ハニースパイス




 
 それは何気ないアニスの一言からはじまった。



「で、ルークはもうバレンタインの支度はすんだの?」
 とうとつに振られたその話題に、ちょうど焼き菓子を口の中に入れていたルークは、ぶほっと奇妙な音を立てて噴き出した。
「まあ、大丈夫ですか?」
 隣に座っていたナタリアが、慌ててナプキンを渡す。それを口に当てながら、ルークは涙目でニヤニヤと笑っているアニスの顔を睨みつけた。
 いま三人は、バチカル城の中にあるナタリアの私室で午後のお茶の時間の最中だった。白いクロスのかけられたテーブルの上には焼き菓子やケーキがならび、銀の菓子鉢にはチョコレートも並べられていた。それを見て、ふと思い出したようにアニスが言い出したのだ。
「もうっ!汚いなあ…」
「るせっ……、つか、なんで俺にンなこと聞くんだよ」
 ようやく喉に詰まっていたものを紅茶で流しこんだルークは、まだかすかに涙が残ったままの目でアニスをあらためて睨みつけた。
「なに言ってんのルーク!バレンタインだよバレンタイン!」
 ダン、とテーブルをひとつ叩いてアニスが力説する。
「天下無敵の乙女の一大イベント!恋する乙女たちにとっては一世一代の大イベント!ついでにいえば、三倍返しのための布石でもあるわけよ」
「……おまえの場合は最後が一番需要なんだろーが」
 呆れた声をルークがあげる。
「だったら余計に俺には関係ねえっつーの」
「なに寝ぼけたこと言ってんのよ、このボケ!」
 びしり、とアニスはルークに人差し指を突きつけると、ツインテールを揺らした。
「バレンタインは恋人同士のイベントでもあんのよ!あんたにもその義務があるに決まってんでしょ!」
「はあ?」
 わけわかんねえとばかりに顔をしかめたルークに、びしびしとアニスの言葉が飛ぶ。
「あんたねえ、仮にも恋人を持つ身でそう言うことを言うわけ?」
「十分おかしいだろーが。なんで男同士でバレンタインなんてやらなきゃなんねーんだよ」
 ルークは不機嫌そうに目をすがめると、バカバカしいとばかりにそう言いきった。
「あら、でもアッシュは期待しているのではないかしら?」
 いままで優雅にカップを傾けながら二人のやりとりを聞いていたナタリアが、不意に口を挟んでくる。それに、ルークはひるんだような顔になった。
 様々な紆余曲折を経た彼らが現在恋人同士という関係におさまっていることは、彼らをよく知る者たちの間では秘密でもなんでもない。
 彼らの元婚約者であったナタリアもすでにそのことについては割り切っていて、むしろ現在では二人が幸せならと全面的に応援する姿勢をとっている。
「意外とアッシュはロマンティストですもの。何も言わないでしょうけど、きっとルークからのプレゼントを期待していると思いますわ」
 にこりと、無敵のプリンセススマイルを浮かべながら、ナタリアは断定的な口調でそう言いきった。
「ほ〜ら☆」
 我が意を得たりとばかりに、アニスが満面に笑みを浮かべる。
「ですから、ルークもご一緒しません?」
 かちゃり、と小さな音を立ててカップを戻したナタリアが、小首を傾げながらこちらを見る。
「チョコレート作りを」
 それが、戦闘開始の合図だった。



 ところが肝心のアッシュの方は、当日までバレンタインというイベントがあったことをすっかり失念していた。
 彼がこのイベントの存在を思い出したのは、朝部屋に自分を呼びに来たメイドが恥ずかしそうに小さな箱を差しだしたときだった。
 ファブレ家では、二人の息子が帰還してからといものの、以前の厳格さが嘘のように屋敷内の雰囲気が緩やかなものに変わっていた。
 シュザンヌの一言で今年はバレンタインの無礼講が許されたのだと告げた少女は、おなじ物をルークにも渡すつもりなのだと笑うと、ほんのりと頬を染めながら一礼して戻っていった。
 そういえばそんなイベントもあったな、と懐かしく思い出す。
 神託の盾に入ってからはそんな行事とも無縁だったので、すっかり忘れていた。
 ほんのりとあたたかな気持ちになりながら部屋を出ると、ちょうど隣の部屋から出てきたらしいルークと行きあった。
「…めずらしいな、テメエがこの時間に起きてくるとは」
「るっせえな。たまには俺だってちゃんと起きるっつーの」
 拗ねたように頬をふくらませたルークにアッシュは鼻先で笑うと、ひょこりと跳ねている髪の毛を引っ張った。
「寝癖つけたまま出てくるんじゃねえよ。ガイはどうした?」
「昨夜、今日はこれねえからって拝み倒してきた」
 あのルーク至上主義者が珍しいこともあるものだと思いかけて、今日がなんの日だったかをあらためて思い出してアッシュは軽く額を抑えた。
 女性恐怖症が完治していないくせに無駄にもてるあの元使用人は、おそらく今日一日はどこかに隠れているつもりなのだろう。
「直してやるからこっちにこい、みっともねえ…」
「い、いいよ別に!あ、母上に朝ご飯いらないって伝えておいてくれ!」
「って、てめえどこにいくつもりだっ!」
「昼には戻るから〜」
 そういうが早いか、ばたばたと慌ただしい足音をたててルークは中庭の方へ走っていってしまった。
「なんだ……?」
 取り残された形になったらアッシュは、ひらひらと白い裾を風になびかせながら走ってゆくルークの後ろ姿を見送りながら、首を傾げたのだった。



 午後になって、前日からの約束通りあらわれたナタリアに、なぜかルークもくっついて一緒にかえってきた。
 さらにその後ろには、なぜかアニスもいる。
 応接室で彼らを出迎えたアッシュは、ようやく事情がのみこめたような気がした。
「ほらルーク、あなたからどうぞ」
 自分の後ろに隠れるようにしてくっついていたルークを引っ張り出すと、ナタリアはその背を押した。
「ばっ、押すんじゃねえよ」
「でしたら、さっさと男らしくけじめをおつけなさい」
 ナタリアはきっぱりとそう言い渡すと、さらにぐいぐいとルークの背を押してアッシュの前に押しだした。
「………やる!」
 その距離約二メートル。うなりをあげて飛んできたものを右手でキャッチすると、それは不器用にリボンが結ばれた小さな箱だった。
 アッシュに箱を投げつけて逃亡を図ろうとしたルークは、いつの間に発動させたのか、巨大化したトクナガにしっかりと押さえこまれている。
「ふん…。一応はなんの日か覚えていたってことか」
 自分が忘れていたことはちゃっかりと棚に上げて、まんざらでもないようにアッシュは手のひらの上の箱を見つめた。
 おそらくルークだけだったら、こんな気の利いたものを用意することはなかったはずだ。間違いなくこれはナタリアたちがけしかけた結果だろう。
 アッシュは心の中でひそかに、彼女たちのお返しをはずもうと決意していた。
「アッシュ、これは私から」
 続けてナタリアから、こちらは綺麗にリボンのかけられた箱が手渡される。ルークの次に召し上がってくださいましね、と念を押して。
「ありがとう」
 薄く笑みを浮かべた顔に、ナタリアは満足そうに笑い返した。
「で、これは私から。お礼、期待してるからね」
「……」
 ぽん、とこれは二人よりもやや小振りの箱がアニスから渡される。それを微妙に引きつった表情で受け取ったアッシュは、なぜかじっと自分の顔を見あげているアニスに怪訝そうに眉をしかめた。
「なんだ?」
「私は、せいいっぱい善処したからね」
 なぜかいやに真剣な顔で、ぼそりとアニスが呟いた。
「なんだって?おい…!」
「あのね。あの二人のチョコ。手作りだから」
 すっ、と部屋の温度が一気に下がったような錯覚をアッシュは覚えた。
「ついでにいうと、なぜかチョコ作りなのに、お城の厨房が半壊したから」
 アニスは深々とため息をひとつつくと、遠くを見るような目つきになった。
「……バチカル城に、ナタリア専用の厨房なんてできたんだね。なんでだろうって思ってたけど、よ──っくわかったわ…」
 進歩したんだね、おもに破壊方面に。アニスはそう呟くと、アッシュの肩を叩いた。
「……一応私のチョコ、解毒剤入りにしておいたから」
「……わかった」
 急に手のひらにのったチョコの入った箱が、重くなった気がする。
「お返しは三倍返しでよろしく」
「考えておこう…」



 その翌日、アッシュが離れの部屋からでてこなかったのは言うまでもない。



END
(07/02/14)


ポイズンクッキング、ダブルアタック。