サバランは誘う




 
ふと軽い胸騒ぎに似た感覚を感じて読みかけの本から視線をあげると、アッシュは傍らのサイドテーブルの上に目を向けた。
瀟洒な作りの置き時計の針が示す時間を見て、眉間に皺をよせながら本を閉じる。マズイ、うっかり本に没頭しすぎたらしい。
アッシュは慌ただしくソファから立ちあがると、読みかけの本を置いたまま書庫を出て自室へと足を向けた。
急ぎ足で廊下を歩くアッシュの姿に、すれ違うメイド達が微笑ましそうな視線を向けてくる。
この頃ではアッシュの機嫌を読めるようになってきた彼女たちは、この屋敷の子息その1が眉間に皺を寄せながらもの凄い勢いで歩いていても、無闇に怯えたりしない。
加えていまが何の時間なのかを考えれば、なぜ彼が一見不機嫌そうな顔で急いでるのかすぐに見当がつくからだ。
アッシュ様、またお茶の時間に遅れられたのね。
きゃらきゃらとアッシュ本人には聞こえないように、メイド達はたがいに微笑みをかわす。
母親を交えたお茶の時間や食事の時間には滅多に遅れないくせに、アッシュはルークとのお茶の時間には遅刻することが多い。仕事の切りがつかないときはさすがにルークも文句は言わないが、今日のように本に夢中になっていて遅れたと知れば簡単に拗ねる。
その度にふくれっ面で迎えるルークに、アッシュは本人の前では悪びれた様子一つ見せないのだが、見えないところでは本気で焦っているのをルーク以外の者達は皆知っている。
アッシュは、今ではルークと共同で使っている離れの手前まで来ると歩調を緩めた。そして先ほどまでの焦った様子が嘘のようにゆったりとした足取りに変えると、扉を開いた。
きっといつものように、拗ねたルーク『遅いっ!』という一言が飛んでくるだろう。
そう思っていたアッシュは、しかしその場で固まることとなった。



「あっ、アッシュだ〜!」

明るい、いや明るすぎるルークの声が部屋の中に響く。
へらりと笑った顔はあまりに無防備で、それだけなら思わずそのまま頭を撫でてやりたいくらいに可愛らしい。
だがいまアッシュの目の前に広がる光景は、そんな甘い妄想にひたる隙を与えてくれなかった。

「……てめえら、何やってる」
「あ〜。ええっと、どこから説明すればいいか……」
「ちょっ、何その目っ! いいから早いところこいつをどうにかしてよっ!」

最後に悲痛な声をあげたのは、いつの間にかこの屋敷の使用人になってしまっていたシンクである。
そんな彼はなぜか今、ルークにぎゅうぎゅうと抱きしめられて頬ずりされている真っ最中であった。

「何だこれは、と聞いている」

完全にアッシュの目が座っているのを見て、ガイが乾いた笑みを浮かべる。

「……たぶん、酔っぱらっているんだと思う」
「おまえらっ! こいつに酒を飲ませたのか?」
「まさか。そんなことするわけないだろ」

お子様にお酒なんてと肩をすくめるガイに、だったらなんだとアッシュは無言の威圧を込めた視線を向けた。もちろん、身体的な年齢で言えば酒の一口くらいは普通だということは、二人とも完全に無視だ。

「どうも、今日のおやつで酔っぱらったみたいなんだよな。こいつ……」

苦笑混じりに説明するガイの隣で、容赦なくシンクに頭を叩かれながらも、ルークは一向にシンクから離れようとしない。それにさらにシンクがヒートアップして、目もあてられない状態になっている。
そんな堂々巡りをくり返しているお子様二人に(シンクはそうまとめられることに異論があるかも知れないが)生暖かい気持ちを感じながら、アッシュは眉をしかめた。

「どうやったら菓子で酔っぱらえるんだ。……まさかボンボンで酔ったとか言わないだろうな」
「そういや食わせたことなかったけど、どうなんだろうな。ちなみに今食べたのはシンクお手製のサバランだ」

テーブルの上を見れば、たしかにケーキの残骸らしきものが残っている。一つだけ残っている自分の分らしきケーキを指でつまんで口に入れてみると、ふわりと甘い香りが広がった。

「ラムか……」
「一応、香り付け程度だと思うんだけどな……」

二人は揃ってルークをふり返る。
お子様は元六神将の鉄拳を受けながらも、いっかな離れようとしない。引っ付かれているシンクの方は、まるで猫が毛を逆立てて威嚇するような有様になっている。
いいかげん我慢の限界を突破していたシンクは、のんきに自分たちを見つめている二人に気付くと、今にも譜術を炸裂させそうな勢いで睨みつけてきた。

「そこの二人ッ! いいからこのガキを早くどうにかしろっ……ていうかアッシュ! これあんたのでしょ。ちゃんと自分の物は自分で管理しておいてよね!」
「なっ! 別に俺はそいつの所有者でもなんでもねえっ! 馬鹿なことを言うなっ!」

ところが、シンクの言葉を慌てて否定したアッシュの言葉に、なぜか明るく騒ぎまくっていたルークの動きがピタリととまった。

「……だっ…」
「ちょっ、な、なにっ?」

突然様子の変わったルークに、先ほどまで手加減の三文字を忘れて殴っていたことも忘れて、シンクは思い切り動揺を露わにする。

「……アッシュ…俺のこと捨てるんだ……っ!」
「アホなこと言うな──っっ! この、屑ッ!」

屑って言ったー、と子供のように声をあげて泣き出したルークは、実に立派な酔っぱらいだった。
だが質の悪いことに、この面々はなんのかの言いつつも全員ルークには甘い。
特に育ての親を自負している使用人兼親友は、いつでもはっきりきっぱりとルークの側に立つ。
先ほどまでの呆れたような目つきはどこかへ消え、かわりに無言で責めるようなガイの視線がアッシュに向けられる。そして、なぜか先ほどまでルークのことをあれだけ罵っていたはずのシンクまで、同じようにアッシュを責めるような視線を向けてきた。

「なんだ、お前ら……」

バツの悪い顔をしながらもそんな二人を睨み返すが、その間にも一向にルークは泣きやむ気配がない。
たかが酔っぱらいとはわかっていても、ルークに泣かれるのはアッシュも本意ではない。だが先ほどの言葉を肯定するような言葉も口にしたくないため、正直、どう反応すればいいのか迷う。

「アッシュ」

この状況で、ありえないほど爽やかな声がアッシュの名を呼ぶ。来たか、と思いながら視線を上げれば、怖いくらいに笑顔なガイの顔が見えた。
アッシュは、その笑顔がなにを意味しているのか分からないほど鈍くもないし、それを無視することがどれだけ面倒なことなのかも十分理解している。だがここで屈したら何かが終わると感じてもいる。

「どうすればいいのか、お前ならわかっているよな?」
「……俺は知らん」

シンクに抱きつきながらえぐえぐと子供のようにしゃくり上げているルークの方を見ないようにして、アッシュは唸るような声をあげた。
絶対に何があっても、これだけは断固拒否する。

「おまえはこんなルークの状態を見て、なにも思わないのか?」
「ただの酔っぱらいだろうが!」

アッシュが声を跳ね上げたのにつられるように、ルークの声も大きくなる。ついでにアッシュを見る二対の目から送られる視線もきつくなる。

「わかった……だがてめえらは出て行け」

地の底から響くようなその呟きに、にやれやれと言いたげな様子で肩をすくめると、ガイはシンクにしがみついているルークを引きはがす。

「が〜い〜っ!」
「はいはい。いいからちょっと大人しくしてろよ」

ぎゅうっと今度はガイの腕にしがみついたルークに、アッシュの眉間の皺が深くなる。それを横目で見ながら、ガイはこれ見よがしにルークの頭を撫でてやると、不機嫌な顔のままこちらを見ているアッシュの方へルークを放り出した。

「ほふぇっ!」

なんとも間の抜けた声をあげて突進してきたルークを受け止めると、いやに嬉しそうにこちらを見ているガイと完全に呆れた顔になっているシンクへ、しっしっと出て行くように手で合図する。その間にも、ルークが妙な笑い声を上げながら抱きついてくるのに必死に攻防をくり返しているアッシュに、2人は生暖かい笑みを浮かべながら部屋を出て行った。

「……ったく、人の気も知らねえで」

パタンとドアの閉まる音を合図に、アッシュは先程から自分の腕にしがみつきながらケラケラと笑っているルークを苦々しく睨みつけた。
日頃、自分がどれだけ忍耐を強いられているのか、このお子様はわかっているのだろうか。今だって抱きついてくるルークの体から伝わってくる体温や、ふわふわと揺れる髪からしてくる甘い匂いとかが、さかんに手招きするのをかろうじてこらえているというのに。

「……酔った勢いってのも、アリか?」

いやいや、やはり最初が肝心だろう。それに、あまりの知識のなさに色々といらぬ誤解を受けそうな気がしないでもない。
だが、なによりもここで強硬突破した後のあの使用人2人の反応を考えると、そんな博打は絶対に打てない。

「アッシュ〜っ! アッシュ、アッシュ! 返事しろ〜っ!!」

そんなことをぐるぐると考えこんでいる間も、ルークはいつもよりも舌っ足らずな調子で名前を連呼してくる。

「ううっ……、やっぱりアッシュは俺のこと嫌いなんだ……」
「だからっっ! どうしてそういう話になるっ!」
「きっとポイ捨てされるんだ、俺……」
「てめえっ! さっさと、その発想から離れろっ!」

いったい、どこでそんなことを覚えてきたんだ。もしかしてあのマルクトの変態眼鏡か、などと勝手に他人に責任転嫁していたアッシュは、続いた言葉に思わずそのまま動きを止めた。

「……だって、必要ないならいらないんだろ?」

不意にさがった声のトーンと、うつむいた頭の天辺。
ああそう言えば、かつてこの子供は壊れた玩具のように捨てられたことがあったのだった。……その小さな世界を支配していた、絶対者に。
そう思い出した途端、アッシュの胸の中に苦い物が広がった。
なかったことにするには、あまりに重すぎる過去。慌ただしくも平和で楽しい日々に普段は隠れているけれど、それは消えない傷としてルークの中に残っているのだ。

「ルーク」

そっと名前を呼びながら、抱きしめてやる。
先程まであった苛立ちや余計なプライドなどは、どこかに消え去ってしまっていた。あるのは今自分の腕の中にいる半身への、愛しいと思う気持ちだけだ。

「安心しろ……、俺は絶対にお前を見捨てたりなんかしねえ」

自然と、言葉がこぼれてくる。
悔しいが、このまま告白してしまうのも悪くないかもしれない。それで少しでもルークの気持ちが軽くなるのなら。

「……俺は…」
「くす──っ」

そのまま一気になだれ込もうとした瞬間、アッシュは空気の漏れるような呑気な音が合いの手のように聞こえてきたのに、固まった。
続いて、むにゅむにゅと要領の得ない音なのか声なのか判断に苦しむ音が聞こえてきて、腕の中の体がずっしりと重くなる。

(まさか……)

ぎしぎしと音が鳴りそうなほど固まった体を動かしながら腕の中を覗き込むと、果たしてそこには予想通り、よだれを流さんばかりに心地よさそうに眠るルークの顔があった。

「こっ……、こっ、……こんのっっ屑があぁっ!」
「ふぎゃっ……! ってぇっ!」

いっそ気持ちいいほどの音を立てて落とされた拳に、半ば寝ぼけた悲鳴をあげてルークはうずくまった。それを腹立たしげに睨みつけると、アッシュはガツガツと足音も荒く部屋から飛び出していった。
後に残されたルークは床にうずくまったままきょとんと目を丸くしていたが、すぐにまたそのままばったりと床に倒れて、今度こそ心地よい眠りの世界に旅立っていった。



その後しばらくの間、ルークがアッシュに口を聞いてもらえなかったのは言うまでもない。



END
(07/12/05)


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