カノン・20




 その瞬間、まるで雷のような激しい光がまっすぐ譜陣と夜空を繋いだ。
 譜陣を中心に襲いかかってきた凄まじい音素の奔流に、ジェイドは自らの身を守るシールドを張りながら光の中心へと目をこらした。
 しだいに薄れてゆく光の中、一つの影が力尽きたように座り込んでいるのが見える。だが強すぎる光にくらんだ目はまだ正常な視界を取り戻しておらず、それがどちらのものなのかまではわからない。
 やがて視界の中に鮮やかな紅蓮の色を持つ長い髪が翻るのが映り、その人影がアッシュなのだと言うことを知らせる。それでは、ルークはどこに行ったのだろうか。
 らしくなく駆け出した足をとめることが出来ず、譜陣のあった中心までやってくると、あきらかに憔悴した様子で座り込んでいるアッシュの腕の中にルークの姿があった。
「……安心しろ、気を失っているだけだ」
 億劫そうなアッシュの呟きに、ジェイドは膝をついてざっとルークの全身を確認した。
 顔は青ざめているが、かざした掌に当たる微かな呼吸が命のあることを告げている。鍵が貫通したはずの胸には、衣服を切り裂いた跡はあるものの血の染みひとつない。
「成功したようですね」
「一応な……」
 疲れ切った顔でなぜか複雑そうに頷くアッシュに、ジェイドは訝しげな顔になった。
「なにか問題でも?」
「……いや」
 そう言いながらも、まるで苦虫を噛みつぶしたような顔をしているアッシュに、ますますジェイドの疑念は増す。しかしすぐにそんな自分の態度が誤解を招いていることに気付いたのか、アッシュは軽く咳払いをした。
「おまえが思っているようなことじゃねえ。契約は成立した。こいつは死なねえ」
 きっぱりとそう言い切ったアッシュの耳が、なぜか薄赤く染まっていることに気がついたジェイドは、訝しげな表情から一転していつもの食えない笑みを浮かべた。
「わかりました。詳しい話はルークが起きてから伺いましょう」
 意味ありげなその物言いに、ますますアッシュの表情が苦いものに変わる。しかしジェイドは、きついまなざしで睨みつけてくる彼ににこやかに笑ってみせると、さてと続けた。
「あなたも無事とは言い難いようですね、その様子では。不本意とは思いますが、ルークは私が引き受けましょう」
「……くそっ!」
 本当なら意地でも突っぱねてやりたかったが、さすがに今の自分の状態ではいつ目覚めるのかもわからないルークを渓谷の外まで運ぶことが不可能なことは、アッシュにもわかっていた。なにしろ少しでも気を抜けば倒れそうなほどに、アッシュ自身も疲弊しているのだから。
 ことさら大事そうにルークの体を抱き上げたジェイドに、アッシュは苛立ちのまなざしを向けた。絶対にわざとやっているとしか思えない。
「そうでした、肝心なことを言っていませんでしたね」
 ルークを抱えたまま、いま思い出した言うようにジェイドはアッシュの方をふり返った。
「ありがとうございます」
 一瞬動きがとまったアッシュは、だが次の瞬間には苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
「てめえに礼を言われるようなことはしてねえ。そいつのことを言っているなら、尚更だ」
「それでも言わせていただきます。ありがとうございます、私の小さな友人を取り戻してくれて」
 それが本心からの言葉だと嫌でもわかってしまって、アッシュはますます不機嫌な顔になった。
 きっとジェイドも、二度と言わない。それが本心であるからこそ。
 でも、だからこそ気にくわない。
「つまらねえこと言ってねえで、さっさと歩け。邪魔だ」
「おや、そうですか?でしたらもう少し急ぎましょうか?」
 アッシュがすでに限界を迎えつつあることを知っていながら、素知らぬふりでジェイドが笑う。口を開けば開くほどいいように遊ばれてしまうのはわかっているのだが、どうにも勘に障るのだ。
「冗談はこれくらいにして、行きましょうか」
 ジェイドは笑みをおさめると、ルークの体を抱えなおした。アッシュはそれには答えなかったが、ジェイドの隣にならんだ。それにジェイドはからかうような目をむけながらも、言葉は口にしなかった。
 夜の渓谷は先ほどのことが嘘のように静まりかえり、清涼な水音だけが夜に響いている。
 夜の空には、あの夜のように白い月が静かに浮かんでいた。



扉の開く小さな軋み音に、眠りとうつつの間を漂っていたルークの意識は引き戻された。
 まだ意識同様ぼんやりとした視界をはっきりさせようと何度か瞬くと、そっと頭を撫でられる。その手の感触と気配に、ルークはゆるく笑みを浮かべた。触れてくるその手の感触を、ルークが間違えるはずがなかった。
「起きたか」
 同じ声のはずなのに、自分よりもずっと落ち着いて響くその声。
「アッシュ……」
「ああ」
 ようやく焦点のあった視界に、こちらを覗きこんでいるアッシュの顔が見えた。いつものように、どこか怒ったような気むずかしげな顔。でもそれがあまりにらしくて、自然と唇が笑みをつくった。
「俺、出来たんだな……」
「そうじゃなかったらここにいないだろう」
「まあな」
 ルークは小さく笑いながらゆっくりと起き上がると、確かめるように自分の手を何度も握っては開いてみた。
「あいつが言うには、体調はほぼ正常だとよ」
「うん」
 言われないでも、わかっていた。自分の中にある音が、先ほどまでとはまったく違う綺麗な音を立てているのがはっきりとわかる。生きているのだと実感できる。
「ジェイドは?」
「追い払った」
 どこか不機嫌そうな口調でそう答えたアッシュに、ルークはきょとんと目を瞠った。
「それより、てめえに聞きたいことがある……」
 あらためてまっすぐと見つめられて、ルークはアッシュが先ほどよりも不機嫌な顔になっていることに気がついた。
「てめえ、最後にローレライと何を話した」
「へ?」
「とぼけるな。あの瞬間俺はお前と共鳴していた。……聞いていたんだよ」
 問い詰めるように口調を強めたアッシュに、ルークはああと小さく呟いてから不思議そうに首を傾げた。
「話って、ローレライの鍵の所有権のことだろ?なんでお前、怒っているんだよ」
「所有権のことはどうでもいい。お前の所有者が俺なのは当たり前のことだからな。問題は、その後に話していたことだ」
 当たり前のように自分のものだと言い切られ、思わずどんな顔をすればいいのかルークは判断に迷ったが、どうやらアッシュが問題にしているのはそこではないことに気がついて、次の言葉を待った。
「何であんなことを言った?……鍵である自分は、所有者と運命を共にするなんて」
「何でって、それが当たり前だと思ったからだけど」
 そう答えながら、ルークは別にアッシュがそのことについて怒っているわけではないことに今更ながら気がついた。たしかに眉間の皺はいつもよりも深く刻まれていたが、かすかに耳の辺りが赤い。
「……もしかして、照れている?」
 その言葉が引き金になったように真っ赤になったアッシュが、怒ったように睨みつけてくる。しかしそれはあまりに迫力がなく、ルークは思わず浮かんできた笑みを止めることが出来なかった。
「……良い度胸してやがるじゃねえか、この屑」
 言うが早いか、アッシュはルークの体をベッドの上に押し倒した。そして体の上に乗り上げると、まだ嬉しそうに笑っているルークを苦々しく見下ろした。
「締まりのねえ顔するな!」
「だって、嬉しいし」
 逆に自分から抱きつくようにしてアッシュの体に腕を回してきたルークに、アッシュは最初のうちは怒ったような表情をしていたが、やがて諦めたように深いため息をついた。
「馬鹿じゃねえのか?自分から自分の命を削るなんて」
 ルークがローレライと交わした約束。それは、不老であるはずのルークに、寿命を持たせることだった。
 契約を交わしたことにより、ルークはアッシュの所有するローレライの鍵の一部となった。本質は変わらないとはいえ、鍵の一部となったルークには不老が約束されたために寿命がなくなる。それを告げられたルークはそれを拒否したのだ。
 望んだのは、契約者と共に生きること。自分が先に散ることはあっても、残されることは望まない。アッシュが死ぬときは、自分も一緒に消える。それが、ルークの願いだった。
「振るうべき所有者のいない剣なんて、意味ねえだろ」
 それに、と続ける。
「俺は、アッシュの物なんだから」
 そういって綺麗に笑ったルークに、アッシュはもう一度小さく馬鹿がと呟いてから強く抱きしめた。
 たがいのぬくもりを確かめるように抱きしめあっているうちに、ごく自然に唇が合わさる。やわらかくて優しいその感触に、くすぐったそうにルークが笑い声を立てた。
「こんなふうにキスされるの、はじめてかも」
 いつだって、強引に奪うように貪られていたから。そして、受け止める自分も、ぶつけられる熱を受け入れるだけで必死だったから。
「なんか、こういうの良いな」
「ああ……」
 小さく音を立てて唇が離れ、視線が交わる。そしてもう一度、唇が重なる。言葉は必要なかった。




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やっと少しだけラブっぽい感じに