秘密




 秘密がある。
 絶対に誰にも知られてはいけない秘密がある。
 死ぬまで心に秘めて、闇の彼方に持って行かなくてはならない秘密がある。
その秘密は己の心の中だけにとどめて、風化するのを待たなくてはならない。


 たとえそれが、血の滲む傷跡だったとしても―――。



 カシャン、となにかが割れるような音がした。
 それがなんの音なのかわからずぼんやりとしていたユーリは、じわじわと冷たい感触が膝の上に広がっていくのに、ようやく手に持っていたグラスを落としたのだと気がついた。

「ユーリ、なにやっているんだい!」

 一拍遅れてフレンの慌てた声がする。それと同時にこぼれた酒を拭こうとしたのか、フレンの手がこちらに伸びてくる。

「悪りい……」

 一瞬びくりと反応しそうになった自分をなんとか押さえこむと、ユーリは決まり悪そうな笑みを浮かべてやんわりとフレンの手を制した。

「ちょっと洗ってくるわ」
「破片とかで手とか切ってない?」
「大丈夫大丈夫」

 ユーリはひらひらと手を振ると、洗面台のあるバスルームへむかった。
 背後で椅子を引く音がして、背筋に緊張が走るのがわかる。だけどそれも綺麗に無視して、ユーリはバスルームのドアを開いた。
 ドアを開く瞬間わずかな躊躇が胸をよぎるが、それもねじ伏せてドアを開く。フレンが与えられているこの個室は、さすがに城内にあるだけあってユーリの部屋とは比べものにならないほど綺麗に整えられている。
フレンらしく綺麗に整頓されている洗面台のランドリーからタオルを取り出し、さっと水にくぐらせて絞ると、ユーリは酒をこぼした箇所を拭きだした。
 いったい、何をぼんやりしていたのだろう。
 気を抜いていたつもりはないし、酒にだって酔っていなかった。一瞬だけ訪れた空白の時間。そんな不思議な感覚だった。

「ユーリ、大丈夫そう?」

 またぼんやりと思考の中に沈みそうになっていた意識が、フレンの声に引き戻される。こちらに向かってくる足音を耳がひろい、上擦ったような声が思わず出る。

「平気平気。いいからお前はそこにいろ」
「そう? あ、こっちは片付けたからね」
「サンキュ」

 足音が途中でとまり、引き返してゆく。その音をずっと耳が追う。
ふと、手にしていた濡れタオルをいつの間にか強い力で握りしめていたことに気付き、指を解く。
指が震えている。いや、指だけじゃない体全体が小さく震えているのがわかる。

(早く、治まれ……)

 大きく深呼吸して、まるでフラッシュバックのように頭の中に流れる映像の洪水を、箱の中に押しこめる。厳重に鍵をかけて、そしてその箱を記憶の海の奥底に沈める。
 気づかれてはいけない。そうでなくても、フレンはユーリに関することには恐ろしく勘が良いのだから。
 そう、絶対に知られてはいけないのだ。
 自分がフレンに触れられることを恐れているなんて、絶対に悟られるわけにはいかなかった。
 

 
 今でも時々夢に見る。まるで悪夢のようだった、あの時のことを。
 真夜中すぎ、なんの前触れもなくやってきたフレンはその時からすでに様子がおかしかった。酷く苦しそうで、真っ直ぐ体を支えられないような様子のフレンに、ユーリはとにかくベッドまで運ぼうと手を差し伸べた。
 その手を逆に強く引かれてもろともに床に倒れこんだときも、まだなにも疑っていなかった。様子がおかしいと気がついたのは、そのまま床に押さえこまれて無理やり唇を重ねられてからのことだった。
 驚きに抵抗することも忘れたユーリの唇を貪りはじめたフレンの手が、無理やり引き裂くようにしてユーリの服をはぎ取りはじめたときも、まだなにかの間違いだと思っていた。
 ようやく逃げなくてはならないと本能が警鐘を鳴らし始めたときには、もう遅かった。
 どれだけ抵抗しても、どれだけ罵倒しても、フレンの動きはとまらなかった。無理やり絶頂に導かれ、自分でさえほとんど触れたことのない場所を遠慮なく舐められ、暴かれた。
 押しつけられた熱に必死に這って逃げようとした体を引きずり戻され、そのままなんの加減もなく突きあげられた。
 痛みと混乱に取り乱して泣き叫んでも、熱に濁った青い瞳はそんなユーリをまるで獲物を見るような目で見つめていた。引き裂いて喰らうのが当たり前だというように。
 何度中に吐き出されたのかも、何度無理やりいかされたのかも覚えていない。プライドもなにもうち捨てて泣き叫び哀願しても、何度も無理やり引き裂かれた。
 陵辱という言葉がこれほどふさわしい交わりもなかっただろう。ユーリの意思も尊厳もなにもかもが踏みにじられ、粉々に打ち砕かれた。最後には罵倒する言葉もなく、まるで子供のように泣きじゃくった。だがそんなユーリをフレンはただ熱に浮かされたような瞳で見下ろしているだけで、なにも応えてくれなかった。
 意識が戻ったのは、夜の明けるすこし前のことだった。
 あの時、フレンよりも先に自分の意識が戻ったことは、奇跡に近かったと思う。床の上に折り重なるように倒れたままだったフレンの下からはいずり出ると、ユーリは痺れたように動かない足でなんとかバスルームまで這っていくと、床にへたり込んだままシャワーのコックを捻った。
 温かい湯が痛めつけられた体を優しく温めてゆく間、ユーリは少しだけ泣いた。そしてバスタブにもたれるようにしてシャワーに打たれながら、昨日この部屋にやってきた時のフレンのことを思い出していた。
昨日のフレンの様子はあきらかにおかしかった。その途端、あの行為の最中ずっとむけられていた熱に浮かされた目を思い出して、ユーリは自分の体を自分の腕で抱きしめた。
 ひたすら愛情もなくただ欲の対象としてだけ見られることが、あんなにも怖いことだとは思わなかった。それも、心の底から信じていた親友に。
 もちろんあれがフレンの本心だとは思わない。あきらかに常軌を逸していたあの行動は、何か別の要因があったからこそだろう。
 フレンには敵が多い。おそらく、何らかの薬を盛られたに違いない。それもたぶん、かなり強力な媚薬系の。
 相手が何を期待してそんな薬をフレンに盛ったのかは想像したくもないが、彼自身が目当てであれ薬に理性を失って失態を犯すことを期待したのであれ、悪趣味であることにはかわりない。
 問題は、フレンがこのことを覚えているのかどうかだ。
 あの手の薬は強力なものになると、意識が完全に飛んでしまうものが多い。よしんばわずかに何かを記憶していたとしても、痕跡を消してしまえば気がつかれないのではないだろうか。
 シャワーの水滴が、ユーリの体に沿って流れてゆく。
 もし昨日のことをフレンが知ったら、彼はきっと深く傷つくだろう。自分の意思でなかったとはいえ、親友である自分を無理やり犯したことには変わりないのだから。
 ユーリはバスタブにもたれたまま自分の後に手を伸ばすと、痛みを訴える入口に自分で指を入れた。開かれたそこから、どろりとしたものがこぼれ落ちる。それは後から後からこぼれ落ちてきて、いったいどれだけの量を吐き出されたのかわからないほどだった。
 それでもなんとか後始末をすませて体を清めると、ユーリは痛みに悲鳴を上げる体を引きずって部屋に戻った。
 新しい服を二組だし、まず自分が着替える。そして濡らしたタオルでざっとフレンの身体を拭い、苦労しながらなんとか着替えさせると、ベッドの上に引きずりあげた。
 窓を開くと、まだ夜明け前の湿った冷たい空気が部屋の中のこもった空気を浄化してゆく。
 ようやく息をつけるようになって、ユーリはいつものように窓枠に腰をおろそうとしたが、体がふらついてそれはかなわなかった。
 ベッドの上に見えるフレンの金色の髪を見つめながら、しかたなく窓の下の壁にもたれかかるようにして床に座った。
 いつもなら狭くてもベッドで一緒に寝るのだが、いまはとてもそんな気持ちになれそうにない。
 ユーリは片膝を抱き寄せると、その上に頬をのせた。
 もしフレンがなにも覚えていなかったら、今日のことは永遠に口にしないだろう。自分の体の痛みよりも、フレンがこのことで傷つく方がユーリにとって何百倍も辛いことだからだ。
 ぼんやりと部屋の中を見つめる目が、なぜか熱くなってくる。視界がぼやけて、頬を突いている膝が熱く湿ってくる。
 自分が泣いているのだと気がつくのに、少し時間がかかった。それほどまでに、今のユーリは疲れ切っていた。
 フレンが目覚めたのは、昼過ぎのことだった。
 予想通りというか、フレンは昨夜のことをまったく覚えていなかったようだった。それどころかなぜここにいるのかもわからなかったようで、ユーリは笑いながら酔っていたんじゃないかとからかった。
 フレンはどうにも納得がいかないようだったが、最終的にはしぶしぶながらもユーリの言葉を受け入れたようだった。
 慌てて城に戻ってゆくフレンを見送った後、ユーリはベッドに倒れこんだ。フレンの匂いが残るベッドに一瞬自分のからだがびくりと反応したことに気がつき、苦い笑みを浮かべる。
 たぶん元のように無邪気に触れあうことは、もう出来ないだろう。だけどその理由をフレンに悟られてはいけない。
 幸いもともと自分はそうスキンシップが激しい方ではないから、徐々に離れていけばなんの問題もないだろう。
 このことはユーリだけの秘密だ。それでよかった。



「随分長かったね」

 バスルームから戻ると、すでに綺麗に割れたグラスも片付けて新しいグラスを用意していたフレンが、ちょっと不満そうにそう言った。

「意外と酒の染みって落ちないもんだな」
「君がそんなに神経質だったとははじめて知ったよ」

 何が不満なのか軽く拗ねているらしいフレンにちょっと目を瞠ると、ユーリは一息ついてからぐしゃりとフレンの前髪を乱暴にかき混ぜた。

「な〜にガキみてえに拗ねてんだよ。放っておいて悪かったな」
「別に、僕はそんなつもりじゃ……」
「はいはい、わかっていますよ」
「ユーリ! ちゃんと聞いているのかい?」

 必死に言いつのるフレンを軽くいなしながら、新しいグラスに酒を注ぐ。そして一気に呷った。

「ちょっとユーリ、そんな無茶な飲み方をして!」
「いいんだよ、ちょっとそうやって呑んでみたかったんだから」

 ニヤリとからかうように笑うと、まったく君はとぶつぶつ呟きながら、フレンも自分のグラスを呷る。
 かすかに動く喉元を軽く目を細めて見つめながら、ユーリはかすかに唇の端をあげた。
 秘密はもう一つある。
 あの朝、膝を抱えて泣いたのは、あの夜のことが辛かったからなだけじゃない。
 それはユーリにしても、まったく自覚のなかったことだった。
 それにしても、どうしてあんな時に気がついてしまったのだろう。いや、あんな時だったからこそ気がついたと言うべきなのか――。
もしあんな形ではなくフレンに求められたのなら、きっと自分は喜んで受け入れていただろうということに。
 あの時、ユーリは初めて自分の心の奥底にあった思いに気がついたのだ。自分は、フレンが好きなのだ。
 だけどもうその想いを告げることは、永遠にかなわないだろう。
 好きなのに、すこし触れられただけでもあの時の恐怖を思い出して怯えてしまうのだ。体が。
 こんなにも心は触れて欲しいと願っているのに、一度恐怖を植え付けられた体はフレンを拒絶する。だけどそれがどうしてなのか、説明することは永遠に出来ないだろう。
 こんなにも好きなのに、手を伸ばすことも想いを告げることも出来ない。
 おそらくフレンが自分にそういう意味での好意めいたものをもっていることにも、ユーリは気がついている。だけどユーリはわざとそれをはぐらかしている。
 受け入れてしまえば、余計にフレンを傷つけてしまうことがわかっている。だからユーリは自分の想いにも鍵をかけて、心の海の中に沈めた。



 秘密は秘密を呼ぶ。
 それを秘めておくのがどれほど苦しくても、この秘密はユーリの心の中で朽ち果てるままにしなくてはならないのだ。
 心の傷跡は、まだ血を流している。
 だけどその傷が癒えることは、きっと一生訪れない。
 秘密が秘密である限り。




END(09/05/05)