雨の追憶




その日は、雨の音で目が覚めた。
最近になってようやく手に入れた部屋は、薄汚れた木賃宿の一番片隅にある元は物置として使われていたものだったが、以前のように道の片隅や物陰で寝ているよりははるかにましだった。
特にそう実感できるのは、今日みたいな雨の日だ。
地べたで眠っていると、頭の上を覆う何かがあってもかならず雨が流れこんでくる。直接雨に打たれるよりはずっとマシだが、眠っている間に流れこんできた水の流れに背や頬を濡らされると、慣れていてもやっぱり驚かされる。
それに、雨は身体を冷やす。
路地裏で暮らす子供たちは比較的皆頑丈だが(そうでなければある一定の年齢まで生き延びられないので)、冬の雨が長く続くと誰かしらが欠けてゆくことも珍しくなかった。
だからどんなに古びた小さな部屋でも、屋根と床があるだけで十分だ。それに、ここには大事な大事な幼なじみも一緒にいる。
フレンはそっとベッドを揺らさないように上半身だけ起きあがると、自分にくっつくようにして眠っているユーリの顔を見下ろした。
ぼろぼろの毛布にくるまっていても、そこから覗く白い顔が下町の子供とは思えないほどに整っているのが良くわかる。肩のあたりで切りそろえた艶のある黒髪が頬のあたりに散っていて、フレンはそっと指を伸ばすとその髪を払ってやる。

「……んっ…」

触れてきた指の感触に気がついたのか、長い睫が揺れて薄く瞳が開く。現れたのは、髪と同じ色の黒葡萄の瞳。ユーリはぼんやりとした目のまま起きあがると、大きく欠伸を一つした。

「おはよう、ユーリ」
「……ん、おはようさん。フレン」

寝起きのせいかすこし舌足らずなしゃべり方で答えるユーリが可愛らしくて、思わず抱きしめてしまいたくなる。なにしろ普段のユーリは勝ち気で格好良くて、たしかに顔立ちは可愛くても格好いいという感想が先に来るから。
ユーリはまだ眠そうに目を何度か擦ると、窓の外を見て顔をしかめた。

「雨か……」
「うん。寝ている間に降りだしたみたいだね」
「どーりで、だりーはずだ」

ユーリはそのままもう一度ぽふんとベッドに倒れこむと、小さく呻いた。

「雨降っちゃったから、アンナおばさんのとこの手伝いは延期だね」
「ま、仕方ねえな。今日は何の仕事もなしか」

ころりと転がってフレンの方に身体を向けると、ユーリは深いため息をついた。

「結構降っているけれど、川の方は平気かな」
「大丈夫だろ。雨の時期でもねえし。このあいだハンクスじいさんが水かさ減ったってぼやいてたから、ちょうどいいんじゃねえ?」

下町を流れる川は、町の生命線だ。一応魔導器で制御はされているが、生活用水は雨水に頼っている部分も多い。川が氾濫するのは問題外だが、足りなくなってもすぐに人々の生活は苦しくなる。

「でも、すごい雨だよ。嵐みたい」
「だったら余計どこにも出たくねえな」
「ユーリは雨が嫌いだもんね」

どことなく猫っぽいところのあるユーリは、猫と同じく雨が嫌いだ。もちろんフレンも雨が特別に好きなわけではないが、ユーリほどではない。

「買いだし、昨日行っておいて正解だったね」
「ああ、たしかにな。こんな雨の中、絶対に出てく気しねえ」

心底嫌そうに呟くユーリに、思わず笑いが漏れる。

「なに笑ってんだよ」
「ちょっと、痛いよ。ユーリ」

小さな足がフレンを蹴ってくるのに、フレンはベッドの上から蹴り出されそうになって慌てて身体を支えた。

「あーもう、気分悪りい」
「朝食、僕が作ろうか」
「……いい、俺が作る」
「怠いんでしょ? 遠慮しないでいいのに」
「いいから!」

がばりと起きあがったはずみに、ベッドが大きく揺れる。二人は互いに向かい合わせに見つめ合う形になって、互いに大きく瞬きをした。
一瞬訪れた沈黙を破ったのは、フレンの方だった。
フレンは小さな笑い声をあげながらベッドの上に倒れこむと、きょとんと目を丸くしているユーリの腕を引っ張った。

「わっ……!」

不意打ちにそのままなだれ込むようにフレンの上に倒れこんだユーリは、起きあがろうとしてフレンの腕に抱き込まれ、怪訝そうな目を向けた。

「どうせ今日は仕事もないからさ、もう少し一緒に寝ない?」
「は?」

ユーリは一瞬呆けた顔をしてから、にやりと人の悪い笑みを浮かべたフレンに仕方ないというように笑い返した。

「しかたねえから、一緒に寝てやるよ」
「ありがと」
「言っておくけど、先に起きても絶対にご飯はつくるなよ」
「わかっているって」

もぞもぞとフレンの上から降りて隣におさまると、ユーリはめくれあがっていた毛布を引き寄せた。
ふわりと温かな空気に包まれ、心もふんわりと温かなものに覆われたような幸福感を感じる。
すぐ近くで、ふわりとユーリが欠伸をした気配がした。なんのかの言って、フレンが起こしてしまったようなものだから、まだ眠かったのだろう。
瞬く間に隣から聞こえはじめた安らかな寝息に、フレンも小さく笑みを浮かべた。相変わらずうるさい雨の音は聞こえていたが、すぐ隣から聞こえてくるユーリの規則正しい息の音に瞼が重くなってくる。
小さな古ぼけたベッドの上から幸せそうな二つの寝息が聞こえてくるまでに、そう時間はかからなかった。


* * *


目が覚めた瞬間、フレンはすぐに自分がどこにいるのか理解できなかった。
体の下に感じる柔らかなベッドの感触が、ここがあの古びた小さな部屋ではないことを伝えてくる。
だがフレンをそんな混乱に陥れたのは、隣でこちらに顔を向けて眠っているユーリの顔だった。フレンは何度か瞬きをしてそれが現実の物であることを確認すると、ようやく昨日のことを思い出して小さく息を吐いた。
昨日は、久しぶりに訪ねてきたユーリと抱き合ってから寝たのだった。
その証拠に、いま隣で眠っているユーリの肩は夢の中と違って素肌で、そこには薄赤い跡がいくつも散らばっている。でもどうしてそんな夢を見たのだろうと怪訝に思いながら起きあがったフレンは、窓の外を見てようやく納得した。
眠ったあとで降りだしたのか、窓の外は灰色に染まっている。この雨音が、懐かしい夢を運んできたのだろう。
ふいに、小さなため息とともにもぞもぞと隣で寝ているユーリが動く。それに小さく笑いながらそっと髪を撫でてやると、別に目覚めたわけではないのか眠る体勢を少し変えただけで満足したように再び寝息が聞こえてきた。最近のユーリにしては珍しい。

(昨日、ちょっと無理させたかな)

ユーリが聞いていたら即座に突っ込みが入りそうなことを考えながら、フレンはあらためてユーリの寝顔をのぞき込んだ。
大人になっても変わることのなかった整った顔立ちは、逆に年齢を重ねた分さらに無性別に近い顔になっている。きちんと全体的に見れば長身なこともあるので男性と判別されるだろうが、今のようにしどけなくベッドで眠っている姿は女性と間違われても仕方がないだろう。
強くて綺麗なユーリ。そんな彼が、フレンはずっと好きだった。
それこそ自分の中にある恋情や欲に気がつくよりも前から、ずっとずっと好きだった。
だからいつだって側にいたし、ずっとそのままいつまでも一緒なのだと思っていた。
だけど今では自分と彼は違う道を歩み、離れ離れに生きている。時には互いの立場から対立することもあるし、ずっと何ヶ月も顔も見られないこともある。
あの小さな部屋で二人で生きていた頃は、なんの疑問もなく毎朝目覚めれば隣にユーリがいた。どうして、あのままではいられなかったのだろう。


今を悔いるわけではないけれど、懐かしい夢の中の昔に胸が疼く。
外では雨脚を強めた雨の音が響いている。
その音の中で、フレンは失ってしまった昔の幸福に少しだけ泣くことを自分に許したのだった。




END (初出08/10/23)(08/10/26)