのことだった。
END (09/02/14)