十年ロマンス・もう一つのバレンタイン編




 
見覚えのありすぎる白い煙がいきなり目の前に広がったことに、アッシュは眉間に皺を寄せた。
不可解な超常現象には不本意ながら慣れつつある彼だが、こればかりはどうにも慣れない。
どうせ間抜けな声とともにあいつが現れるのだろうと身構えていたアッシュの目の前で、不意に煙を割るようにして人影が現れる。だが、なんだかいつもと様子が違う。

「おい、てめえ……っ! って、おい!」

ふらふらとこちらに倒れこんできた相手を咄嗟に受け止めたアッシュは、思わず一歩下がりそうになった足を踏みしめた。

「おいっ! しっかりしろっ!」

ぐったりと肩口に寄りかかってくる、重みと体温。首筋をくすぐる息の温度は高く、わけもなくドギマギさせられてしまう。
だがいまは、そんなことに動揺している場合ではない。あきらかに前回と違う相手の様子に、不安がよぎる。
アッシュは抱き留めた相手の様子を見るために、そっとその顔を覗きこんだ。
伏せられた睫が思ったよりも長いことに、なぜか鼓動が跳ねあがる。
見慣れているけれど、ほんの少しだけ違う顔。アッシュが知っているルークよりも、少しだけ頬のあたりがシャープになった大人びた面差し。
十年後の世界からやってくるという彼は、ほんのわずかな時間のあいだしかいないが、いつもアッシュの心をかき乱して帰って行く。だけど今回のこれは、あまりにも不意打ち過ぎるだろう。

「ルーク!」

がくがくと揺さぶりながら名を呼ぶが、返事がない。まさか意識がないのかと一瞬焦るが、すぐにその懸念は覆された。
十年後の世界からやってきた彼は、この上ないほど気持ちよさそうに熟睡していた。


* * *


「……だからって、殴るこたねえだろうが」

そう言いながら子供のように唇をとがらせながら頭をさする、推定30才に近いはずの男を、アッシュは冷ややかに見おろした。
十年たってもルークの顔はほとんど変わっておらず、この顔を見ていると、もしかしたら自分もそうなのだろうかとちょっとした危機感を感じてしまう。

「寝汚ねえてめえには、それで十分だ」
「ひっでえ!」
「十年後の俺もこんな奴を相手に苦労するな……」
「そんなことはねえんじゃね? 俺、かなり甘やかされてるし」

たまにちょっと困ったことになるけどな、となぜかルークは意味深な笑みを浮かべた。

「なんで俺が、てめえなんかに優しくしてやらなきゃなんねえんだ」
「いやだって、もともとアッシュ優しいし」

ケロリとした顔でそんなことを言うルークに反射的にもう一度拳を落とそうとしたが、今度はあっさりととめられてしまう。

「今日は殴るのなしな。あいつともそういう約束だし」
「俺は俺だ!」
「う〜ん。そういや今日か……今日だったな。あ〜あ、なんか複雑だな」

受け止めたアッシュの手を逆に自分から握りながら、なにやらルークはぶつぶつと呟いている。

「うるさいぞ、貴様……」
「ちょっとぐらいいいじゃねえか、寝起きをたたき起こされたんだし」
「あんな状況でぐーすか寝てられるてめえの図太さには、呆れるな」
「ま、お前のせいだけどな……あ、正確にはあっちのアッシュな」
「そんなことはわかっている」

いつまで握っているつもりだと乱暴に手を振り払うが、相手はまったくこたえている様子がない。それどころか、そんなアッシュの反応をにこにこと嬉しそうに見つめている。
どうにも、このルークは苦手だ。
十年という月日がたっているからなのか、性格自体は今のルークとあまりかわらないようなのだが、その態度や雰囲気は随分と違う。
自分が知っているルークはいつもアッシュの顔色をうかがっておどおどしているところがあるが、こちらのルークは物怖じすることなくアッシュを見つめてくる。
いったい何があってこんなにも印象が変わったのかはわからないが、それまでに自分たちの間に何があったのかを思うと、なんとも複雑な気持ちになる。

「なあ、むこうに行った俺が心配?」

不意に耳元でそう囁かれて、アッシュは我にかえった。
いつの間にかとても近い位置に、ルークの顔がある。あまりの近さに咄嗟に後に下がろうとしたが、気づかない間に腕を掴まれていて逃げることが出来ない。

「ンなわけねえだろっ!」
「なんだ、素直じゃねえなあ……。まあ、いま思うとそういうところも可愛いよな」

うんうんと勝手に納得しながら、サラリと恐ろしいことをルークが言う。

「てめえっ!」
「っと、そろそろタイムオーバーかな」

気色ばむアッシュの唇に人差し指を押し当てると、ルークはニッと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「ところでアッシュ。今日は何の日か知っているか?」
「は……?」
「反応薄いなあ、今日はバレンタインだろ」

そう言えばそんな日もあったなとぼんやりと思っていると、不意に唇に柔らかな感触が触れた。突然のことに硬直していると、すぐ目の前で新緑色の瞳が楽しげに笑ってるのが見えた。

「……っ!」
「ま、ちょっとした意趣返しみたいなもん?」

さらにわけのわからないことを言って小首を傾げるような仕草をすると、ルークはふと思い出したように自分の唇の端に指をあてた。

「あいつが帰ってきたら、ここのところ見てみな」
「どういう意味だ?」
「見ればわかるよ」

なんとなく気に障る物言いと笑みに、アッシュは眉間に皺を寄せた。

「おいっ!」
「っと、タイムオーバーだな」

ちょっとおどけたような物言いでそう言うと、ルークはちいさく肩をすくめた。その言葉通り、彼の周囲にまたあの白い煙が立ちのぼりはじめる。

「それじゃ、またな」
「二度と来るな!」

本気でそう怒鳴りつけてやるが、ルークはまったく意に介していないかのようにのんきに手を振っている。
やがてその姿が完全に煙のむこうに隠れてしまったのを見て、アッシュは深いため息をもらした。
やっぱり、あのルークは苦手だ。
同じルークだとわかっていても、自分にはわからない時間を過ごした結果の先にいる彼が振りまいてゆく未来の自分たちの姿に、どうしても惑わされてしまう。
本当にいつかあんなふうに、ルークが自分に屈託のない笑みをむけてくれるようになるのだろうか。


だがそんな物思いは、同じ煙の中から戻ってきたこちらのルークの口元を見た瞬間、綺麗に吹き飛ぶこととなる。
そして十年という月日の重みを、今日もアッシュは思い知らされることとなるのだった。




END(09/02/28)



*なぜアッシュが不機嫌だったかというリクエストでした。