子供と死神についての一考察




ねえ、忘れないでね。
絶対に忘れないでね。

俺は忘れちゃうけれど、絶対に思い出すから。
だから、絶対に記憶を消さないでね。

そう言って去っていった子供は、まるでつむじ風のようだった。



ペンを置く小さな音がやたらと大きく響いた気がして、サフィールは思わず部屋の中を見回した。
そして、ふと気がつく。この部屋はこんなに広かっただろうか、と。

「ふむ……」

サフィールは顎に手をやると、軽く目を眇めながらもう一度部屋の中を見回した。
お世辞にも、綺麗だとは言えない部屋だ。床には本の山が築かれているし、書きかけの書類や走り書きの紙があちこちに散乱している。さすがにディスクはきちんと揃えられているが、その他は惨憺たる有様である。
だがこの惨状にも、彼なりに法則があって何処に何があるのかはしっかりと把握している。それに関連して、そういうところだけは本当に無駄に頭が良いよなお前たちは、と子供がむくれていたことを思い出す。
そういえば、あの子がいたときはもう少しこの部屋も片付いていたような気がする。だが、それではなぜ今の状態を『広い』などと感じるのか、矛盾している。



では、いったい何故なのか。
くだらないことではあるけれど、一度気になってしまうと何らかの答えが得られないと気が済まないのが、人というものだ。
真剣に考えはじめた彼は、何気なく手を伸ばしてその指が堅い机の表面を撫でたことに気がついて、思わず指の先に視線を向けた。
ああそういえば、何時もここに何か口に入れる物を入れたカゴが置いてあったっけとぼんやりと思い出す。研究に没頭すると寝食を忘れるサフィールに、あの子供が怒って一口で口に入れられるチョコレートやクッキーをよくここに入れてあったっけ。もっとも、買ってくるのはサフィール自身や彼の下で働く研究員達の誰かだったけれど。
さらに視線を動かすと、今度は見慣れた菓子の袋が転がっているのが見える。
なくなるとすぐに食べたいとせがむ子供のために、サフィールが何度もダアトの町外れにある菓子屋で買い求めた物だ。最初はなんでこの華麗で天才な自分が子供の使い走りをと思わないでもなかったが、買ってきた菓子を渡したときの蕩けるような笑顔がむず痒いのに可愛くて、結局ずるずると言われるがままに買いに行ってやっていた。

「おや、まだ少し残っていますね」

なんとなくたぐり寄せるようにして袋を取ると、まだ少し重みがある。
この焼き菓子は薄くのばした生地を何層にも重ねて焼いて、その上にたっぷりとキャラメルとアーモンドスライスをコーティングした、素朴な焼き菓子である。
特にこの店の物は生地の風味とキャラメルのほろ苦い甘さが絶妙で、ダアトでも人気の菓子の一つである。

『もったいねえな』

と、最後にこの部屋を出るとき子供が言っていたのはこれのことだったのかと、今更のように思い当たる。



そう、あの子供。
自分の最高傑作であり、そしてなぜか遠い未来から記憶だけ戻ってきたというあの子供。
彼をここから送りだしたのは、一週間前のことだった。
いよいよ計画を実行に移すのだとヴァンに告げられたとき、サフィールはそうですかと無感動に答えながら、頭の中ではあの子供に何を買って帰ってやろうかと考えていた。
いなくなってしまうのだから、最後に飛びきり美味しい菓子でも食べさせてやろうか。そんなことを、記憶を消すための機械のセッティングをしながら、つらつらと考えていたのだ。



最初は単なる探求心と好奇心から。
だけど近くに置いているうちに、だんだんとそれだけではない気持ちをサフィールの中に埋め込んでいった小さな子供。
『父さん』と呼ばれて、はじめは不快に思わないでもなかったけれど、いまではすっかりそう呼ぶことを許容してしまったあの子。



ああ、そうなのか。
ようやくすべてが繋がる。
あの子がいないから、この部屋はこんなにも広いのだ。
ぽっかりと風穴があいてしまったような空虚さは、部屋の中ではなくてサフィールの胸にあいているのだ。



ねえ忘れないでね。
きっと、絶対に会いに来てね。
子供の声が耳によみがえる。
忘れるわけがないではないか。自分の子供のことを忘れる父親が、どこにいる。
これから長い年月、サフィールはあの子供に会うことは出来ない。だけどその間にあの子のためにやれることなら、たくさんある。
七年という時間は、長いけれど短い。あの子の望むとおりに物事を進めるには、途方もない準備が必要だ。だけどその間あの子供は、そのことを忘れてしまっている。だったら、自分がやるしかないではないか。

「まったく、厄介なことを残していってくれましたね……」

そう独りごちながらも、声には嬉しさが滲む。
誰かのために何かをすることが、こんなにも嬉しいことなのだとあの子供が教えてくれた。



「さあ、はじめましょうか」

そう自分に言い聞かせるように呟いて、サフィールは子供の残していった菓子を一口かじる。
風味のきいた甘いキャラメル味が、まるであの子の最後の笑顔のようにいつまでも口の中に残っていた。




END(08/02/28)




お父さんの自覚編。