童話の扉




 最初にそれを手渡されたときのルークの感想は、冗談だろうの一言につきた。
「冗談なんかじゃありませんよ」
 そんなルークの心の声を読んだように、ジェイドはいつもと変わらない胡散臭い笑みを浮かべてそう答えた。
「子供の情操教育には、これが一番ですからね」
「俺、ガキじゃねえし」
「おや、実年齢七歳児がよく言いますね」
 軽く眼鏡を押しあげて楽しげにそういうジェイドの顔を睨みつけるが、もちろんこの捕らえどころのない男にはまったく通用しない。
 ジェイドがルークにと渡してきたのは、一冊の本だった。
 表紙に青い扉と大きな鳥が描かれタイトルが金文字で入っているその本は、その絵の淡いタッチといい、どうみても立派な児童書だった。
「なんでガキの本なんだよ」
「そうは言いますが、初期の古代イスパニア語を学ぶにもちょうど良いんですよ」
 そういわれてしまうと、自身の知識のなさから後手に回ってしまった経緯が過去にあるために、ルークの方も強く出られない。
 それでもまだ不満げに自分よりも上にあるジェイドの顔を睨みつけていると、薄いレンズを透かした向こう側にある赤い瞳が呆れたように軽く細められた。
「為になることを学びたいと言ったのは、あなたでしょう?私があなたに為にならないものを渡すと思いますか?」
 その言葉に、ルークの飴玉みたいな瞳が細められる。
 ない、と言い切れないところがジェイドのジェイドたる所以である。
 真顔で人をおちょくることなどお手のものであるから、パーティの中でも比較的被害を被ることの多いルークが警戒するのも無理はない。
「そういう顔をされると、さすがに傷つきますねえ」
 わざとらしく胸に手を当ててうつむくと、途端にそわそわとルークがこちらをうかがうような目をむけてくる。
 そういう単純な素直さがジェイドやアニスの格好の餌食にされる原因なのだが、本人はあまり自覚がないらしい。
 もっとも、ルークのそういうところを、ジェイドは好ましいものと思っていた。
「ゆっくりでかまいませんから、読んでみませんか?それに、児童書といっても侮れませんよ。小難しい理屈を捏ねる本よりもずっと、大切な事が書かれていたりしますからね」
「そうかあ?」
 それでもまだ胡散臭げに本をたがめすがめつ見つめているルークに、ジェイドは苦笑した。
「一番大切なことは、意外とシンプルだったりするんですよ。それに、その様子だとこの本は読んだことがないのでは?」
「……まあな」
「マルクトでは、けっこう一般的な児童書なんですけれどね。けっこう、楽しめると思いますよ」
 ふうん、とあまり興味なさげに鼻を鳴らしたルークは、ふと視線をあげた。
「ジェイドも、子供の頃読んだのか?」
「ええ。ついでに言えば、陛下も読んだことがあると思いますよ」
 途端にげっと顔をしかめたルークに、ジェイドはさらに笑みを深めた。
「興味が出ましたか?」
「まーな。……お前も読んだって言うなら、読んでも良いかな」
 ぼそぼそと呟かれたその一言に、ジェイドは軽く目を瞠った。しかし当の本人はそんな彼の様子には気付かず、ぱらぱらと本のページをめくっている。
「では、その本を読み終わったら簡単な古代イスパニア語のテストでもして差し上げましょうか?」
 その隙に体勢を立て直したジェイドがそう言うと、冗談じゃねえと本気で嫌そうにルークは顔をしかめた。その顔を楽しげに見つめながら、ジェイドは先ほど感じた不思議な感覚に心の中で首を傾げていた。



「あの本、読み終わったぜ」
 そうルークがすこし誇らしげな顔で言ってきたのは、それから三日後の夜のことだった。
「感想は?」
「すげえ面白かった!」
 ぐっと指を立ててきた彼に、ジェイドがそれはよかったですねと澄ました顔でこたえると、ルークは不満げに小さく唇をとがらせた。
「なんかもっと他に言い様はないのかよ」
「よくできましたね、ルーク!……とでも言って欲しかったですか?」
「……うっ」
 途端にふるふると首を横に振ったルークに、ジェイドは瞳を細めた。
 ルークに渡した児童書の内容は、一人の少年が異世界に旅立ち、そこで様々な苦難を乗り越えて、願いをかなえてくれる運命の女神に会いに行く話だった。
 ネフリーはこの話が大好きで、まだきちんと字が読めなかった頃はくり返しジェイドに読んでくれるようにせがんだものだった。
「それで、読み終わった後に扉を開けてみましたか?」
 なぜわかった、という顔でこちらを見たルークに、ジェイドは耐えきれずに吹きだした。
「……んだよ!」
「いえ、やはりやったんですね」
「……悪いかよ」
 物語の中の少年は、扉をくぐって異世界へと旅立つ。この話を読んだ子供は、誰でも一度は胸を高鳴らせながらそっと自分の部屋の扉を開いてみる。
 それはピオニーもネフリーも、そしてディストもそうだったはずだ。それなのに、好奇心旺盛なルークが試してみないはずがない。
 決まり悪そうな顔でこちらを見ているルークのその素直さが微笑ましくて、つい笑みが浮かんでしまう。
 しかしそれと同時に自分の子供の頃を思い出すと、確かに物語として面白く読んだ記憶はあっても、そうやって想像の翼を広げたことが自分にはなかったと思う。
 もともと早熟だったジェイドは、同じ年頃の子供たちのよりも随分と早く現実というものに目覚めたこともあって、夢との境が曖昧な時期が短かった。
 この本を読んだときも、主人公の冒険に胸を高鳴らせたというよりも、そこに含まれた寓話的な意味を読み取る方に重点を置いていた気がする。
 そして、胸を高鳴らせながらひそかに扉を開く同じ年頃の子供たちを、心のどこかで馬鹿にしてさえいたかもしれない。
 だが、今こうやって恥ずかしそうに自分を睨みつけている少年の反応を見ていると、そうやって明るいなにかを期待して胸を高鳴らせたことのなかった自分の子供時代が、ひどく色あせたモノのように思えた。
「ジェイド?」
 ぱちん、と軽く空気を叩くような音がして我に返ると、目の前で両手を合わせたルークが怪訝そうに覗き込んできていた。
「どうしたんだ?ぼーっとして」
「いえ、ちょっと色々思い出していまして」
「色々?」
 小さく首を傾げたルークに、アニスいわく見た目は爽やかだけれど何かを裏に隠しているような笑みを浮かべると、それ以上追求してこなかった。
「また今度、なにかお薦めできる本があったら言いますね」
「ん、頼むな」
 ルークは借りていた本をジェイドに差しだすと、嬉しそうに笑った。
「そういえば、あなたはどこの部分が一番面白かったですか?」
 返された本のページをぱらぱらと捲っていたジェイドは、ふと思いついて訊ねてみた。
「んーと、途中の戦闘のところと最後のちょっと前のところかな」
 一つめは予想できた箇所だったが、二つめの答えが意外だった。
「最後ではなくて、その前ですか」
「うん。全部終わって扉の向こうに帰るところ」
 ようやくルークの言っていた箇所に思いあたり、すこしだけ納得する。
 異世界の仲間たちと別れて、主人公が扉をくぐってもとの世界に帰って行くところだ。そこで彼らは違う世界で生きても友情は永遠であることを確かめ合い、別れるのだ。
 いかにも子供向けの童話らしい、感動の場面。
「それぞれの世界に別れてもずっと心は繋がっているってのが、ちょっと恥ずかしいけれど悪くねえよなって思わせてくれるんだよな」
「おや、意外にロマンチストですね」
「ろまっ…てっ!…ばっ!……つうか、意外にってのも余計だっつーの」
 一気に赤くなった顔が決まり悪かったのか、ルークはくるりと体を翻すと足音も荒く部屋を出て行ってしまった。
 一人残された形になったジェイドは、手の中に残された童話の表紙をそっと指で撫でると、いつものような心を隠すような笑みではなく自然にこぼれた笑みを浮かべた。
 そして、次にあの子供に読ませるための本を、頭の中でリストアップしはじめた。



***




 部屋の隅に積み上げていた資料の山を整理している最中、突然あらわれた場違いな児童書に、ジェイドは思わず動きを止めた。
 青い扉の絵に金色の文字のタイトル。懐かしさが胸にあふれてくるのをどうにか押しとどめながら、ジェイドはそっとその本を手に取った。
 エルドラントの決戦から、すでに二ヶ月がたっていた。
 ようやく身辺も落ち着き、共に戦った仲間たちもそれぞれの国に戻り、この戦禍で混乱しきった世界の復興へとむけて歩き出している。
 ジェイドも例外ではなく、さすがに今回は拒みきれなかった昇進を受け入れ、忙しい毎日を送っている。
 だが、そんな忙しい毎日の中にぽっかりと空白が落ちる瞬間があった。
 気がつけば、視界の隅に鮮やかな赤を探していることがある。
 もう旅は終わったのだと心に言い聞かせても、この世界のどこにもあの子供がいないことを知っているせいか、なかなか慣れることが出来ない。
 正直言って、ジェイドは自分がこれほどまでに一人の人間にとらわれることがあるとは、思ってみたこともなかった。
 情が薄いと言えばそれまでなのだろうけれど、人から受ける好意におなじだけの好意を返すことが出来ない質だと自分でもわかっていた。人はそんな自分を情がないと責めることもあったが、そういう質なのだからしかたないと諦めていた。
 だから、自分がこうやって今でも一人の子供のことを引きずっているのが、自分でも意外なくらいだった。
 ジェイドはしばらくの間ぼんやりと手にした童話の本を見つめていたが、崩した資料の山をそのままにしてその本を持ったまま、ソファの方へ移動した。
 ソファに身を沈めると、ジェイドは本のページを開いた。
 かつて何度も読まされたその本の出だしは、いまでも空で言えるほど鮮明に覚えている。
 子供向けの大きな活字を目で追いながら、ぱらぱらとページを捲ってゆく。
 あらためて読まなくても、台詞も人物も話し運びもすべて覚えている。だけど、なぜかなにかに引かれるかのようにジェイドは読み進めていった。
 どれだけ厚い本であろうと、所詮は子供向けの本である。
 一時間もかからず最後の章まで読み進めたジェイドは、以前ルークが好きだと言っていた最後の別れのシーンにさしかかったところで、ページを捲る手を止めた。
「本当に、あなたという人は……」
 あの時点で、ルークがいまの現実を予想していたとは思えない。
 おぼろげな予感はあったかもしれないが、そこまで悟りきったようなところはなかったはずだ。
 それなのに、まるでなにかを暗示するかのように別れのシーンが好きだと言ったあの子供。
 扉を隔てた向こうの世界に帰って行く主人公と、こちら側に残る仲間たち。奇しくもそれは、ローレライの解放の扉を開いた彼とこちら側に残された自分たちに、なぞらえられそうではないか。
 この主人公も、たった一つしかかなえられない願いなのに、最初に自分が持っていた願いではなく世界を救うことを望む。
 死にたくないと願っていたのに、最後には世界を救うことを望んだ彼。
 この話や主人公に、彼や彼が体験した出来事が似ているわけではない。それなのに、なぜかちらちらと彼の面影が脳裏に浮かんでしまう。
 最後までページを開くことなく本を閉じると、ジェイドは軽く目を閉じて天井を仰ぐように背もたれに寄りかかった。
「まさか、自分の言葉を実感させられるとは思いませんでしたね……」
 小難しい理屈を捏ねる本よりも、童話にはもっとずっと大切な事が書かれている。
 それは子供の頃には深く理解できず、そして大人になってからはページを捲ることがなくなるので、気付かされることがない。
 大事なことはあまりにシンプルすぎて、理屈でできあがった頭には不要と判断されてしまいがちだったりする。
 だからこうやって突然気付かされてしまう事実に、戸惑いを覚えるのだろう。
 深い溜め息を一つつくと、ジェイドはゆっくりと目を開いた。
 忙しさに紛れて考えないようにしていた、一つのこと。
 帰ってくると笑っていた子供の言葉に、盲目的に縋っている自分がいること。
 信じているのだと口では言うけれど、本当はその言葉にただしがみついているだけなのだとわかっている。
 ジェイドはしばらくのあいだ突然やってきた心の波が凪ぐのをじっと待つと、本を持ったまま立ち上がった。
 少し考えてから本を執務机の上に置き、扉の方へ向かう。
 そして扉のノブに手をかけると、そのまま動きを止めた。
 ふと、自嘲げな笑みが薄い唇に刻まれる。
 子供の頃は一度も感じたことのない気持ちが、まさかこの年になってから理解できるとは思わなかった。
 この扉の向こう側は、どこに続いているのだろうか。
 そして淡い期待とたとえようのない喪失感を胸に、彼は扉を開く。



END(07/05/09)


童話の元ネタがわかっても、生暖かくスルーを期待