レンズの向こう側の恋




「ユーリ、どうして自分がここに呼びだされたのか君はわかっているのかい?」
フレンは身体の奥底から吐き出したような深いため息をつくと、銀縁フレームの眼鏡の位置を軽くなおすように持ち上げた。
薄いレンズを通した先にあるのは、ふて腐れたような表情をした黒髪の親友の顔。それに、怒りたいのはこっちの方だと思いながら、フレンは口を開いた。
「いったい、一週間の間に何回騒ぎを起こしたら気が済むんだい? 喧嘩が二回に無断早退が一回。服装検査と素行で厳重注意が二回……。停学にならなかっただけましだと思いなよ」
「……停学になった方が楽だったけどな」
「ユーリ」
しれっとした顔でそんなことを言うユーリに、フレンの声のトーンがひとつあがる。そんな彼にユーリはますます面倒くさいという顔になると、行儀悪く足を組んだ。
「ユーリ、足」
「いいだろ、どうせお前しかいねえんだから。な、生徒会長」
ユーリは笑いながらひらひらと手を振ると、唇の端をすこしあげる。
すこしきつめの綺麗な顔立ちをしているだけあって、ユーリにはそういう表情がとても似合う。フレンも普段ならそうやって笑っているユーリの顔が嫌いではなかったが、いまだけは別だった。
「そういう問題じゃないだろう。だいたい、なんだいその眼鏡は?」
フレンは軽く腕を組むと、自分の視線を跳ね返す薄いレンズを睨みつけた。
「お前だってかけてるだろ」
「僕の場合はすこし視力が落ちたから、勉強とかするときだけだよ。でも君は目は悪くないだろ? なんで眼鏡なんかかけているの」
「ま、生徒会長様直々の呼び出しだったからな。ちょっとは真面目にしてみようと思ったんだよ」
ユーリはからかうような口ぶりでそういうと、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「やっぱり伊達眼鏡なんだ。でも、なんだってそんなもの作ったんだい?」
おしゃれでということは、まずないだろう。ユーリはそれこそ美少女と見まごうような綺麗な顔立ちはしているが、自分の容姿にはとことん無頓着な方だ。一応ファッションセンスが完全崩壊しているわけではないので、そこそこまともな恰好はしているが、流行などにはまったく興味がないタイプである。
「こういうものかけている方が、ちょっとはお堅く見えるだろ。最近またうぜえんだよな、色々と……」
とたんにうんざりとした顔になったユーリに、フレンはなるほどとようやく納得がいった。
なにしろこの容姿にこのスタイルなので、ユーリは小さい頃から町を歩けば様々なスカウトたちに声をかけられる。しかも中学生の頃までは身長もそれほどなかったから、その半分が少女雑誌のものだったという笑えない事実もある。
「それに、最近は変な奴にも声かけられるから余計にうぜえんだよな。人を女と間違えてんのかと思えばそうでもねえし、男に声なんかかけてどうするつもりだっつーの」
「変な奴?」
「そ、エロ目的で声かけてくんだぜ? 冗談じゃねえっての」
「ユーリ。その話、また後でゆっくり聞かせてくれないかな?」
にこりと、音が聞こえそうな笑顔を浮かべたフレンに、ユーリは小さく首を傾げながら頷く。その後、繁華街に出没する買春目的の客たちが一斉摘発されたことは、また別の話になる。
「それはそれとして。似合ってないよ、その眼鏡」
「そうか? ジュディは似合っているって言ってくれたけどな」
「似合ってないよ」
仲の良い女友達の名を出したユーリに、フレンはすこしだけ意地悪な気持ちになって言う。
本当は、別にそこまで似合っていないわけではない。多少違和感はあるが、慣れれば普通に似合っていると思えるようになるだろう。だけどフレンは、ユーリの顔にかけられたその眼鏡がどうにも気にくわなかった。
フレンはユーリの綺麗な顔がとても気に入っている。しかも幼稚園にはいるよりも前にすませてしまった初恋はユーリだし、幼稚園の年長になるまではユーリをお嫁さんにすると本気で信じていたほどの筋金入りの恋をしている。
そんな彼から見て、ユーリが眼鏡をしている姿はどうしても違和感がある。いや、違和感と言うよりも疎外感を感じるのだ。
薄いレンズを通しただけで自分を見るユーリの視線が遠のいてしまったような、そんな錯覚を感じてしまう。
もちろん馬鹿馬鹿しいとわかっている。でも一度そう感じてしまったら、もう自分の中ではその感覚を追い出す方が難しくなってしまう。もちろん正直にそんなわけのわからない理由を口にすることも出来ず、結局は的外れなことしか言えなくなってしまうわけだが、そういうわかって欲しくないことを鋭く察してくれてしまうのが、ユーリだった。
「なんだよ? おまえ、これが気にいらねえのか?」
ああやっぱり、とフレンは思わずその場から逃げ出したくなった。初めのうちは怪訝そうな顔をしているだけだったのに、いまのユーリの顔には良いからかいのネタを見つけたと言わんばかりの楽しげな笑みが浮かんでいる。
「なあ、どうなんだよ?」
すいっと机ごしにユーリが身を乗り出してきて、下から見あげてくる。
切れ長の黒葡萄色の瞳が楽しげに細められ、その目尻に何とも言えない色が乗っている。動いた拍子に流れ落ちた髪が一房、大きく開かれたシャツの胸元に落ちた。
「ゆ、ユーリ?」
思わず上擦った声をあげてしまうと、ますます楽しげに猫のように瞳が細められる。ユーリの左手が机の上から離れ、トンと軽くフレンの制服の胸を突いた。
「なっ、ヤらねえの?」
「え……っ?」
「なんだ、そのつもりだったんじぇねえのかよ」
途端に軽くふくれっ面をしてみせたその猫の目のように変わる表情に、頭がくらくらする。
「放課後の生徒会室に二人っきりだなんて状況に持ち込んできたから、てっきりそのつもりかと思ったぜ」
「ばっ! な、なにを言ってるんだよユーリ! 僕は先生に言われたから……」
「ホントは、自分が注意するからっておめこぼしもらってくれたんだろ? サンキュ」
きゅっと瞳を笑みの形にして見あげてこられて、心音が跳ねあがるのがわかった。
始末の悪いことに、ユーリは自分のどんな表情や仕草が相手を誘うのかわかっている節がある。もっとも無自覚なところの方がもっと多いのでさらに始末が悪いのだが、とにかく意図的にそういう表情をしてきたときのユーリを押しのけるのはかなり厄介だ。
思わず迫ってくる彼から逃げようと立ちあがると、不満げな目を向けてきてからユーリも立ちあがった。そしてまるで見せつけるようなゆっくりしとした仕草で眼鏡を外すと、ツルの部分を舌ですくいあげるようにして口の端に咥えた。
ユーリの右手が伸びてきて、頬に触れる。ひんりとした指の感触がなぜか焼け付くような熱を持っているように感じて、フレンはびくりと小さく肩を揺らした。
「で、どーすんの。ヤんの、ヤんないの?」
わざと低めた掠れた声で囁かれて、フレンは咄嗟に目をそらした。
「ユーリ、冗談は……。それに、こんなところじゃ…ダメだよ」
「別に、俺は気にしねえけど」
「で、でも……」
いくら人気のない所だと言っても、ここは神聖な生徒会室だ。正直に言えば、たしかにユーリからの誘惑で身体の方が反応しはじめてはいるが、なんとか理性で押しとどめる。
なにしろ、おあつらえ向きにこの部屋は特別棟のすみっこに位置している。そういう事をしていてもまずばれないだろうとわかっているだけに、気を抜けば簡単に流されてしまいそうだった。
「な、フレン?」
滅多に聞かせてくれない甘い響きで名前を呼ばれて、理性が揺らぎかける。まったく、普段は頼んだってなかなかそんな可愛い仕草は見せてくれないくせに、こういうときだけは別らしいのが憎らしい。
「駄目だよ、ユーリ。……その、後でね」
ああなんて情けないんだろう、と思わずため息をつきたくなる。毅然と突っぱねるには、あまりに自分はユーリに心を奪われすぎている。きつく突き放すことも出来ず、結局機嫌をうかがうような声を出してしまうのが自分でも情けない。
ユーリはそんなフレンに一瞬不服そうな顔を見せたが、あからさまに自己嫌悪に陥っているのが見てわかるフレンにすぐに機嫌をなおすと、すばやくその頬にキスを一つした。
「ゆ、ユーリ?」
「じゃ、後で部屋の窓を開けとくからな」
二人の家は隣同士で、しかも部屋の窓は向かい合わせになっている。なので子供の頃から互いによく窓から行き来しており、それは単なる幼なじみから恋人になってからも変わらない。
「わかったよ。後で行くから……覚悟していてね?」
そんな風に誘われてしまったからには、精一杯応えねばこちらの気もすまない。それでなくても中途半端に煽られてしまって、本当ならいますぐにでも目の前の彼を抱きしめたいのだから。
「それじゃ、また後で」
ユーリは笑ってそう言うと、さっさと先に部屋から出て行ってしまった。だがフレンはその後は追わずに、ふたたび椅子に腰をおろした。いま一緒に帰ったら、それこそ途中で我慢できなくなってしまう。
紙のように薄っぺらい自分の理性に苦笑しながら、ふとフレンは机の上に目をやってさらに笑みを深める。そこには、さきほどユーリがかけていた眼鏡が置きっぱなしにされていた。
フレンは眼鏡を手に取ると、一度手の中で遊ばせてからたたみ、ゴミ箱の方に放り投げた。
綺麗な放物線を描いた眼鏡はそのままゴミ箱の中に吸い込まれると、乾いた音を立てて底に落ちていった。



END(08/11/01)


*よろしければ、素敵絵を描かれたおふたりへ。