約束の月




約束の月がのぼるのを待ちかねて、アッシュはこの二年の間仮の住まいにしていた小屋を出た。
外に出ると夜の冷たい風が頬を撫でる。
今夜はすこし風が強い。だがそのおかげで空は綺麗に晴れ渡っている。
この二年、アッシュはただこの日がやってくることだけを待ち望んで生きてきた。
そう、地上に自分だけが戻されたあの日から。


* * *


あの日。
死んだと思っていた自分の意識が目覚めるのを感じて、アッシュは信じられない思いで目を開いた。
最初にアッシュの目に映ったのは、驚いたように自分の顔をのぞき込んでいるルークの顔だった。
なぜお前がここにいると睨みつけかけて、すぐにアッシュはすべてが終わったのだと理解した。いや、正確にいうなら終わったのだと知っていた。
とどめを刺した瞬間の、かつての師の顔。貫いた刃に感じた、肉の重さ。そんな記憶がリアルにアッシュの中に蘇る。
なぜそんな記憶があると訝しく思う間もなく、アッシュは突然ルークに強く抱きしめられた。あまりに唐突な行動に突き放すことも忘れて、アッシュは目を丸くしたままちょうど視線のすぐ下にきたルークの肩を見つめた。
そしてふいに気が付く。その輪郭が薄く光り、その境界を曖昧にしていることに。
「レプリカ……?」
呆然としたまま声を発すると、身体を離したルークがにこりと笑う。
そこで、肩だけではなく、ルークの全身がまるで出来の悪い鏡に映った姿のようにうすぼんやりとぼやけていることに気が付く。

これはなんだ?
理解が追いつかない。

ただ呆然とルークを見つめることしかできないアッシュの目の前で、ルークの唇がゆっくりと動く。声はない。だけど彼がなんと言っているのかは、すぐに理解できた。

『ありがとう』

なにが、と問う間もなかった。
それだけをルークは告げると、最後にもう一度笑顔になって、そしてそのまま弾けるようにしてアッシュの目の前から消えてしまった。

「レプリカ……? ルークっ!!」

慌ててわずかに残った残像を抱きしめようとアッシュは手を伸ばしたが、触れた瞬間にその残像も儚く散ってしまう。
広げて伸ばした腕の中には、何も残っていない。


その次の瞬間、アッシュは自分の上に何か温かなものが降り注いできたのを感じた。
やわらかな春の雨のように降り注いでくるそれが、どこからやってきたのかなんて考えるまでもなかった。
身体の中に力が命が満ちるのがわかる。
だがそれと同時に、まるで半身がもぎ取られていったかのような喪失感が胸を締め付ける。
いま自分は何よりもかけがえのない物を失ったのだと、すぐにわかった。
ずっといらないものだと拒絶していたのに、いざ失ってみて、はじめて自分がどれほどあの存在を追い求めていたのかをアッシュははじめて理解した。
どうしてあれほど頑なに、彼を拒んでいられたのだろう。
どうしてあんなにも、彼の消滅を望んでいたのだろう。
こんなにも、望んでいたのに。
頬を温かなものが滑り落ちてゆく。
それが涙なのだと気が付くのに、そう時間はかからなかった。


* * *


その後、自分の前に現れたローレライによって大爆発現象の真実を知ったアッシュは、なんの迷いもなく自分の望みを口にした。
ローレライはしばしの沈黙の後、良いだろうと頷いた。
ただしひとつだけ条件があると続けたローレライに、アッシュは一瞬の迷いもなく頷いた。
もし自分の命を差しだせと言われても、かまわなかった。
世界を望まれても、たぶん頷いた。
それほどまでに、あの半身が大事なのだと知ってしまったから。
だったら彼を犠牲にして生き延びた世界と彼の価値を比べる事なんて、いまのアッシュにとっては無意味なことだった。
だがローレライが提示してきた条件は、アッシュにとっては拍子抜けするほどに簡単なことだった。
ルークが戻ってくるまでの二年の間、誰にも会わず誰とも口を聞かずに生き延びろと。ただそれだけが条件だったのだ。
そして、アッシュは約束通りこの二年間誰とも接触することなく生き延びてきた。



タタル渓谷についたときには、すでに約束の月は中空近くまでのぼっていた。
遠くから、風に乗って歌声が聞こえる。
アッシュは空の月に向かって両手を広げると、空を見あげた。
白く輝く月から、金色の光りが降りてくる。
その光はアッシュのつま先よりも少し先に小さな光の輪を作ると、そこから瞬く間に植物の芽が伸びはじめ、葉を蔓を伸ばしてゆく。
それはアッシュの背丈ほどにも成長すると、大きな白い蕾がアッシュの目の前に頭を垂れた。
するとまるでほどけるようにして蕾が花開き、甘い蜜の匂いがあたりに満ちる。
アッシュは迷うことなく自分の目の前にやってきたその白い花に口づけると、伸びた茎ごとかき抱いた。
そして、変化が訪れる。
アッシュの腕の中で一度身もだえるように震えた花が、瞬く間に姿を変えてゆく。
しなやかな蔓や茎はほっそりとした肢体に。
ひろがる葉は長い夕焼け色の髪に。
そして開いた白い花は、すこしだけ幼い、だけどあのころと全くかわらない懐かしい顔に。
閉じられていた長い睫が、ゆっくりと花開くように押し上げられる。
その下から現れた新緑色の瞳は、アッシュの姿を捕らえると驚いたように一度大きく見開かれたが、すぐにやわらかな笑みが浮かべられる。


アッシュはもう一度自分のうでの中に戻ってきた愛しい半身を強く抱きしめると、そっとその耳元に唇を寄せた。
この世界に戻ってきてからはじめて発するその言葉が、愛しい相手の名前であることの幸福に酔いしれながら。





END(08/11/13)初出(08/08/06)