ガラスの向こう側から




 ぱちん、と目の前でなにかが弾けたような感覚をおぼえて、アッシュは不思議そうに瞬きをした。
「どうかしまして?先ほどから、なんだか怖いような顔をしてましてよ?」
 向かい側からかけられたナタリアの声にはっと顔をあげると、怪訝そうな顔した従姉妹がちいさく首を傾げてこちらを見ていた。
 一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。
 視線を動かした先には、見慣れた白いポット。
 それはナタリアのお気に入りの品で、彼女が大事に思っている相手だけにしか使われないものだ。
 そこでようやくここがナタリアの私室にある応接室であることに思いいたり、アッシュはちいさく息をついた。
「すまない。すこしぼうっとしていたようだな……」
「あら、貴方にしては珍しいですわね」
 ナタリアはからかうような目つきでアッシュを見やると、気分を害したふうもなく笑った。
 昼下がりのやわらかな光が、大きくとられた窓からいっぱいにさし込んできている。
 バチカルの最上層にある王城は、光の都と呼ばれるこの都市の象徴であることを示すようにいつでも光にあふれている。
 白い清潔なリネンが敷かれたテーブルの上にはお茶の支度とともに、いくつもの本が積まれておかれている。
 しかしそれらを見てもぴんときたような顔をしないアッシュに、ナタリアは今度は打って変わって心配そうな目をむけてきた。
「大丈夫ですか?アッシュ」
「ああ、なんでもない…」
 まだしっくりこないながらも、そう答えながらアッシュは自分の手元に目をやる。
 そして自分の手の下に敷いていた書類に描かれている図を見て、ようやく今なにをしていたのかを思いだした。
 ナタリアに、いま彼女が手がけているバチカルの下層部にある一区画の復興について相談を受けたのは、一昨日のことだった。
 そのことで今日は彼女を訪ねて調べ物を手伝っていたのだが、どうやら話をしているうちにぼんやりしてしまったらしい。アッシュにしては、それは珍しいことだった。
「今日はこれくらいにしましょうか」
 ナタリアは手元でひろげていた本を閉じると、にこりと微笑んだ。
「ナタリア」
「アッシュ、お茶はいかがかしら?」
 本の代わりに白いポットを持ち上げて訊ねてきたナタリアに、アッシュは一瞬言葉に詰まってから、もらおうと短く答えた。
「悪いな……、相談を受けておいて」
「いえ、私の方が無理を言ったのですから」
 しかたがありませんわ、とナタリアはこだわりなく笑って紅茶を注いだ。
「ルークの具合が悪いのに、無理を言ってすみませんでした」
「……ルーク?」
 その名に、アッシュは怪訝そうな顔をした。
 一瞬だけなにか引っかかるものを感じるが、すぐにそれが自分の半身の名だということを思いだす。
 本当に、今日の自分はどうかしているらしい。
「……心配するな。昨日までは熱が高かったが、今朝はだいぶ落ち着いていた。それに、あいつに何かあれば、すぐに俺にはわかるからな」
「そうでしたわね」
 ファブレ公爵家の双子には、不思議なつながりがある。
 それは双子の間にあるとよく言われている直感力よりもはるかに強く、たがいに集中すれば意識を繋げることも可能なくらいだ。
 それを彼等はひそかに「回線」と呼んでいるが、どれだけ離れていても意識を繋げられるこの力は、二人のだけの特別な能力だった。
 それによって彼等はたがいの怪我や不調も敏感に感じ取ることができ、幼い頃から体の弱かった弟の不調を誰よりもはやく察知するのは、かならずアッシュだった。
「でも、私が言いたかったのはそれだけではないですわ。ルークが具合の悪いときは、あなたもあまり調子が良くないのをうっかり忘れていましたの」
「……?」
「自覚がないのかしら?」
 本気でわからないといった顔になった従兄弟に、ナタリアは好意半分呆れ半分の笑みを浮かべた。
 


 王族の中でも特に王家と親密な関係にあるファブレ公爵家の双子は、ナタリアの唯一の従兄弟たちにあたる。
 年が一つしか違わないこともあって、彼等とは、幼い頃からそれこそ姉弟のようにして育った。
 幼い頃から活発なわりには体の弱かったルークは、しばしば熱をだして寝こんだ。
 王妹である彼等の母もあまり丈夫なたちではなく、おそらくルークはそれに似たのだろうが、普段が活発で明るく振る舞うだけに、寝込んでいる時の姿は子供心にも痛々しかった。
 だが、なぜか人一倍丈夫なはずのアッシュが、ときどきそんなルークにつられるように一緒に寝こむことがあった。
 それが、実はルークの熱を半分引き受けているためなのだと知っていたのは、子供たちだけである。
 一週間前にルークを見舞ったときは、彼等の世話役であるガイにも面会の許可をもらえなかったくらいだから、今回はかなり具合が悪いのだろう。
 さすがにもう加減ができずに自分まで倒れるようなことはないが、アッシュがルークの容態があまりかんばしくないときは、今でも無意識に彼にかかる負担を引き受けていることを、だからナタリアはよく知っていた。

 

 まったく自覚がないせいか、不思議そうな顔で自分を見ているアッシュに、ナタリアはこっそりと心の中で苦笑する。
 同じ顔立ちとはいえ、彼等をよく知る者たちならまず間違えることのないほど、二人は人にあたえる印象の違う双子だ。
 それなのに、こうやってきょとんとした顔で相手を見るときだけは瓜二つの表情になる。
「ナタリア…?」
 ころころと口元を押さえながら笑う彼女に、アッシュは軽く眉根を寄せる。
 不機嫌そうな、それでいて困ったようなその顔に、ナタリアの笑みがさらに深くなる。
 彼女は、この双子たちが大好きだった。
 アッシュとは公的に婚約者ということになっているが、ナタリアは彼等のどちらにも、優劣などつけられないほどの好意を持っている。
 結婚という現実はそう先の話ではないのだが、彼女はいまの穏やかで優しい関係がいつまでも続けばいいと思っている。
「上の空だったのは、ルークのことが心配だったからでしょう?」
「あいつが寝込むのは、別に珍しいことじゃねえ。ったく、もう少し鍛えてやらねえとダメみたいだな」
 そう言いながらも、アッシュの瞳には不機嫌な色はない。
 なんのかの言いながらも、誰よりもルークに対して過保護なのは兄であるアッシュだと言うことは、親しいものの間では周知の事実だ。
 元気なときの双子はそれこそ喧嘩腰に言い争うことも珍しくないが、ルークが体調を崩すと、回復するまで一番彼を気にかけているのもアッシュだ。
 もっとも、真面目で頑固なうえに意地っ張りな彼は、それを頑として認めないだろう。
 だから公爵家の面々をはじめとする周囲の者も、あえてそれには触れないようにしている。
 そんな彼等の仲の良さに、ナタリアは子供の頃は羨ましいと同時に強い疎外感を感じたものだった。
 いまではもうそんな気持ちはほとんどないが、それでもたまにこうやって二人の絆の強さを見せつけられると、不思議に胸がざわめくことがある。
「本当に、あなた方は仲がよろしいわね」
「……気味の悪いことを言うな」
 心底嫌そうに顔をしかめたアッシュに、こらえきれずにナタリアは噴き出した。
 いつまでも肩をふるわせて笑っている彼女に、アッシュは文句を言うこともできず、ひたすら不機嫌そうな顔で紅茶を口に運ぶことしかできなかった。



「そうそう、忘れるところでしたわ」
 ようやく笑いがおさまったらしいナタリアは、軽く手を合わせると椅子から立ち上がった。
 そして飾り棚の方へむかうと、中から美しく象眼された箱を取りだした。
 そのはこの中から彼女は大事そうに小さなガラス瓶を取りだすと、アッシュの前に置いた。
「むきだしのままで申し訳ないのですが、ルークに渡してもらえますか?」
「かまわないが、なんだ?」
「スミレの砂糖漬けですわ。ルークは甘いモノが好きでしょう?具合が悪いときは菓子を食べるのもおっくうですが、これならお茶にまぜて食べても良い香りがしますし、そのまま食べてもこれだけ小さければそれほど苦にはならないでしょうから」
 ガラス瓶の中を覗いてみると、なるほど、彼女が言っていたとおり紫の色をした小さなものがいくつも瓶の中にはいっている。
「お裾分けで悪いのですけれど」
 そうは言っているが、おそらくこれは彼女がルークのためにわざわざ取り寄せたものなのだろう。
「あのガキに、高級なモノなんてやる必要ないぞ」
「そう言う誰かさんが、一番甘やかしているのではなくって?」
 ちくりと逆襲されたアッシュは、途端に顔をしかめた。
 たしかにどこかに出かけるたびに、自分がルークの喜びそうなモノをつい買い求めてしまうのはアッシュにも自覚がある。
 なにしろ自分と違うあの素直な片割れは、彼のために求めたモノを渡すととびきりの笑みを見せてくれるのだ。
 甘やかしすぎてはいけないとわかっているのだが、その笑顔が見たくてついつい甘やかすようなことをしてしまう。
 アッシュは瓶を上着の隠しにしまうと、席を立った。
「ルークに、よろしくお伝えください」
「ああ」
「また、時間ができたら遊びに行きますから」
 花のように笑いながら、ナタリアは小さくベルを鳴らして侍女を呼んだ。
 彼女からあずけていたマントをうけとると、アッシュは足早にナタリアの部屋を後にしたのだった。

→NEXT(07/01/14)



初めての続き物〜。パラレルといえばそうだし、違うとも言える。