カノン・18




「ふざけるなっ!」
 最初に我に返ったのは、アッシュの方だった。
「成功するかどうかもわからないのに、そんなこと出来るわけがねえだろうがっ!」
 ガツッ、と音を立ててローレライの鍵が地面に突き立てられる。
 冗談ではない、とアッシュは唇を噛んだ。
 いくらレプリカが普通の人間よりもコンタミネーションを起こしやすいとしても、あれはそんな生やさしい術ではないのだ。
 かつてルークはローレライの宝珠を体に取り込んでしまったことがあったが、あれはもともと音素に分解されていたからこそ可能だったことだ。己の意思で異物を体の中に取り込むのとは、わけが違う。
 それに、ジェイドのように腕を媒介にするのなら、もし失敗したとしても命に関わる可能性はまだ少ない。
 しかし、ローレライは心臓を貫けと言う。それは、ルークの心臓に鍵を同化させるという意味なのだろうが、一歩間違えれば自分のこの手でルークの心臓をとめることになるのだ。
 成功率の低い方法だとは前にも聞いていたが、もしあの時にこの事を聞いていたなら、自分は他に方法があるなどと言い出さなかっただろう。たとえ、どれだけルークが拒んだとしてもだ。
 どうして自分が救いたいと願った命を、己の手で散らせるような真似が出来るだろうか。



 あの時、自分が死んでルークの中に意識だけが流れこんだ時。ルークの中で彼の記憶と意識に、アッシュは少しだけ触れた。
 のぞき見たルークの記憶は、アッシュが想像していたものよりもずっと過酷なもので、自分の居場所を奪った報いだなどと安易に嘲笑できないものだった。
 アッシュは無意識のうちに、ルークは自分よりもすべてにおいて恵まれた立場に置かれているのだと、思いこんでいた。仲間たちに囲まれ、甘やかされ庇われて、そうして笑っているのだと。
 だが、それはすべて自分の思いこみでしかなかったことを、痛感させられた。
 そして、生きたいと泣き叫び続ける心の声。
 自分だけではなく、ルークにも同じように死ぬ運命が課せられていたことを、アッシュはそこではじめて知った。だから彼は、あんなにも必死にすべてを自分に託そうとしたのだろうか。だが自分は彼の言葉にも、そのまなざしに込められた願いにも、気付こうとしなかった。
 今まで知ろうともしなかった自分のレプリカの心に触れて、アッシュは自嘲した。本当に、自分はなにも見ていなかったのだと。
 だが、ルークは生き残る。
 今度こそ自分のすべてを上書きして、ルークだけがこの世界に戻ることが出来る。それが妬ましくないと言えば嘘になるだろうが、ローレライの鍵を彼に託したときに自分の心はもう決まっていた。
 それなのに、いつまでも消えない自分の意識に疑問を抱きはじめたアッシュに、ローレライが接触してきたのだ。
 ローレライはまずはじめに、アッシュが大爆発についてそもそも根本的に勘違いをしていることを告げた。
 生き残るのはレプリカではなくて、オリジナルであること。
 それも最悪の形でオリジナルがレプリカのすべてを奪い、生き返ること。
 だがその事実を告げられたとき、アッシュの胸の中にあったのは自分が生き返ることへの喜びではなく、その理不尽さへの憤りだけだった。
「つまりそれは、オリジナルがレプリカを乗っ取ると言うことか……」
『多少意味合いは違うが、そうとも言えるな。もともとお前たちは一つだったのだから、一人の人間としてあるべき姿に返ることになる。正しく言えばそういうことだ』
「違うっ!」
 自分でも驚くほど激しい声が出た。
「俺は俺で、あいつはあいつだ。一人の人間なんかじゃねえ。俺たちはそれぞれ別の存在だ!」
 そうだ、自分たちはたしかにオリジナルとレプリカではあるが、それぞれ互いに個を持っている。
 たしかにアッシュ自身、最後までそのことを認めようとはしていなかったが、今は違う。
 あれは子供の癇癪のようなものだったのだと、今になってみればわかる。
 頭の隅では自分たちはそれぞれに個を確立した別の存在になったのだと、途中からわかっていた。だがそれを認めることは、アッシュの中にあった『ルーク』へのこだわりが許さなかった。
 だが、ルークが自分が自分であることを宣言し、その彼と刃を交えることで、アッシュの中にあった拘りに一応けりがつけられた。
 だから、自分たちは一人ではなく二人なのだ。
 考え方も、記憶も、生き方も。それぞれ二つあるのだから。
 アッシュがルークの中に自分が統合されてもかまわないと思ったのは、自分がすでに死んだことを知っていたからだ。
 それなのに、死んだはずの自分がルークの命を喰らって生き返るのなら、話は違う。
「そういえば、あいつはどこにいる……?」
 ようやくまわりの様子に気を回すことが出来たアッシュは、いま自分がいる場所が上下の境目のない異空間だということに気がついた。
 淡い光に似た音素に満ちたこの空間が、音譜帯に新しく出来た第七層なだのということもすぐに理解できていた。第七音素の意識集合体であるローレライがすぐ目の前にいるのだから、それは難しいことではない。
 だが、いくら辺りを見回しても求める姿はそこにない。
 その事実に、血の気が引くような焦燥感がこみ上げてくる。
 まさかもうすでに、融合が終わってしまっているのだろうか。しかし先ほどのローレライの説明が事実なら、一つだけアッシュには疑問に思う点があった。
「……俺は一度死んだはずだ。だが、この体は俺の体だな?」
『いかにも。お前の体は一度死んだが、私の解放のエネルギーで再構成した。私と完全同位体故に、さほど難しいことではなかったな』
 淡々と抑揚のない声で語る意識集合体に、アッシュは自分の両の掌に視線を落とした。
「それならあいつの、レプリカの体はどこにある?」
 かいま見たルークの記憶では、すでに彼の体は音素乖離がはじまっていたらしい。まさかローレライの解放のために力を使いはたし、その体も乖離してしまったのだろうか。
『ルークの体ならここにある』
 だが、そんなアッシュの予想をあっさりとローレライが否定すると、目の前に大きな光の球があらわれた。
「……レプリカ」
 その光球のなかで、ルークはまるで胎児のように体を丸めた恰好で眠っていた。
『本来ならすべて音素が乖離していてもおかしくない状態だったのだが、私の力でそれをとどめてある。もっとも、すでに意識の一部はおまえに交じり合っているため、目覚めることはないがな』
「なんだと?」
『おまえはそれを感じているはずだ。自分の中に、もう一人のルークの意識が混じりはじめていることを』
 アッシュは反射的に自分の胸に手を当て、眉をひそめた。
「大爆発を回避する方法は、ないのか……?」
『ないわけではない』
 含みを持ったその答えに、アッシュは訝しげに瞳を細めた。
『そのために、お前を呼び起こした。私も、私を解放してくれたお前たちのどちらをも救いたかったからな……』
 ふわりとオレンジ色の光が揺れる。
『……アッシュ、おまえは本当にルークを取り戻したいか?』
「取り戻すもなにも、あれは俺のレプリカだ」
『そのために、お前自身を犠牲にする必要があったとしてもか?』
 アッシュの新緑色の瞳が、驚きに大きく見開かれる。
「それは、代わりに俺が死ぬと言うことか?」
『違うな。だが、お前の生命を削ることには変わりない。だからもう一度お前に問う。おまえは本当にルークを取り戻したいと思うか?』
 感情の感じられないローレライの声には唆すような響きはないが、真摯な決意を問われている威圧感がある。
 一度答えてしまえばやり直しはきかない。たぶん、そうなのだろう。
『ルークの存在は、お前の足かせになるだろう。ルークの命を繋ぐことを望むのであれば、お前たちは一生離れられなくなる』
「どういうことだ?」
『ルークを再構成することは可能だ。だが、新たに再構成するルークの体は、自ら第七音素を作り出せない。音譜帯にいる間は高濃度の第七音素に囲まれているから問題はないが、地上におりれば時間の経過とともに音素乖離を起こして消滅する』
「なん…だと……?」
 想像していた以上に過酷な事実に、愕然とした呟きがアッシュの口から漏れる。
『それを防ぐには、なんらかの手を使って外部から第七音素を供給するしかない。一番良いのは、第七音素ではないが、完全同位体であり被験者でもあるおまえの音素を定期的に与えることだ。あるいは……』
「あるいは、なんだ?」
『……あるいは、定期的にレプリカ一人分の音素を喰らうこと。それが、ルークが地上で生きてゆくために必要な代償だ』
 どこまで神は、あの自分の半身に過酷な運命を強いるのだろうか。
 かつてレムの塔で同胞であるレプリカたちの命を奪った彼に、今度は自分が生きるために彼らを犠牲にしろと言うとは。
『お前が与える音素は命を奪うほど大量には必要ないが、それでもおまえの命を削ってルークに与えてゆくことには変わりない。ただひたすらお前の命を削ることで、ルークは生かされる。それでも、お前はルークを取り戻すことを望むか?』
 もし以前の自分だったら、ふざけるなと迷うことなく切り捨てていただろう。
 どうして自分がさらにあのレプリカの犠牲にならなくてはならないのかと、一顧だにしなかったはずだ。
 だが、今は違う。
 触れてしまった、あまりに過酷な記憶と悲しいまでに生きたいと望む心。それに今まで認めようとはしなかったが、やはりルークは自分の半身なのだと、ここにきてアッシュは痛感していた。
 ルークがすでに消えたのかもしれないと思った時、アッシュの中にあったのは、焼け付くような焦燥感と体の半分を引きちぎられたような喪失感だった。
 あんなにも嫌悪し憎悪していたはずなのに、いざ目の前からルークの存在が消えてしまったと思ったら、心はまるで正反対の事を叫ぶ。だがその矛盾した心の悲鳴さえも、たしかに自分のものなのだとアッシュはわかっていた。
 今更ルークを失うなんて、考えられない。
 それに、彼とは約束をしたのだ。必ず生きて返ると。
 それなのに、約束をした相手がいなくては意味がないではないか。
「俺はあいつを、ルークを取り戻す。その意思に変わりはない」
『自分の命を懸けてでもか?』
 低く笑った自分の声に、アッシュは苦笑する。
「……あいつの尻ぬぐいをしてやるのは、今更だろう?」
 必死に自分の後を追いかけてきた、自分の半身。それが煩わしくて何度も振り払ったくせに、結局は見捨てられない。
 それほどまでに、自分たちはどこまでも繋がってしまっている。
 自分はルークを救いたい。そして、二人で地上へ戻るのだ。
 それが、再びこの世界に生を受けたアッシュの最初の願いだった。




BACK← →NEXT(07/06/02)


音譜帯会話。