罪深き夏の面影




じりじりと焼け付くような陽射しが、薄いレースのカーテンを透かして部屋の中を斜めに切り裂いていた。
じっとりとまとわりつくような湿気は、まるで水の中にいるかのような息苦しさを感じさせる。体が重く感じるのも、多分錯覚ではないのだろう。
本来なら窓を閉めて空調をいれるべきなのだろうが、どうにもそんな気分になれない。
アッシュはぼんやりと一人がけのソファに深く腰をおろしたまま、何をするでもなく宙を見つめていた。
汗が、額や腕の内側にじっとりと流れてゆく。
暑いのは、どちらかといえば苦手だ。じりじりと容赦なく照りつける陽射しも、まとわりつく湿気もただ不快なものでしかない。
十歳から七年間を過ごしたダアトは、大陸でも北寄りにあったためバチカルよりも夏が過ごしやすい。だからなのか、こちらにもどってからは夏がことさら堪えるような気がしていた。
 


「なんか、すげえ暑そうな顔してんな」

ふいにくすくすと小さく笑う声が聞こえて、するりとアッシュの頬に少し冷たい手が触れた。

「あたりまえだ……。こんな日に涼しい顔でいられる方がおかしい」
「ジェイドなら普通の顔してると思うぜ。あいつ、火山でも汗かかねーし」

さらに小さく笑いながらその声は答えると、ひょいと楽しげに笑うルークの顔が隣からのぞき込んできた。

「暑い。離れろ」
「なんだよ冷てえな。せっかく冷たいもの持ってきてやったのに」

ルークはぷくりと子供のように頬をふくらませると、わざとのように冷たい手でアッシュの顔を触ってきた。

「鬱陶しい」
「ふ〜んだ、本当は冷たくて気持ちいいんだろ」

アッシュがいやがるのを楽しむように、ルークは冷たくなった手でアッシュの頬をぺたぺた触ると、ニヤリと楽しげな笑みを浮かべた。
その顔を見てガキめと心の中で毒づきながら、アッシュは自分の頬を触っているルークの手を掴むと思いきり強く引いた。

「うおわっ!」

奇妙な叫び声と共に、ソファの後ろの方からルークの体が倒れこんでくる。それを受け止めると、アッシュはルークの体を膝の上にのせて抱きしめた。

「……暑いって言ったくせに」
「いまさらだ」

ぶつぶつと文句を言う体を抱きしめると、体温はあるがひんやりとした肌の感触が心地よい。

「それで、何を持ってきたんだ?」
「冷えたレモネード。ハチミツ入り」
「てめえの味覚に合わせたんじゃねえだろうな」
「どうせ同じ味覚なんだからいいだろ」

ムッとしたのか、小さくとがらせたルークの唇を掠めるようにしてキスをすると、かすかにレモンの味がする。いや、レモンとハチミツの味だ。ひんやりとしたその味に、先程までの不快感が消えてゆく。

「ったく、暑いんだからちゃんと空調いれろよな。部屋の中でも熱射病にはなるんだぜ」
「フン、よく知っていたな」
「……てめえ、俺のこと完全に馬鹿にしているだろ」

子供っぽい顔で拗ねるルークに、いつまでたってもこの子供っぽさは変わらないなと、アッシュは心の中で苦笑する。もっとも、それはアッシュにとって不快なものではないのだけれど。

「ちゃんとしろよな。こんなことでぶっ倒れたら、みんな迷惑するだろ」
「テメエみたいにヤワにはできてねえ」
「そういう問題じゃないだろ。……心配してんだよ」

ルークは不意に顔をしかめると、こつりと額に額をあわせてアッシュの顔をのぞき込んできた。

「アッシュはすぐに無茶するから、うっかり目がはなせねーっての」
「それは好都合だな」

ニヤリと悪そうな笑みを浮かべたアッシュに、ルークはため息をひとつもらした。

「本当に心配してるんだからな。だから、無茶すんなよ……」
「俺の勝手だ。それに、あらためる気はねえ」
「アッシュ!」

思わず声を張り上げたルークに、アッシュは気怠げな表情を一転させると、強くその腕を掴んだ。

「……うるせえ。こうでもしねえと、てめえは戻ってこないだろう」

低い脅すようなその声に、ルークはハッとしたように目を瞠ると、決まり悪げに目をそらした。

「心残りがなくなったら、てめえはいなくなる。違うか……?」
「……それは」

口ごもるルークを無視して、アッシュは久しぶりに抱きしめる細い体を確かめるように腕に力をこめた。
こんなにもしっかりとした感触があるのに、現実にはこの体がもこの世界のどこにも存在しないなんて、どうしても信じることが出来ない。でもそんなアッシュの思いを裏切るように、腕の中に抱きしめた体は以前のような蕩けるような熱さは感じさせてくれず、かすかに体温は感じられるもののひんやりとした氷を含んだ肌を抱きしめているような感覚を伝えてくる。
この体が、この世のものではないのだと突きつけてくるように。



ルークがこの世界から消えたのは、二人でこの世界に帰還してから三年目のことだった。
戻ってきたのはほとんど奇蹟的と言われていただけあって、ルークは戻ってきたその時から誰が見てもわかるくらいに弱っていた。
それでも最初の一年は無理をしなければ公務をこなすことも出来たのに、二年目の終わりには滅多に屋敷の外にも出られなくなっていた。
アッシュは公務をこなしながらも、できるだけルークの側から離れないようにしていた。そして三年目にはいってからは、バチカルの外へ出る公務は出来る範囲で断り続けた。
その願いは受け入れられ、最後の一年の間、アッシュは常にルークの傍らに寄りそっていた。
だがそんな深い想いもむなしくルークが散ったのは、三年目の夏の夜のことだった。
その夜、もう自分では動くことも出来なくなったルークを抱いて、アッシュは離れの屋根の上に登った。少しでも空に近い場所に行きたいというルークの願いをかなえてやりたかったからだ。
そして満天の星空の下、ルークはゆっくりと眠るように逝き、解けた音素はその夜の星を映したようにきらめきながら夜空をのぼった。
あの瞬間、アッシュの胸の中を満たしたのは深い嘆きと慟哭だった。
もしそこが誰もいない場所であったなら、きっと自分は辺りをはばかることなく慟哭の叫びをあげただろうと今でも思う。
そしてその日からアッシュは、永遠に自分の体の半分を失ったまま生きているのだった。



ルークが時々思い出したように戻ってくるのに気が付いたのは、彼が消えた夏の夜から一年が経ってからのことだった。
今日のような夏日の午後、うだるような暑さの中にまとわりつくような気怠さを感じながらうたた寝をしているときだった。
最初は、冷たい風が頬に触れたのだと思った。
次に髪を撫でられ、その感触に一気に意識が目覚めるのを感じた。
重く感じられる瞼をなんとか押し上げると、目の前に夢にまで見たやわらかな焔色の髪があった。そして、心配そうな色を宿した優しい翡翠の瞳。震える手を伸ばして抱きしめると、ひんやりとした体温が感じられた。
何度も何度もそれを確かめたくて、アッシュは目の前の細くなってしまった体を抱きしめた。だけどしばらくするとそれは溶けるようにして消えてしまい、後には懐かしいルークの匂いだけが腕の中に残っていた。
それからは、アッシュが体調を崩したり疲労が限界に達する寸前になると、思い出したようにどこからともなく冷たい体温を持ったルークが現れるようになった。
時には心配げに額や頬に触れるだけで消えてしまったり、うたた寝をしているあいだに肌掛けが掛けられていてそこに匂いが残っていたり、さまざまな形でルークはアッシュのまわりに現れるようになった。
はじめは一言も言葉を口にすることはなかったが、回数を追うごとにその姿は鮮明になり、言葉も少しずつだがかわせるようになっていった。
だけど、それをルークはあまり喜んでいるようには見えなかった。
そのことを問い詰めて何度目かの時、ルークはぽつりとその理由を話した。言葉も交わせるほど近くなるのは、危険なのだと。
本当はもうこの世界に属していないルークに接触することは、あちら側と接触することと同じ。言葉を交わせるほど近くなるということは、それだけあちら側にアッシュが踏み込んでいるということなのだと。
会うたびにアッシュの生気を吸って、ルークはその存在を増す。それは不自然なことなのだと固い表情で語ったルーク。
だけど会えるための方法がわかってしまっては、もう引き返すことは出来なかった。
アッシュが無理をして体調を崩しかけると、ルークはそれに引き寄せられるようにして現れる。
会うことがアッシュの体を余計に損なうことだとわかっていても、そのまま見ないふりもできないし、もし自分が姿を見せなければアッシュがいつまでも無理を重ねることがわかっているからだ。
だからルークは現れるとき、嬉しそうだけれどどこか悲しそうな顔をしている。
だけどアッシュはそれに気が付かない振りをする。


夏は命の季節。
生命があふれるせいなのか、あちら側とこちら側が曖昧になる。
だからことさらこの季節になると、アッシュは無理を重ねてあちら側にいるルークを誘い出す。他の季節よりもより鮮明に、そして長い間自分のそばにいてくれるからだ。
本当はそちら側に自分が行ってしまえばいいのかもしれないけれど、それは出来ないしきっとルークも許してくれないだろう。
それなら一度でも多く会いたい、一秒でも長く抱きしめていたい。
そう願うことが間違いだとわかっていても、思わずにはいられない。


だから抱きしめるのだ、つかの間のあいだだけこちらに戻ってくる愛しい半身を。
過ぎ去った幻影を抱きしめることこそが、いまの彼にとって何物にもまさる無上の喜びなのだから。




END
(08/07/17)


そういや先日はお盆だったことを思い出したので。