ガラスの向こう側から・6




 ひらひらと舞い落ちてくる白い花びらのような雪をときどき払いながら、アッシュはケテルブルクの町を歩いていた。
 雪は嫌いだった。
 歩くと足にからみついてくるところも、ふわふわと頼りないところも。そして何よりも、その色が誰かを連想させるから。
 ほとんど言いがかりだということは自分でもわかっているが、そういう理由でアッシュはこの町がそれほど好きではなかった。
 ケテルブルクホテルは、この町のほぼ中心部にある。
 この町の知事が同行者の妹であることもあってか、彼等はたいていこの町ではこのホテルを定宿にしている。
 アッシュはホテルの外観を一度見上げると、先ほどから何度も繋ごうと試していた回線をもう一度たぐり寄せようと集中した。
 しかしそれは、かなわない。
 やはり意識がない状態にあるのだろうと再認識すると、アッシュはホテルの扉を開いた。



「アッシュ!?」
 ロビーに入ってゆくなり、驚きに満ちた声がかかった。
 それに対してきつい視線をかえさなかったのは、それがナタリアのものだとわかっていたからだ。
 ナタリアはいまにも泣き出しそうな顔でこちらへ走り寄ってくると、まるですがるようにアッシュの右腕を掴んだ。
「あいつはどうしている?」
 どうやらなにから話して良いのかわからなくなっているらしいナタリアに話の水をむけると、水色の瞳が驚いたように大きく見開かれた。
「一昨日までは熱がずっと高かったのですが、熱が引いても意識が戻らなくて……。寝込んでから、もう五日になります」
 それで、と気丈な彼女にしては珍しくうろたえた様子を見せている。
 それだけ彼女の中でもルークの存在が大きくなっているのだろう、とどこか複雑な気持ちをおぼえながらも、アッシュはわかっていると低く答えた。
「いくら呼んでも返事がねえからな。あいつにここでくたばられては、都合が悪い」
 まるでルークを物扱いしているかのようなその発言に、ナタリアは困ったような目をむけてきたが、あえてなにも言ってこなかった。
 いままでは自分のことで精一杯だったのだが、ようやく最近になって彼女にも、彼等の複雑な心境を思いはかることができるようになってきたのだ。
「ルークにお会いになります?」
「そのつもりで来た」
 きっぱりとそういいきったアッシュに、ナタリアは彼の腕を掴む手に力をこめた。
「……ルークを、お願いしますわ」
 見上げてきた水色の瞳に、アッシュは一瞬まだ自分が夢の中にいるような錯覚にとらわれる。
 あの夢の中で見ていた、小さな弟を見守る姉のような優しいけれど強いまなざし。
 彼女の中ではすでにアッシュとルークは違う人間として認識されつつあるのだと、アッシュはその時とうとつに思った。
 彼女がそれを自覚しているかどうかは、別として。
 アッシュはナタリアの手を優しくほどくと、エレベーターへ足を向けた。
 後ろから問いかけるようなまなざしが見つめているのを感じながらも、やはりそれに明確な答えを返すことは、アッシュにはできなかった。



 案内もなくルークの部屋にたどり着くと、ノックにこたえてあらわれたジェイドはアッシュの姿を認めて軽く目を開いた。
「アッシュ……?」
 しかしその驚きの色は、すぐにいつものあの食えないやわらかな笑みに隠れてしまう。
「なにかご用ですか?」
「あの屑をたたき起こしに来た」
 アッシュはそのままジェイドの脇を通り抜けて部屋の中に入ろうとしたが、その前にジェイドの体が動いて、立ちふさがるようにしてアッシュの前にたった。
「なにか、知ってらっしゃるようですね?」
「テメエには関係ねえ」
 低く呟きながら睨みつけてみるが、当然のごとく受け流されてしまう。
「関係ない、ですまされてしまう問題ではないようですが」
「詳しいことはあいつに聞け。俺はテメエと話をする気はねえ」
 あくまでも頑ななアッシュの様子に、ジェイドはわざと処置なしとでもいいたげに小さく肩をすくめた。
「ここで押し問答しても、どうやら無駄なようですね。……おまかせして、平気ですか?」
 最後だけわずかに声色を変えたジェイドに、アッシュは背筋にざわりと冷たいものがはしるのを感じた。
 もともとやわらかな口調でも凄みを感じさせるところのある男だが、おそらく素に近いのだと思われる口調に切り替わるだけで、その冷酷さを強く感じさせる。
 しかし何よりも怖いのは、その冷たさの中に激しい感情の断片が見え隠れしていることだ。
「さあな」
 自分の感じた恐怖を綺麗にかくしながらそっけない口調で答えたアッシュに、ジェイドは探るようにもう一度目を細めてからわずかに表情をゆるめた。
「……よかったですね、いまここにいたのがガイではなくて私で」
「そうかもな……」
 たしかにこれがガイだったら、まず部屋に入れてもらえなかっただろうと想像がつく。最近では表だってアッシュへの冷たい態度をみせないようにしているガイだが、いまのルークの状態を考えると、そんな余裕はまずないだろう。
 それどころか、その原因にアッシュが絡んでいると考えてさらに頑なな態度を取られた可能性もある。
「ルークを、お願いしますね」
 すれ違いざまに、いつものふざけたような響きを消したジェイドの声がアッシュの耳に届く。
 この、けっして一筋縄ではいかないような男にまで、こんな声を出させることができる。
 それだけでも、随分とたいした物ではないかと複雑な気持ちになりながらも思う。
 いったいなにが不足なのだと、だんだんと腹が立ってくる。
 ルークは、彼自身が思うほど人に必要とされていないわけではなく、むしろずいぶんと大事にされているのではないかと、あらためて思う。
 それなのに、なぜ彼はあんな箱庭のような世界を作り上げたのだろう。
 
 

 部屋の明かりは、最低限のものにおさえられていていた。
 ベッドに近づくと、そこには青い白い顔をしたルークが静かに横たわっていた。
 そのあまりの顔色の悪さに、一瞬どきりとさせられる。
 あの夢の中で感じていたような不安がこみあげてきて、アッシュは内心苦笑する。
 やはり随分と、あの夢に自分は引きずられてしまっているらしい。
 以前なら、こんな弱々しい様子を見せる自分のレプリカに憤りを感じることはあっても、案じるような気持ちは絶対に感じはしなかっただろう。
 本当は、ずっと前からわかっていた。
 自分がルークにぶつける苛立ちや不満の半分は、ほとんど惰性に近い物であったこと。
 そうすることで自分の立場を優位に置こうとする、ひどく子供っぽい感情から生まれる焦りだったことも。
 あの夢の中で、自分はルークに振り分けられた役だったとはいえ、初めはなんの疑問も感じずに彼の身を案じて愛情も感じていた。
 それは、現実では表に出せない感情が無意識のうちに影響していたのではないかと、いまは思っている。
 自分から分かたれた、半身。
 どんな事情があったとしても、自分自身を人は憎みきれないのと同じで、心のどこかが嫌悪しながらも惹かれずにはいられない。
 その事実を、目の当たりにさせられたような気がする。
 もちろん、ルークへの確執が消えたわけではない。
 だがいまはそれ以上に、どうしようもなく惹かれるものを強く感じる。
 

 そっと指を伸ばして、夢の中でそうしたように手を握る。
 かすかに汗ばんだ熱っぽいその感触まで夢をなぞっていて、思わず苦笑が浮かぶ。
 自分の中にある音素の動きと流れ。それを強く意識しながら、自分の中にある光を探る。
 軽く閉じた瞼のむこうに、ぼんやりと淡い光が見えたような気がして目を開くと、握りあった指先が淡い光を放っているのが見えた。
 アッシュの全身を熱が駆けめぐり、触れあう指を通してそれがルークの方へと流れ込んでゆくのがわかる。
 ひとつ呼吸するたびに力がルークの方へ流れ込み、またそれに呼応するようにルークの方からもなにかが流れ込んでくる。
 もとは一つだったのだと。強く感じる。
 確執を強く感じるのも、反発を感じるのも、自分と同じ存在だから。
 だけどどうしようもなく引き寄せられるのも、あたりまえで。しかし、それを認めてはいけないのだと自分の中にある強い自我が叫んでいる。
「いい加減に目を覚ましやがれ」
 だから、こんな気持ちを表に見せるのは今だけなのだ。
「夢の中から帰ってこい、…『ルーク』!」
 それは、自分の中で整理することのできなかった感情の名前。
 捨てたと言いながらも、強く固執していた物の名称。
 だからただ一度だけ。
 そう、ただ一度だけ彼に向かってその名前を口にする。
 それが、すべての始まりの言葉だから。
 

 握りしめた指が、ぴくりと小さく震えるのがわかった。
 やがて閉じられていたまつげがゆっくりと開き、碧の瞳があらわれる。
 どこかぼんやりとしたその瞳がやがて焦点を結び、アッシュの姿をとらえる。
「あ…しゅ……?」
 まだ意識がはっきりしていないのか、茫洋とした表情のまま小さな呟きが発せられる。
 かすかに動く唇。
 それに引き寄せられるように、アッシュはそっと唇を重ねた。
「…んっ」
 触れた唇は、かさかさに乾いていて少し痛かった。
 無意識なのだろう。
 触れたアッシュの唇の湿り気を求めるように、ルークの舌がのばされる。
 それを軽くあしらってから唇を離すと、それを追いかけるようにちらりと覗いた舌が唇を舐めた。
「…殴るのは、次にあずけておいてやる」
 口元にのぞいた鮮やかな赤の色に視線を引き寄せられるのをどうにか断ち切ると、アッシュは掴んでいたルークの手を離した。
「あっ…」
 かすれた声があがり、離れてゆく指を追いかけようとするようにルークの指が動く。しかしまだ思ったように動かせないのだろう、まるでもがいているようにしか見えない。
 そのまま抱きしめてしまいたい衝動を振り払うように、アッシュはきびすを返した。
 いま自分が抱えている感情はあまりに複雑すぎて、どれが正しい答えにつながっているのかわからない。
 それに、自分にはもうあまり時間がない。
 その、どれが正しいのかを確かめている余裕もない。
 新しい感情にとらわれるわけにはいかないのだ。
「まっ……!」
 乾いた喉では上手くしゃべれないのか、声をあげようとしたルークが背後で咳き込むのが聞こえた。
 たまらなくなって後ろを振り向くと、こちらを見ている碧の瞳と視線が合う。
 同じ色の瞳が、交差する。
(ありがとう)
 震える唇が、声のない声を紡ぐ。
(──名前)
 いまにも泣き出しそうな、それでいて嬉しくてたまらないという顔で、ルークが笑った。
 その笑みにこみ上げるなにかを自覚しながらも、アッシュはそれを振り捨てるように前を向いた。
 じっと、ルークの視線が自分の背にあてられているのを感じる。
 それを痛いほどに感じながら、アッシュは逃げ出すようにして部屋を出た。



 ホテルを出ると、先ほどよりも強く降りはじめた雪が、あたたまった頬を叩いた。
 説明をもとめようとするルークの仲間たちを振り切って外に出てきた彼は、一度だけホテルの窓を見あげた。
 そして、こみ上げてきそうになった感情を、また自分の奥底へと沈める。
 いま自分がしてきたことは、ルークのためではなく自分のためだったのだと、自分でも苦笑したくなるほど必死に心の中で言い聞かせる。
 甘く優しい夢の中。
 幸せで穏やかな日々。
 そのどれもが、いまは自分には必要のない物だ。
 だから求めないし、欲しいとも思わない。ただひたすら、自分のなすべきことをするために突き進む。それが、いまのアッシュののぞみなのだから。
 それが正しいのだと、理性は断じいてる。
 しかし、そんな強い意志の裏側で、あの夢におぼれそうになった自分がいたこともアッシュは知っている。
 まるで砂糖菓子のように甘くて優しい夢。
 ルークがなぜあんな夢の世界を構築したのかは、わからない。しかしあの世界に自分が取り込まれたのは、間違いなくあの夢に同調する思いがアッシュの中にもあったからなのだろう。
 自分から分かたれたレプリカに出会って、憎しみをぶつけた。
 はじめはそこに正統な理由があるのだと信じていたのだけれど、いまは正直言ってわからなくなっている。
 知れば知るほどあまりに彼は自分に近くて、そしてあらがえない勢いで引き合ってゆくのがわかるのだ。
 それに反発する気持ちが、ルークへの頑なな態度に反映されてしまう。
 自分の物なのだと思う気持ちが強いのに、それを認めたくない自分がいる。
 あまりに激しいその感情が、破綻のない逃げ道を示した夢に反応するのは当たり前のことだったのだろう。
 だけど、それはあくまでも夢であって現実ではない。


 結局は、自分たちの関係はどこまでもループしたジレンマなのだろう。
 存在の関係も、たがいに抱く感情も、すべてがジレンマの上になりたっている。
 そして、ひずみはいつかは正されなくてはならない。
 

 ルークがなにを自分に求めているのか、まったく知らないわけではない。
 だけどそれを認めるのも、譲歩するのも、アッシュの中にある強い自我が許さない。
 互いが求めているものが、その自己における自己肯定なのだからそれは仕方がないのかもしれない。
 穏やかで優しい日々の夢。
 あの夢にひたっていられたなら、たがいに幸福だったのだろうか。
 しかし、それは自分たちの立ち向かっている現実が許さないことはたがいにわかっている。
 夢の中での優しい関係は、現実の自分たちにはあり得ないことなのだと言うことも。
 

 それでも、いつかすべてが終わってもしあの夢のような日々が自分たちの上におとずれるなら、それもいいかもしれない。
 そしてその時は、きっとなんのこだわりもなく自分のレプリカをアッシュは名前で呼ぶことができるのかもしれない。
 自分たちの、存在意義にかかわるあの名前で。
 


END


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終わりましたorz。でも、もしかしたらこれってルーク側からも書かないと、微妙に謎な話になってしまったのではないかと思い直したりもしました。
なんとなく、リベンジしたい気分…。