カノン・15




「終わりましたか?」
 部屋に入るなり平然とした顔で訊いてきたジェイドに、アッシュは不快げに顔をしかめた。
「そうでなけりゃ、テメエを部屋に入れるわけねえだろう?」
 自分の視界からルークを隠すようにして立ったアッシュに、ジェイドは唇の端をかすかにあげた。
「話なら、テメエの部屋で聞く」
「いえ。できればここで。そんなことをしたら、また逃げられる可能性が高いですからね」
 途端に、アッシュが苦虫を噛みつぶしたような顔になった。たしかに理屈ではそうとわかっているのだが、情事のあとのルークの顔をジェイドにさらすことになるのが気に入らなかった。
「……それに、少し診させていただいた方がいいかと思いまして」
「……」
 反射的に否定の言葉を発しようとして、アッシュは忌々しげに小さく舌打ちした。認めたくはないが、たしかにいま目の前にいる男はフォミクリー技術の生みの親であり、レプリカ研究の第一人者でもある。
 気はすすまないが、いまのルークの状態を正確に診断するのには、彼以上の適任者がいないのも確かだった。
 無言のまま体を引いたアッシュに一度視線を向けてから、ジェイドはルークの眠るベッドへと歩み寄った。
 先ほどよりも赤みのさした顔をのぞき込んで脈を取ろうと手を取り上げ、その手首に残る生々しい赤い跡に、かすかにジェイドの表情が動く。
「暴れられるのが面倒だったからな」
 その様子に気づいたがアッシュが、背後から答える。
「そうですか……」
 ジェイドはルークの手首に残る赤い跡をそっと撫でてから、脈を測りはじめた。
「なにか、言いたいことはねえのか?」
 ひととおり軽い診察をすませてこちらをふり返ったジェイドに、アッシュは部屋に備え付けてあった小さなテーブルセットに腰を下ろしながら声をかけた。
「特には」
「ずいぶんと平然としているな」
「ガイだったら、もう少し別の反応をしたかもしれませんね」
 そう言いながらも、こちらを見るジェイドの赤い瞳にかすかに硬い色が混じっているのを見て取って、アッシュは小さく喉を震わせた。
「……今度は、どれくらい保ちますか?」
 しかしジェイドはそんなアッシュの挑発するような態度にはのらず、ルークの側を離れると、アッシュの向かいに腰を下ろした。
「五日……、いや四日くらいだな。補充が上手くいかなかったから、間隔が短くなっていると思った方が良い」
 アッシュは先ほど抱きあげたルークの体の軽さを思い出しながら、眉根を寄せた。
 抱くことでかなりの音素を分け与えはしたが、それでも後始末のために抱き上げて浴室まで運んだときも、ルークの体はいつもよりもずっと軽かった。


「それで、この先どうするつもりですか…?」
「どうするもなにも、今まで通りだ」
「ルークに知られてしまった以上、そういうわけにはいかないでしょう?」
 翡翠の瞳が強い色をたたえて睨みつけてくるのを受け流しながら、ジェイドはトンと指でテーブルを叩いた。
「あの子は、誰よりも自分が他人の負担になることを恐れています。まして、あなたへはもともと強い負い目がある。今のこの関係を維持しようとしても、ルークの方で強く拒むでしょう。まさか、前のように閉じこめて飼い殺しにするわけにもいかないでしょう……?」
「……貴様」
 ジェイドの言葉の端々に含まれた棘に、アッシュは苦い顔をした。
「あなたは先ほど私がなにも感じていないような事を仰いましたが、とんでもない。もし状況が許せば、あなたの息の根を止めたいと一瞬考えたくらいには、きていますから」
 そう平然とした声色で言い切った男の赤い瞳が、笑みの形を作っていてもまったく笑っていないことに気付く。
 まったく、これだけ難しい男にこんな顔をさせることができる自分の半身に、アッシュは感心しながらも、当然のことながら楽しい気分になれるはずもなかった。
「たとえば、定期的に第七音素の濃度が通常よりも高い場所ですごすとか、そういうわけにはいかないのですが?」
「プラネットストームが閉じられているからな。地上自体に第七音素が不足しているし、仮に大量にある場所に連れて行っても体内に直接取り込めるわけじゃねえ。音素乖離を緩やかにする程度しか効果はないだろう、とローレライの奴は言っていた」
 ジェイドは何かを思案するような顔になると、軽く眼鏡を押さえた。
「……アッシュ。あなたは、なにか他にも大事なことを隠していませんか?」
「なんのことだ?」
 怪訝そうに眉間に皺を寄せたアッシュに、ジェイドは視線をそらすことなくじっとその瞳を見かえした。
「ルークのオリジナルらしく、あなたもどちらかと言えば直情的な行動が目立ちますが、本来は慎重な方だと思っています。そのあなたが、ルークをこちらに引き戻す際にあらゆる可能性と方法を、ローレライに確認しなかったわけがない」
「……さっきのつまらねえ質問は、その確認か」
 音を立てて舌打ちしたアッシュに、ええまあとジェイドはあいまいに答えながら唇の端をひきあげた。
「単なる勘でしたが、あなたがルークと同じように非常に素直な方で助かりました」
「だから俺はてめえが嫌いだ……」
 心底嫌そうにアッシュが顔をしかめると、ジェイドはますます笑みを深めた。
「それで、私に話してくださった以外にルークが助かる方法はあるのですか?」
「……全くないわけじゃねえ」
 少し言いよどんでから、苦り切った表情でアッシュが呟く。
「ただ、それにはローレライの野郎を呼びだす必要がある。具体的に何をすればいいのかまでは、聞かなかったからな。それともう一つ、理由を言えばおまえもどうして俺がその方法を選ばなかったのかわかるはずだ」
「なんでしょう?」
「その方法を選べば、たしかに俺たちの間にある依存関係はなくなる。だが、成功する可能性は、俺が譜歌とローレライの鍵を使ってあいつをこっちに引き戻したときよりもずっと低い。もしかしたら、そのまま音素乖離を引き起こして消える可能性もある」
 アッシュは一度言葉を切ると、さらに表情を険しくした。
「……それに、もし成功しても、あいつも代償を払うことになる」
「代償?」
「意味はわからねえが、ローレライはその方法であいつを蘇らせた場合は、人間でもなければレプリカでもない存在に変質すると言っていた」
「レプリカではなくなる……?」
 ジェイドの形の良い眉が、怪訝そうにひそめられる。
「意識集合体のようなものになる、ということなのでしょうか?」
「わからねえ。だが、ローレライみたいな意識集合体とはまた違うらしい。問題は、そのことによってあいつ自身のアイデンティティが侵される恐れがあることだ」
 アッシュは難しい表情のまま、テーブルの上で組んだ自分の指を見た。
「おまえなら感じていたと思うが、あいつの主体性はとても不安定だ。最後の最後でやっと自分自身という答えにたどり着いたが、それでも自分自身の存在って奴に疑問を持っている。誰よりも人間に近いレプリカだからな」
 それは、常々ジェイドも感じていたことだった。
 ルークは自分をレプリカだとことあるごとに口にしていた。それを仲間達は卑屈な心が言わせていると言っていたが、ジェイドにはルークがまるで自分自身に言い聞かせているように聞こえることがあった。
 あの戦いの旅の最後の方では、ルークはレプリカである自分と折り合いをつけているようにも見えたが、七年間人間として育ってきた意識を急に切り替えろと言うのも無理な話だ。
 もちろんルークはきちんと自分がレプリカであることを受け入れているし、その自覚もある。レプリカであることを嫌悪しているわけでもない。それでも、無意識下では、今まで思っていた自分と違う自分に戸惑っていた。
「大爆発を起こして融合しかけたとき、ほんの少しだけだが意識があいつと混じった」
 はっとしたように目を瞠ったジェイドに、アッシュは複雑そうな顔をした。
「だから、俺には選べなかった……」
 たった一人、人間でもレプリカでもない存在に弾かれてしまう運命を強いることの、その残酷さがわかってしまったから。
 孤独を恐れる子供の心を知ってしまったから。
 だから、自分を犠牲にすることがわかっていても、あの方法でルークを生き延びさせることをアッシュは選んだのだ。


 重い沈黙が落ちる。
 どの手段を選んだとしても、結局はあの子供を傷つけずに生かすことはできないのだ。
 それでも、生きていて欲しいと思うのは自分たちのエゴなのかもしれないが、一度戻ってきた大切な命を手放すことなんてできるはずもない。
 だが、事実が露見してしまった今、これまでのようにアッシュから音素を搾取して生き延びる道をルークが承諾するわけがない。傷つけることはわかっているが、これからも無理矢理にでもねじ伏せて生き延びさせるより他はない。
「……あなたは、ルークを過小評価していませんか?」
 そんなアッシュの思考を読んだように、ジェイドは冷ややかな声を出した。
「たしかにルークは、私たちと違うということを無意識下で恐れています。しかし、彼にはそれを乗り越えられるだけの強さがあります」
「そんなことは、わかっている」
「でしたら、ルークにも選択権を与えるべきだと思いませんか?」
 訝しげに細められた瞳を見つめ返しながら、ジェイドが続ける。
「どんなに可能性が低くても、別の道があるのならきちんと説明するべきです。事は、彼自身の生命に関わることなのですから……。あなたはすでに選択をすませた。今度はルークにも同じように選ぶ権利を与えるべきです。これは、あなたの生命に関わることでもあるのですから」
「だが…」
「いまは平気でも、将来にむかってあなたが疲弊してゆくのは目に見えています。このままでは共倒れになるだけです」
 もっともな意見に、アッシュは小さく唇を噛んだ。
「……でもまあ、もし私があなたの立場だったら、同じ選択をしていたと思いますがね」
 苦笑混じりの声に、翡翠色の瞳が驚いたように大きくなる。その表情を見て、ジェイドは内心苦笑いした。普段はあまり感じないが、こういう表情を見せられると、アッシュがルークのオリジナルなのだということを再認識させられる。
 アッシュは目を閉じてしばらく考えこむような顔をしていたが、やがて深い溜め息を一つもらした。
「どちらにしても、酷い選択を強いることになるわけか」
 ジェイドは返事を返さなかった。
 分かり切った答えを返すつもりはなかったし、不用意に口を開けばもっと酷いことを口にしそうな自分がいることも、わかっていた。
「それで、ローレライを呼びだす必要があると仰っていましたが、具体的にはどうするのですか?」
 暗い思考を振り切るように、ジェイドは口を開いた。
「タタル渓谷に向かう。あそこはなぜか繋がりやすいみたいだからな」
「今からですか?」
 すでに陽は完全に落ちている。夜の渓谷は、安全とは言い難い。夜明けまで待つべきではないか、と暗に言外に含ませたジェイドに、アッシュは首を横に振った。
「急いだ方がいいと思う。なぜかわからねえけどな…」
「単なる勘だけではなさそうですね」
 ジェイドは軽く眼鏡を押さえながら、小さく肩をすくめた。
「私も同行させていただきます。不測の事態が起こらないとは限りませんから」
「勝手にしろ」
 これで話はすんだとばかりに苦々しい口調で答えたアッシュに、ジェイドはいつものようなどこか得体の知れない笑みで応えた。


 その数刻後、彼らを乗せた銀色の翼は、はじまりの場所へと向かって飛び立ったのだった。



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説明をさらっとするのが上手くなりたいorz。