カノン・16




 体を大きく揺さぶられる感覚に意識が浮上したのを感じて、ルークはゆっくりと目を開いた。
 急速な覚醒に頭の芯がじんと痺れたような痛みを伝えてくるのに思わず呻くと、そっと誰かの手がいたわるように頭を撫でてくれる。
 その優しい感触に思わずうっとりと身をゆだねかけて、ルークはハッとしたように大きく瞬きをした。


「気がついたか」
 とっさに状況がのみこめずにいるところに、頭上からよく知った声が降ってくる。その声に弾かれたように視線をあげると、真上にアッシュの気むずかしげな顔があった。
「……あっしゅ…?」
 不意にフラッシュバックを起こしたように、気を失う前までの記憶が戻ってくる。途端に体を強ばらせたルークに、アッシュは苦い表情を浮かべた。
「今は、なにもしねえよ……」
 かすかに唇の端をあげたその表情が傷ついたように見えて、ルークは思わず目を瞠った。
「ごめん……」
「なんでテメエが謝る」
 ぎゅっと指の先に当たるものを咄嗟に握りしめて、それが薄い毛布であることに気がつく。しかしそれにしては、背中に当たる感触がベッドよりも硬く感じることを不審に思って視線を巡らせたルークは、アッシュの背中ごしに見える景色が宿屋の部屋の天井ではなく、大小の配管がいくつも走っている金属の天井であることにいまさらのように気がついた。
「…え?」
 慌てて体を起こした拍子に軽い目眩をおこして倒れかけた上体を、アッシュの腕が受けとめる。その時になってはじめてルークは自分が宿屋の一室ではなく、見慣れたアルビオールの中にいることに気がついた。
「寝ている間に運ばせてもらった。起こしてからだと、色々面倒そうだったからな」
 まだ状況を把握できていないルークに、面倒くさそうにアッシュが言う。もちろんそれだけで理解しろと言う方が無理な話で、いっそう混乱しはじめたルークの耳に小さな溜め息の音が響いた。
「……ジェイド?」
 顔をあげると、アッシュの後ろの席からこちらをのぞき込んでいたジェイドの瞳と視線があった。
「体の方は平気ですか?」
「あ、うん……」
 ぼんやりとそう答えてから、すでに彼にはすべて知られてしまっていることを思い出し、自然と顔が赤らんでゆくのを感じる。
「混乱しているのはわかりますが、手短にお話しします。私たちはいまタタル渓谷へ向かっています」
「タタル渓谷?」
 意外な場所の名前があがったことに、ルークは思わず鸚鵡がえした。
 アッシュに捕まった時点で、強制的にバチカルに連れ戻されるものだとばかり思っていたからだ。
「あそこで、ローレライの奴を呼びだす」
 ジェイドの言葉を引き取るようにして、アッシュが言う。
「ローレライを?それって……」
「もしかしたら、別の方法があるかもしれないそうですよ」
 口を開きかけたアッシュを制するように、後ろからジェイドが口をはさむ。そんな彼に、アッシュが肩越しに鋭い視線をむけるのが見えた。
 しかし、ルークにしてみればそれどころではなかった。
「別の方法って……!本当か?」
 アッシュに支えられたまま下から見あげるようにして問うと、なぜか苦虫を噛みつぶしたような顔で無言のままアッシュが頷く。疎ましげにも見えるその表情に、ルークは戸惑いながらも自分の顔が強ばってゆくのがわかった。
 今度こそ、本当に嫌われたのかもしれない。そんな考えが瞬時に胸を塞ぐ。
「ルーク。アッシュはあなたに対して怒っているんじゃないんですよ」
 苦笑混じりのジェイドの声に、ルークは救いを求めるように視線をあげた。
「私から説明させてもらっても?」
「……勝手にしろ」
 不機嫌さを隠そうともしないアッシュの声に思わずびくりと反応すると、小さなため息とともに抱きしめられた。
 その腕の優しさに、戸惑う。
「では、手短に説明します」
 嬉しいのか困っているのか自分でもわからなくなっているルークを見透かしたように、ジェイドは一瞬だけ優しく瞳を細めると、すぐにいつもの一応おだやかに見えなくもない表情へと戻った。
「アッシュが言うには、あなた方がいま行っている延命の方法以外に、もう一つあなたが助かる道があるそうです」
 自然と指がアッシュの服を強く掴む。
「ただし、そちらにも問題がないわけではありません」
「……問題って!まさかこれ以上アッシュへの負担が増えるわけじゃねえだろうな」
 もしそうなら、今度こそ絶対に拒否すると訴えた瞳に、ジェイドが苦笑するのが見えた。
「まだ詳しいことはわからないので断定できませんが、アッシュよりもあなたへのリスクの方がはるかに高い方法であることは確かです。それと、きわめて成功率の低い方法であることも」
「そんなことはどうでも良い。その方法なら、今みたいにアッシュから音素を奪うことはないんだよな?」
「おそらく」
 ちらりとジェイドの瞳がアッシュの方へむけられ、それに応えるように怒ったような顔が小さく頷く。
「アッシュ…、本当なのか?」
 すぐ近くにある顔をのぞき込むと、苛立ったように小さな舌打ちが返された。
「わからねえから、ローレライの奴を呼びだしに行く。詳しい話はそれからだ」
 低く答えたその声の中に、ルークは小さな引っかかりを覚えた。
 嘘ではないけれど、なにか隠し事がある。
 帰ってきたばかりの頃にアッシュが自分に嘘をついたときのように、なにか硬くて冷たいものがそこにあることに気付いてしまう。
 答えを求めるように視線をあげて赤い瞳を探すが、ジェイドも意味ありげに苦笑を返してくるだけだった。
 しかし、そこはさすがに長い間旅を続けていた仲間というところか。それではルークが納得しないと思ったのだろう、ジェイドは無言の威圧を与えてくるアッシュをあっさりと無視して口を開いた。
「本当に、詳しいことはわからないようなんですよ。ただ一つ言えるのは、今度はあなたが選ぶ番だと言うことです。アッシュが、あなたを救うために道を選んだように」
 赤い瞳が、意味ありげな視線を送ってくる。
 それだけでわかってしまった。先ほど告げられた成功率の低さだけではなく、もっと他になにか理由があってアッシュがこのことを黙っていたのだと。
 そして、そのことと自分の命を天秤にかけて、アッシュは自分の命を削ってルークを生かす道を選んだのだと。
 それがどんな理由かはわからないが、ろくでもないこと事なのだろういうことだけは、容易に想像がつく。
 それでも自分は、選ばなくてはならない。
 誰かを犠牲にして生きるのをやめるためには、選ばなくてはならないことを痛いほど理解していた。



 夜の渓谷には、かわらず清涼な水音が響いていた。
 ここに来るたびに、ルークの胸には郷愁にも似たかるい痛みを伴った思いが渦巻く。
 この渓谷は、ルークが人として歩みはじめた第一歩を記した地でもあり、また取り返しのつかない罪にむかって歩きはじめた場所でもあった。
 そして、今では二度目の生を受けた第二の生誕の地でもある。
 ルークにとってこの渓谷はすべての始まりの地であり、その分思い入れの強い場所でもあった。
 アッシュが足をとめたのは、ルークが予想していたとおりはじめて外に出た時にとばされてきた、あのセレニアの花の群生する草地だった。
「てめえは下がっていろ」
 ジェイドの方に軽く顎をしゃくると、アッシュは腰に佩いたローレライの鍵を抜いた。
「レプリカ」
 呼ばれるままに側に行くと、アッシュは鍵を掴んだ手をそのまま差しだしてくる。
「手を」
 アッシュの手に自分の手を重ねながら、ルークはふとあのレムの塔でのことを思い出していた。
 あの時は自分の手にアッシュの手が重ねられたが、いまは逆だ。だけど、やはり自分を助けるために手を貸してくれていることにはかわりがない。
 そうやって思い出してみると、あれだけ疎まれていたのに、アッシュはいつでもきわどい場面では自分を助けてくれていたことを思い出す。あのバチカル脱出の時も、レムの塔でも。そして、あのエルドラントでの仕掛け部屋でもだ。
 いつだって、この手は自分を助けてくれていた。だから、今度も絶対に平気なはずだ。
 天に向けて鍵をかかげると、その刀身が淡く光を放ちはじめる。
 ガラスと金属を擦りあわせたような、不思議な音がその光のまわりを巡りはじめた。その音に合わせるかのように、さらに光が強くなる。そして。
「来た」
 まるで焔のような光が二人のまわりを巡ると、それは朧な人型を取った。
 それは、ルークが地核で最後に見たローレライそのものだった。



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実は膝枕しています。