静止する世界




「青年、お邪魔してもいい?」

そう口で許しを請いながらもすでに部屋の中に入ってきているレイヴンに、ユーリは呆れた目を向けた。

「入ってきてから言うなよな……」
「まあまあ、細かいこと気にしないの」

レイヴンは返事を待たずにずかずかと部屋に入ってくると、そのままベッドに乗ってきた。

「……おい」

さすがにユーリは眉をひそめたが、レイヴンは気にすることなくユーリに迫るように体を寄せてくる。

「してもいい?」

下から上目遣いに見あげてくるレイヴンに、ユーリは大きく口を開きかけてからすぐに諦めたように肩をすくめた。

「ダメって言っても諦める気ないんだろ」
「ご明察」
「……明日に影響するようなのは勘弁だからな」
「鋭意努力します」

にへらと気の抜けるような笑みを向けられて、ユーリは諦めたようにのしかかってくるレイヴンを受け入れた。とはいえ、ユーリの方も最初から撥ね付ける気はなかったので、お互い様といえばそれまでなのかもしれない。
なにしろ明日からは、この星の命運を決めるための戦いに赴くのだ。いまさら怖じ気づくことはないが、すこしばかり感傷的になってしまうのは否めない。なにしろ、もし成功したとしてもこの世界は間違いなく劇的に変わる。そう思うと、なにか確かなものに触れてみたくなるのが人というものだろう。

「青年。お願いだから、あまり無茶をしないでね」

キスをした後にいつものようにそう言われて、ユーリは思わず苦笑した。

「そりゃ無理な相談だな、おっさん」
「なんでよ」

むうっと子供のようにくちびるを尖らせたレイヴンに、ユーリは当たり前だろうと切り返した。

「全力で行かなきゃあいつを止められるわけねえだろ。無理するなって方が無理だ」

あいつという言葉に、レイヴンはそうだわねと諦めたように呟く。あのデュークを止めるのに全力を出さないわけにはいかないのは、レイヴンだって良くわかっているはずだ。
それに、この無茶をするなという一言は、レイヴンの口癖みたいなものだ。
レイヴンは、事あるごとにユーリに無茶をするなと言う。もっとも、たしかに自分が無茶をする質だという自覚はあるので、レイヴンが口うるさく言うのもわからないではない。
それに、確かに口うるさいとは思っているが、そうやって心配されるのはまんざらでもなかった。



額に頬に軽くキスをしながら、レイヴンはユーリの帯を解いてゆく。
その手慣れた動きを見ながら、はたしてその慣れ具合が自分と寝るようになってからのことなのかそれともそれ以前のからなのか考えかけて、やめる。そんなふうに考えるのは、なんだか自分がレイヴンの過去に嫉妬しているようで気恥ずかしい。

「どしたの、青年」

額をあわせるようにして覗き込んできたレイヴンと、視線が合う。それに曖昧に笑ってみせると、ちょっとだけ探るような色が目に映り、だけどそれ以上はなにも言ってこなかった。
こういうところが肌に合うのだろう、この男とは。ユーリは自分の衣服を乱してゆく男を見あげながら、ぼんやりと思う。
レイヴンは、ユーリが絶対に触れて欲しくないところには触れてこない。もっとも、それが重要なことに繋がるときは別だが。とにかく痒いところに手が届くというか、ユーリの性格をよく呑みこんでいる。手を出してくるときも絶妙なタイミングで手を出してくるので、どうにも拒みづらい。
もっともユーリはどちらかといえば快楽には素直な方なので、レイヴンの手を拒むことはあまりない。同性同士だということや高いはずの自分の矜持も、なぜかレイヴンが相手の時はするりと頭の中から抜け落ちてしまうことが多い。
戯れのように、何度も軽く唇が重ねられる。その間にもレイヴンの手は休むことなくユーリの体の線をたどってゆく。
そうやって何度も羽根が触れるような淡い接触がくり返された後で、まるで堰を切ったように激しく口づけられる。
その一瞬が、ユーリは好きだった。
普段から飄々として容易に真実を見せないレイヴンの、余裕のない瞬間。もしかしたら、自分がレイヴンに抱かれるのが好きなのは、彼のこんな一面が見られるからなのかもしれない。

「ねえ青年。本当にくどいようだけど、今回は絶対に無茶はしないでね」

キスの合間に何度もくり返される言葉。それに上の空で相づちを打っていると、咎めるように髪を引っ張られる。

「おっさん、本気よ。青年は後先考えないで無茶するんだから」
「はいはい」
「ユーリ君」
「……仕方ねえだろ、体の方が先に動くんだから」

なぜか今日に限ってしつこいレイヴンに、少しうんざりしながら答える。すると、普段は明るい緑の瞳が不機嫌そうに細められる。

「……体に教えた方が早いのかしらね」
「物騒なこといってんなよ、おっさん」

つかンなことされる前に返り討ちにしてやると低く呟けば、深いため息がかえってくる。

「ユーリにもしもの事があったら、おっさん生きていられないから」
「ンなこといっているおっさんこそ、死に急ぐなよ」

特にあんたは前科があるからなと耳を強く引っ張ると、いててと大袈裟に痛がる。

「おっさんはいいのよ、もう死なないから」
「なんだよ、その無駄な自信は……」

あっさりとそう言いきるレイヴンに、ユーリは思わず呆れた目をむけずにはいられなかった。たしかにレイヴンの実力はユーリもわかっている。だがそれにしても随分と断定的ではないか。

「俺さまには勝利の女神さまがいるからね」
「……キモイ」
「ひどっ!」

まるで鼻面を殴られでもしたかのような悲痛な顔になったレイヴンに、ユーリはわざと大きな音を立ててため息をついた。

「あのなおっさん。明日、俺らはなにがなんでもデュークの野郎を止めなきゃなんねえ。それができなきゃ、どっちにしてもこの世界とはさよならだ。……だから、無茶すんなとかいわれてもそりゃ絶対に無理だ」
「……だったら、一つだけ約束してよ」
「ん?」

ふと真顔に戻ったレイヴンに、ユーリは大きく瞬きをした。そんなユーリの瞳を覗き込むようにして、レイヴンが囁く。

「絶対に、死なないでくれ」

いつもの軽い調子とはうって変わった声色に、ユーリは思わず大きく目を見開いた。

「レイヴン……?」
「……なんてね」

思わず訝しむような声で名を呼ぶと、まるで薄氷がくだけるようにレイヴンはいつもと変わらないへらりと気の抜けた笑みを浮かべた。

「どうせ勝つつもりなんでしょ、大将は」
「負けないつもりならあるぜ」
「同じ事でしょ」

レイヴンはおかしそうに喉の奥で笑うと、まだ怪訝そうな顔をしているユーリに軽く口づけた。
それが合図のように、体の上を滑ってゆく手が先ほどまでとは違う強さで体を探ってゆく。上手く誤魔化されたような気がしないでもなかったが、ユーリの方もすでに余裕が無くなりはじめていた。
いまは少しでも長く、この確かなものに触れていたい。
ただそれだけを思っていた。




世界中から集まってくるエアルをその手に捧げ持ちながら、ユーリはぎりっと唇を噛みしめた。
長く辛い戦いが終わり、後は星喰みを砕くだけなのに、その力があと少しだけ足りない。
せっかくここまできたのに、と思う。
別の方法でこの星を救おうとしていた男を説得し、どうにかしてこの星と人の未来を切り開くためにここまで来たのに、星喰みを打ち砕くための刃はわずかに届かない。
どうすればいいのだろう。
ユーリは一瞬、地上にいる親友の顔を思い出した。自分を信じすべてを委ねてくれた、かけがえのない親友。
ずっとユーリが守りたいと願っていた、下町の人々。
すこし視線を動かすと、こちらを固唾を呑んで見つめている仲間たちの顔が見える。
その一人一人の顔を視界にとらえながら、ユーリは最後にレイヴンの顔に視線を止めると唇の端をかすかにあげた。
こちらを見ているレイヴンの目が、こぼれ落ちそうなほど大きく見開かれる。
このまま手をこまねいていても、何も変わらない。どのみちここで星喰みを砕かなければ、この世界はやがて星喰みに蝕まれて滅びる。どちらにしろ、選択肢は一つしかないではないか。
罪悪感なんて、欠片もなかった。
どちらに転んでも死ななければならないのなら、満足できる死の方がずっと良い。たとえそれが利己的な判断だと言われたとしても、それで大切な人たちが助かるかもしれないのなら、それこそ本望だ。
生きて欲しいと思える相手がいることは、こんなにも幸せなことなのだとあらためて思う。自己犠牲に酔うほど青臭く感傷的なつもりはないけれど、自分の命と引き換えに大切な誰かが守れるのなら、それはとても幸せなことなのだと。
レイヴンの唇が動き、自分の名前を象る。
あの声で名前を呼ばれるのが、好きだった。
普段の軽い調子で呼ばれるのも、二人きりの濃密な時間に囁やくように呼ばれるのも、どちらも大好きだった。
だから、最後に聞く声はこの声が良い。
そう思った途端、するりと意識がほどけるのがわかる。
意識だけではない、身体もほどけてすべての境が曖昧になってゆく。
痛みのない、光の歓喜。そのすべてに身を委ねただ一つの刃になるために、ユーリは静かに目を閉じた。


――そしてその瞬間、世界は止まった。



* * * *




巨大な光の柱があと少しで天に届こうとしているのを冷めた目で見あげてから、レイヴンは普段と変わらない足取りでユーリの傍らにやってきた。

「相変わらず嘘つきだわね、青年は……」

笑うのに失敗したような表情で唇の端だけをあげると、レイヴンはもう半ば輪郭が溶け始めているユーリの頬にそっと指を伸ばした。
触れた頬には、もうすでにいつものような柔らかでしなやかな弾力はない。強く押せば弾けてしまいそうなほどに脆い輪郭をなぞりながら、レイヴンは目を細めた。

「なんでいっつも青年は、そっちを選んじゃうのかね……」

ため息混じりの声に、返る声はない。
声だけではない。いまこの世界からは、あらゆる音が途絶えている。レイヴンの音だけを残して。

「前も、その前も、そのもっと前も……。どうしてお前さんは、そっちを選んじゃうのかねえ」

疲れ切った声でそう呟くと、レイヴンは自分の心臓の上を押さえた。

「まあ、その度に何度も時を止めちゃう俺さまも、たいがいなんだけどね……」
服の上からでもわかるくらいに怪しい点滅をくり返している心臓を押さえながら、レイヴンは薄く笑みを浮かべた。
あの瞬間の絶望は、いまでもよく覚えている。
星喰みを砕くためにはあと少しだけ足りない力。誰もが一瞬、崩れ落ちそうなほどの絶望を覚えた。
そんな中で、ユーリだけがふとその瞬間微笑んだのだ。
そのあまりに美しい笑みに一瞬目を奪われた後、すぐにレイヴンはその笑みの意味を悟り叫んだ。そのとき自分が何を叫んだのかは、もう覚えていない。もうずっと前の話だからだ。
怖いくらいに美しい白光の中に溶けてゆく、一つの影。
そしてその影が完全に形を失うその瞬間に、レイヴンは彼自身のすべてをかけて願ったのだ。
時よ止まれ、と。
わずかながら時間に干渉できる魔力を持っていたことが幸いしたのか、それとも祈りが通じたのか、その瞬間に世界は止まった。だけど、それだけのことだった。もしこのまま再び時が動き出せば、ユーリは今度こそ完全にこの世界から失われる。
時間を戻せたらと思ったのは、触れれば砕けてしまいそうなほどに曖昧な存在になってしまったユーリの傍らに座り続けて、どれくらいたってからのことだっただろう。
時間を戻してもう一度やり直せたら。ユーリが自分の命をかけないですむように、もっと最初からやり直せたら、どんなにいいだろうか。
それは神の、そしてこの星の意思に逆らう所業だということはわかっている。でも願わずにはいられなかった。
時よ戻れ、と。
この先に自分が生きる時間がなくなってもかまわない。それでユーリが生きることが出来るのなら、引き換えに自分がいなくなってもかまわない。
半分死んでいた自分に、生きて欲しいと思える相手がいる幸せを思い出させてくれたのは、彼なのだから。
レイヴンはユーリの頬をたどっていた指を止めると、そっと顔を近づけた。
消えてしまいそうに輪郭の薄い唇に、唇を重ねる。そして、その軽すぎる感触に気づかないふりをしながらそっと唇を離すと、その距離で小さく呟いた。

「それじゃあ、またね青年」




――そして、願いは叶えられる。



* * * *




隣の牢の扉が乱暴に閉められる音に、レイヴンはそっと目を開いた。
湿った黴と冷たい石の匂い。寄りかかった背に感じられる冷たい感触に、『戻ってきた』ことを実感する。
もう、数えるのも飽くほどくり返されるはじまり。
あの日。気がついたらこの牢に戻っていた時は、いったい何が起こったのかすぐにはわからなかった。
戻った気がついたのは、壁の向こうから聞こえた小さなうめき声によってだった。その瞬間の、胸の奥底からこみ上げてきた震えがくるような驚きを、今でもレイヴンは覚えている。
それが、この終わらない地獄と天国を一緒に味わうような閉じられた時間のはじまりだとは、その時のレイヴンには思いもよらなかったことだったけれど。


さあ、またあの悲劇にむかって時間が動き始める。
今度こそユーリを時間の向こう側に送り出すための、長くて短い時間が。
だけどそれが苦しいのか幸せなのか、もうレイヴン自身にもわからなかった。



END
(09/08/07)



時間ループネタ