カノン・19




 アッシュの怒りに満ちた叫びの後、沈黙がその場に降りてきた。
 ローレライを中心として渦巻く第七音素の光の中、アッシュとルークはまるで時間が凍り付いたかのように互いを見つめていた。
 そして、先に沈黙を破ったのはルークの方だった。


「……わかった」
「てめえっ!自分で何を言っているのかわかってんのか!」
 荒々しく胸倉を掴みあげてきたアッシュの手にされるがままに引き寄せられながら、ルークは静かな目でちいさく頷いた。
「わかってる」
「だったら……!」
「でも、他に方法はないんだろう?」
 まるで何でもないことのようにそう言って、ルークは笑った。
 どうしてそこで、笑うことが出来るのだろう。
 与えられる理不尽な運命に、どうして自分だけがそんな運命を背負わされるのだろうとなじらないのか。
「どうしてテメエはいつもそうなんだ!」
 自分のことには、はじめから全部諦めたような顔をして。いつでもそんなルークに、アッシュは苛立ちを感じていた。
 どうして自分で何かをつかみ取ろうとしないのか。他人のことには必死になるくせに、自分に関することにはどこか消極的で。少しでも他人に負担になるとわかれば、すぐに手を引いてしまう。
 自己犠牲を尊ぶ聖人なんてものは、そのまわりにいる者にいる者にしてみれば誰よりも残酷な仕打ちを与える悪人でしかない。
 どれだけ他人が祭り上げようと、その人を愛している者にしてみれば、酷い裏切り者でしかないのだ。
「アッシュ、別に俺はどうでもいいからいいよなんて言ってるんじゃないぜ」
 なじられるように詰め寄られたまま、ルークは苦笑を浮かべた。
「絶対に失敗すると決まったわけじゃないし。そうだろ、ローレライ?」
『可能性は、限りなく低いがな……』
 そういうことを言うなよ、とルークはすこし困ったような声色で呟くと、まだ自分を睨みつけたままのアッシュに小さく肩をすくめた。
「少しでも可能性があるなら、俺はやってみる価値はあると思う」
「おまえ……」
「このままでいいわけがないのは、アッシュもわかっているだろう?それに、ジェイドが言っていたとおり今度は俺が選ぶ番だ」
 激しい声をあげるでもなくただ淡々と話しているだけなのに、なぜか不思議な威圧感がある。
「……俺にはできない」
「いいよ、俺が自分でやる」
『それは無理だな。あくまでも、お前以外の者が契約者にならなければならない。そして、この契約にはやはりお前と存在を同じくするアッシュが一番の適合者だ』
 淡々とした口調で、ローレライが言う。
「やってみなくちゃわからねえだろ」
「ざけんなっ!」
 突き立てられたローレライの鍵に手を伸ばそうとしたルークを制すると、アッシュは柄を掴んで鍵を自分の手の中におさめた。
「お前は怖くないのか?」
「怖いよ」
「じゃあなんで、そんな平気な顔をしている」
「信じているから」
 当たり前のように返された答えに、アッシュは目を瞠った。
「前にレムの塔で、二人で障気を中和しただろう?あの時、本当なら俺も他のレプリカたちと一緒に消えるはずだった。だけど、アッシュが手伝ってくれたから、俺は生き残った……」
 ルークの、アッシュと同じ色をした瞳が、まっすぐとアッシュの瞳を捕らえる。
「だから、きっと今度も成功するって俺は信じている」
「なんの確証もなくてもか?」
「もしダメでも、アッシュに殺されるなら俺は別にかまわない。いま俺の中にある命は、アッシュからもらったものだしな。だから、もしだめだったとしても、それは俺が選んだことだから。ジェイドも、わかっているよな……?」
 突然話を振られたジェイドが、遠目にも苦笑を浮かべているのがわかった。
「アッシュには酷いこと言っているって、わかっている。でも、お前にしかできないことだから、だから頼む」
 見つめてくる瞳には、何の曇りもない。そこに強い意志があることを読み取り、アッシュは小さく舌打ちした。
「……だったら、今度はてめえが約束しろ」
「え?」
 唐突なアッシュの言葉に、ルークはきょとんと目を丸くした。
「今度は、てめえが死なないと約束しろ」
「あ……」
 エルドラントで叫んだ、最後の約束。
 ナタリアは、アッシュは約束が嫌いだと言っていた。だから指切りもしないし、約束をほのめかすようなこともしない。それなのに、いまアッシュは自分に約束をしろと言っている。
「わかった、約束してやる」
 自分は上手く笑えただろうか。
 ルークは心の中でそっと自問すると、大きく息をついた。
 そして少し後ろに下がると、アッシュの正面に立った。
 同じく後ろに下がったアッシュが、右手でローレライの鍵を構える。先ほどまでの激しい感情が嘘のように、ルークを見つめるアッシュの瞳は静かだった。
「……もしお前が死んだら、俺は一生その事実を背負ってやる」
 アッシュは口角をあげて、不敵な笑みを作った。
「狡いな」
 ルークの顔が、泣き笑いをしているように歪む。
 そんなことを言われたら、何が何でも死ぬわけにはいかないではないか。
 自分がアッシュの手にかかって死ぬことになれば、彼は一生その罪を背負ってゆくと自分を脅しているのだ。
 アッシュらしい、素直じゃない言葉。だけどいまは、それが何よりも一番自分を勇気づけてくれる。
『……決心はついたか?』
「ああ」
 ルークの声に応えて、ふわりとローレライが二人の頭上へと移動する。
『大切なのは、お前たち自身の願いだ。願う心が強ければ、それだけ契約の力は強くなる』
 生きたいという願い。生きて欲しいという願い。
「行くぞ」
 アッシュの声に応えるように、二人のまわりに複雑な鳥のような模様の譜陣があらわれる。そしてそれが淡いエメラルド色の光を放ちはじめると、譜陣の中にすさまじい力があふれるのがわかった。
 力の奔流に巻き上げられた白いセレニアの花が、記憶粒子のように宙を舞う。
 無意識にとはいえ、一度は出来たことだ。
 宝珠を体の中に入れたときのことを思い出せ。
 ルークの体がゆっくりと淡い金色の光を放ちはじめる。それを確かめてから、アッシュは左手も柄に添えて両手で鍵を掴んだ。
 一歩、また一歩とたがいの距離が縮まってゆく。
 夜なのにそこだけ明るく輝く譜陣の中で、ローレライの鍵を構えているアッシュの手が微かに震えているようにルークには見えた。
 怖いのは自分だけではない。そう思うと、自然と体の震えが止まった。
 死にたくない。生きたい。
 心が煩いほどにそう叫んでいる。
 いつだって口では覚悟を決めたようなことを言いながら、心だけは本当の自分を裏切ることなくみっともなく叫んでいる。
 みっともなくて、臆病で。
 だけどそれこそが自分なのだと、ルークは今では思っている。
 切っ先があがり、ルークの左胸にむけられる。
 アッシュの顔が、戦うときのような猛々しい表情に変わった。二人を取り巻くエネルギーの奔流がさらに勢いを増す。
 目がくらみそうな光の洪水の中、ルークは黒い刀身が自分の左胸に突き立てられるのを見た。
 まるでそこがおさまるべき鞘なのだとでも言うように、その漆黒の剣はルークの体を背中まで貫いた。
 貫かれた心臓が直接火で炙られているように熱く、鈍い痛みがそこを中心に広がってゆく。
 自分の体を作り上げているすべての細胞が、拒絶するように叫んでいる。
 バラバラになってしまいそうな痛みにへたり込みそうになった体を、強い腕が抱き止める。
 ルークが痛みをこらえながらなんとか目を開くと、すぐ目の前にアッシュの顔があった。作りは自分と一緒のはずなのに、違って見えるその顔。その顔が、怒ったように自分を見ている。
 無意識のうちに伸ばした腕をアッシュの背にまわし、ルークは自分から抱きつくようにしてさらに深く漆黒の剣を自分の体にのみこませた。そのルークの行動に、抱きついた体が一瞬大きく震えたのが全身で感じられた。
 顔を見たくて視線を上げると、自分を必死に抱きしめているアッシュの顔が見えた。
 怒ったような、それでいて必死なその顔。だけどその顔の下に、今にも溢れ出しそうな激しい感情が渦巻いているのがルークには感じられた。
 自分を抱きしめているアッシュの手が震えている。そして、微かに動く唇が音にならない言葉を紡ぐ。
『帰ってこい』と。
 力の流れが、体の中で逆転した。
 大きな力の塊が、無理矢理犯すような強引さで体の中に入り込んでくるのがわかる。
 すべてが上書きされるような、何も変わらずただ新しく生まれ変わってゆくような、そんな不思議な感覚がつま先から頭の天辺までを駆け抜けた。
 異物を拒んでいた細胞が、新しい力に満たされてゆく。
 貫かれたはずの胸と背中が灼けるように熱くなり、疼くような感覚が体内を駆けめぐる。
 心臓の中で、もう一つ別の心臓が動きはじめたような鼓動を聞きながら、ルークはその音に合わせるように強くなる光に、そっと目を閉じた。





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あと一回かな。