子犬のしつけもほどほどに




 
 ノックをするその瞬間が、こんなにもドキドキすることがあるのだとはじめて知った。
 夜更けすぎ、こうやって足音を忍ばせて部屋を訪れるのは初めてではないのに。
 だけど今夜は、すこしだけいつもの夜とは違う。
 だからこんなにもドキドキするのだろうかと考えながら、ルークは小さないらえが帰ってくるのを待って慎重にドアを開いた。



 ケテルブルクに泊まるときは、すでにこのケテルブルクホテルが彼らの定宿となっている。
 誰かと同じ部屋で寝起きするのに不満はないが、たまには一人でゆっくりとくつろぎたいと思うのは誰しも同じで。
 それならいっそのこと快適な部屋で過ごしたいと思うのも、当然のことだろう。
 だからルーク達はよほどのことがない限り、旅の途中でも定期的にケテルブルクに寄って休息をいれることにしている。
 貴族の別荘が建ちならぶ高級リゾート地であるこの街は、保養施設も娯楽施設も完備されている。特に最高級といわれているケテルブルクホテルの客室のベッドは、ルークの実家であるファブレ家のベッドにもひけをとらない快適さである。
 そしてもう一つ、今日こに街に来たのには理由があった。
 高級店が軒を連ねるこの街には、名の知れた菓子店舗も多い。
 ちょうど一ヶ月前の今日、ルーク達は女性陣達からバレンタインデーのチョコを受け取っていた。だから今日はそのお返しをそれぞれ用意して、夕食の席で渡した。
 そのかいもあってか、今日の夕食の席はにぎやかなものになった。
 そして夕食をおえてそれぞれ部屋に戻るために席を立ったとき、さりげなくジェイドから夜になったら部屋にくるようにと耳打ちされたのだ。
 部屋に戻っても時間がくるのが待ち遠しく、これほど時計の針のすすみが遅く感じられたことはない。
 バレンタインの当日に、ちゃんとルークもジェイドにチョコレートを渡したのだ。 さすがに仲間達の前で堂々と渡すのは恥ずかしかったので、多少イレギュラーな渡し方だったけれど。
 だから夕食が終わってもなんのそぶりも見せなかったジェイドにも、それほど不安は感じていなかった。……たぶん。
 恋人同士といっても、ジェイドのルークに対する態度はわりといつもそっけない。
 二人きりの時は多少それっぽい態度をとってくれることもあるが、基本的にはルークからアプローチすることがほとんどだ。
 もっとも、それはルークが気づいていないだけで、ジェイドも彼なりに色々とルークに気を回しているのだがその努力はあまり実っていない。
 ともあれ、何よりも待ち望んでいた誘いの言葉に、ルークは期待に胸をふくらませていた。



「はい、もういいですよ」
 淡々とした声でそう告げられた瞬間、おもわずルークは目の前に座っているジェイドの顔を穴が開くほど凝視した。
「どうかしましたか?」
 涼しい顔でそうたずねてきたジェイドに、ルークは慌ててなんでもないと首を横に振った。
 部屋にはいるとすぐにジェイドは、ルークをベッドに座らせていつもの定期検診をはじめた。
 さすがに拍子抜けしたものの、大人しく言われるままに診察を受けて結果を聞いて、さてそれでというところでの先ほどの発言だ。思わず不審な目をむけてしまった自分に罪はないはずだ。
「ちょっと疲れがたまっているみたいですね、今夜はゆっくり休みなさい。せっかくの一人部屋なのですし」
「う、うん…」
 気遣うように笑ってくれる顔が綺麗だなと思うかたわらで、ルークの頭の中では様々な思いが渦巻いていた。
 期待させるような素振りを見せるなとか、もしかして忘れてしまっているのだろうかとか、そんな苛立ちとも悲しみともつかない感情がぐるぐると頭の中をまわっている。
 おまけに、いつもなら診察の後になんとなくだらだらと一緒に時間を過ごしたりするのに、今日に限ってさっさと部屋にかえれなどという。
 だんだん降下してゆくルークの機嫌を察しているのかいないのか(変なところで人の感情に疎いところがあるから本当に気がついていないのかもしれないが)、ジェイドは自分を見つめているルークの顔を見て、軽く顎に手をやった。
「しかたないですね、よく眠れるように薬をあげますよ」
 自分が言いたいのはそんなことではないと思いながらも、まるで催促するようなことをルークが自分から言い出せるはずもない。
 何か嫌われるようなことをしてしまったのだろうかと不安になるが、心当たりはない。今日の買い出しだって、目移りしてなかなか決められないルークをガイと二人してからかいながらも、一緒に選ぶのを手伝っくれたぐらいだ。
 それに、買い出しに行ったくらいなのだから、今日がなんの日か忘れているわけはない。だとしたら、自分には必要ないとジェイドは判断したのだろうか。
 そんなことを考えていたせいだろうか、ひょいと目の前に白い袋を差しだされて、ルークは思わず体をすこし後ろにひいた。
「寝る前に必ず飲みなさい。よく眠れますよ」
「あ、ありがとう……」
 そっと振ってみると、かさかさと小さな音がする。
「それでは、私は調べ物でもうすこし起きていますから」
 にっこりとそう笑われては、それ以上何も言えなくなる。しかたなくルークは紙袋ひとつだけをもって、部屋を出て行った。



 まるで主人に遊んでもらえなかった子犬のような、たれた耳としっぽの幻が見えそうなルークの後ろ姿を見送りながら、ジェイドはひそかな笑みを浮かべた。
 そして荷物の中から小さな瓶をとりだすと、枕元のサイドボードに置いた。
 小さなガラス瓶の中にはセロファンに包まれた色とりどりのキャンディが詰まっていて、キラキラと光を放っている。
 ルークに渡した紙袋の中には、このキャンディとおなじ物が一つだけ入っている。
 そしてもうひとつ。袋の中には、小さなメッセージカードがそえられているのだ。
「これくらいの意地悪は、許してもらいたいものですね」
 バレンタインの日に受けた、小さな悪戯。
 きっとルークにとっては照れ隠し半分の悪戯だったのだろうが、ジェイドは地獄にたたき落とされたような気持ちを味あわされたのだから。
 落ち込みながらも、律儀に自分からもらった薬を飲もうと袋をあけたルークは、どんな顔をするだろうか。
 ちょっと抜けているところのあるあの子供のことだから、もしかしたらカードの存在に気づかないこともあるかも知れない。
 そう思うとすこし心配ではあったが、その時は日付が変わる頃を見計らって部屋にたずねて行ってもいい。そんなことを考えるだけで、自然と口元が緩みそうになる。
 このささやかな意趣返しに、あの子供はどんな顔をするのだろうか。

『この薬がもっと必要なら、いつでも部屋まで来なさい』

 きっといまの自分は、どうしようもないほど情けく嬉しそうな顔をしているに違いない。
 でもそんな自分が前ほどでは嫌いではないことに、ジェイドは気がついていた。



END
(07/03/15)


でもって、待ちぼうけだったら悲惨。