ガラスの向こう側から・5




 冷えてゆくカップをぼんやりと見つめながら、アッシュは思考の闇に沈み込んでいた。
 何度も手を握りしめたり開いたりしながら、感覚をさぐる。
 手の感覚は、しっかりとある。
 なんの根拠もなくここは夢の中なのだと断じたが、アッシュにはまだ気にかかっていることがあった。



 アッシュは立って窓の方へ行くと、ベランダへと出た。
 ひやりとした夜の風が、頬を撫でてゆく。
 ベランダからまわってルークの部屋の窓の前に立った彼は、レースのカーテンごしに部屋の中をうかがった。
 しかし月が明るいせいか、部屋の中をうかがうことはできない。
 そっと窓を押すと、小さな軋み音を立てて開いた。
 本来なら不用心と責められることだが、ルークの部屋の窓はたいてい鍵がかけられていない。
 それはベランダ伝いに訪れる訪問者たちのためなのだが、そうやって流れ込んでくる記憶さえも仮の物かもしれないと思うと、不思議な気持ちを感じずにはいられなかった。
「アッシュ?」
 部屋に一歩足を踏み入れたところで、ベッドの方からルークの声がした。
 それに一瞬体がこわばったのがわかったが、アッシュはすぐに何事もなかったかのような顔でベッドに近づいていった。
 体を半分起こしてこちらを見ているルークが、アッシュの顔を見て嬉しそうに笑うのが見えた。
 その笑みに、胸の中に温かな感情が生まれる。
 守らなくてはならない、自分の半身。
 その感情に流されそうになる自分に、アッシュは苦笑する。
「……お前だな?」
 ルークは、わけがわからないとでも言うようにちいさく首を傾げた。
 そんな仕草の一つ一つが、愛しくてたまらない。
 近くなる距離に、しかしまだルークはなんの疑問も感じていないのか、アッシュよりも少し大きめな瞳で不思議そうに見上げてくる。
 アッシュの大きな手が、まだ少年ぽい丸みをのこしているルークの頬に触れた。
 柔らかなその感触に、そのままキスをしたい衝動をおぼえる。
 大切にしたい。愛しくてたまらない。
 そんな感情ばかりが、胸の奥からあふれ出してくる。
 こみ上げてくるその感情に突き動かされて、そのまま抱きしめてしまいたかった。
 優しくすべてから守るために、自分の腕の中に閉じこめてしまいたい。
 ぎりぎりと嫌な音を立てて、感情と理性がせめぎ合う。
 ねじ伏せられそうになる記憶が、悲鳴を上げている。
「アッシュ……?」
 様子がおかしいことに気づいたのか、ルークの瞳にいぶかしげな色が浮かぶ。
 薄闇に浮かぶ翠色の瞳。それをのぞき込んでいると、吸い込まれそうな錯覚をおぼえる。まるで、昔語りの魔女の瞳のように。
 頬を撫でていた指が震えながら首筋を伝って降りてゆくのを、まるで他人事のようにアッシュは眺めていた。
 やわらかな首筋は温かく、指の下には少しはやいが確かな命の鼓動を感じる。
 見上げてくるルークの瞳が、今度は驚きに見開かれてゆく。小さな唇が、まるで誘うように開く。
 そこから聞こえる声を聞きたくなくて、指に力をこめる。
 両手では余ってしまう、細い首。同じ姿をしているのだから、自分の首も彼と同じくらいしかないのかもしれない。
 少しずつ力をこめてゆくと、苦しげに眉がひそめられる。
 まるで自分自身を殺そうとしているかのような錯覚をおぼえながらも、手の力は緩めない。
 もっとも、自分自身を殺そうとしているというのは、あながち間違った認識ではないのかもしれない、とあらためて思う。
 あらゆる意味で、いま自分が手にかけようとしている彼は自分の半身なのだから。
「……うっ…!かはっ……っ!」
 苦しいのか、ルークの瞳がだんだんと潤んでくる。同じ大きさの手が、アッシュの手を外そうと必死に動く。しかし上手く力がはいらないのか、ただいたずらにアッシュの手を掻きむしるだけに終始してしまう。
「どうした?はやく助けを呼べよ」
 すこしだけ締め付ける力を緩めてやると、いきなり入り込んできた空気にむせたのか、苦しげな咳を繰りかえす。
 それを醒めた目で見下ろしながら、アッシュは顔を近づけた。
「テメエにはできるだろ?いますぐ誰かを呼ぶことが。それとも、俺のことを消えろって念じてみるか?」
 すうっと瞳を細めると、アッシュは獰猛な笑みを浮かべた。
「テメエみたいな屑にしてやられるとは、思ってもみなかったぜ」
 びくん、と自分の体の下でルークの体が小さく強ばったのがわかった。
 その途端、ゆらりとまわりの景色が揺らいだのが見えた。
 そして、夜だったはずなのに、いつの間にか部屋の中は明るい日差しに満ちていた。
 しかしアッシュはそんな異常事態にも驚くことなく、逆にこれで確信できたとばかりに鋭いまなざしをルークへと向けた。
「考えてみれば、最初からおかしかったんだ。なにもかもが……」
 だけど、この屋敷の中が自分の知っている屋敷とほとんどかわらなかったから、はじめは騙された。
 よく見れば、見覚えのない離れの部屋。造りは同じなのに、一つしかないはずの扉が二つに増えていた。
 窓も、自分の部屋にあった窓は床まである大きなものではなく、腰のあたりまでしかなかったはずだ。
 それなのに、ここではまったく同じ造りの部屋が隣り合わせにつくられ、ベランダ伝いに二つの部屋がつながっている。
 それは、自分とレプリカであるルークとの関係性をあらわしていたのではないか。
 そして、何よりも強い違和感を感じたのが、ナタリアとガイの態度だった。
 自分の記憶の中にある彼等とは、違う彼等。
 初めはこれも自分とルークに対する態度の違いと納得していたのだが、やはり言葉の端々や態度に強い違和感を感じずにはいられなかった。
 それもそのはずだ。
 ナタリアもガイも、ルークの記憶の中にある彼等だったのだから。
 特にアッシュの記憶にあるガイは、自分のことをあんなふうに優しく見てくれたことはなかった。
 いつだって笑ってくれはしたけれど、目が笑っていなかったことをアッシュは覚えている。
 子供は、意外とそういうことには聡いものだ。だけど、表向きむけられる好意を本物と信じたかったから、幼いころのアッシュは見て見ぬふりを通していたのだ。
「この世界は、テメエの都合の良い夢の世界だ。閉じこもることを許された生活に、退屈で平和な毎日。ガイもナタリアもいて。だけど、なぜ俺までこの世界にいる……っ!」
 閉じた夢の世界。なのに、なぜ自分はここに存在しているのか。
 それともここは自分の夢の中の世界なのか。
 それが、ここが現実ではないと気づいたときの、アッシュの最初の疑問だった。
 ここには、アッシュもひそかに願っていた穏やかで平和な日々があった。
 だから間違えそうになったのだ。
「答えろ、レプリカ!」
 その言葉がキーワードだったのか、ガラスが割れるような音を立てて世界が砕ける。
 しゃらしゃらと音を立てて降る、世界の破片。
 そして、砕けた世界の果てにはただ闇がひろがっていた。



 果てのない闇の中、アッシュの足下にうずくまるようにしてルークの姿があった。
 いつの間にか彼も自分も、いつもの服装に戻っている。
 しかしまだここが夢の中のだと、アッシュにはわかっていた。
「……り」
 ぼそりと、足下から小さな呟きがあがる。
「……やっぱり、呼んでくれないんだなおまえ」
 それは、いまにも消えそうなほど小さな声だった。
「あの世界でも、お前は俺の名前を呼んでくれなかった。一度も」
「それは……」
 お前の名前じゃないだろう、と言いかけて、それがあまりに無意味な言葉なことに気がつく。
 その名をいらないといったのは、自分だ。
 それなのに、じつは随分とそのことにこだわっていたのだと、今更のように気づかされる。
「いや、違う……。ごめんな。巻き込んで」
 気づいてしまった自分の気持ちにアッシュが戸惑っている間に、ルークは一人で勝手になにかを結論づけてしまうと、いきなり謝ってきた。
「……ここは、テメエの夢の中だな」
「たぶん……」
 幾分自信がなさそうにこたえたルークに、アッシュはどういうことかと目顔で答えを促した。
「気がついたら、あそこにいたんだ。俺にもよくわからない……。どうしてここにアッシュがいるのかも」
 ずいぶんと心許ない答えだったが、アッシュは怒鳴りつけるだけの気力もなく、困惑したように自分を見つめているルークの目を見かえした。
 これは単なる予想だったが、おそらくいま現実にいるルークは眠っているか意識を失っているかのどちらかなのだろう。
 そして、意識のない状態でどうやったのかはわからないが、アッシュへと意識をリンクさせたのだ。
 わかりやすく言うなら、ユリアシティでアッシュがルークの意識を自分の中へ取り込んだような状態と、似ていると言っていいだろう。
 だが、そのリンクが絶対的でないことは、アッシュの記憶がときどき途切れていることが証明している。
 レプリカの能力は、どうしてもオリジナルに劣る。
 以前アッシュがルークの意識を自分の体の中に入れたまま何日かを過ごしたときと違って、たしかに意識を取り込まれてはいるのだが、その拘束力は目が覚めれば振り切れるほどの強さしかないのだろう。
 そして、人は見た夢のすべてを記憶するわけではない。
「くだらねえ茶番に人を付き合わせるな!」
「ごめん……」
 うつむいてしまう朱色の頭に、アッシュはいつものような苛立ちとともに、なぜか小さな痛みを胸の奥に感じた。
 随分とあの世界に自分は毒されたらしいと苦々しく思いながら、目の前にうずくまったままのルークの頭のあたりを睨みつける。
 あの世界にアッシュがわずかながらでも干渉できたのは、彼等が同位体であり、かつアッシュがオリジナルだったからだろう。
 これが逆の立場であったならどうなっていたかなど、考えたくもない。
 そう、ここはまだルークの意識の中なのだ。
 だからなのだろう。
 目の前で捨てられた子供のようにうずくまっている彼を、抱きしめたいという衝動にかられるのは。
 こんな感情は、絶対に自分のものではない。
「これ以上テメエに付き合っている時間はねえ。はやく俺を解放しろ」
「それは、できない……」
「んだと?」
「仕方ねえだろ?どうしてこんなことになってるんだか、俺にもわからねえんだから!」
 子供がだだをこねるような勢いで言い返してきたルークに、アッシュは眉間に皺を刻んだ。
「……この、屑がっ!もういい。こっちは勝手にさせてもらう」
 つながった意識をアッシュから切るのはたやすい。
 しかし無理矢理リンクを切ることは、より劣っているルークへの負担が大きいのだが、そんなことは知ったことではない。
 アッシュは軽く目を閉じて慣れた感覚を追いながら、自分とルークをつなぐ意識の糸をたぐりよせる。
 自分がつなぐときよりもずっとか細いそれはすぐに見つかり、そのまますぐにそれを断ち切ろうとしたアッシュは、ふと思いついて目を開いた。
「テメエ、今どこにいる?」
「へ……?えっと、ケテルブルクだけど」
「わかった」
「……な、何?」 「後で殴りに行かせろ」
 低いその呟きに、ルークが何とも言えない情けない顔をした。
 そして、それがそこで見たルークの最後の姿だった。




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