自鳴琴・1




 水底から浮かびあがるような浮遊感を感じながら目を開くと、暗い視界の中にいくつもの小さな光が瞬いていた。
 それが星空なのだと気がつくと同時に、風の音や水の匂いが一気に押し寄せてくる。しばらくの間ぼんやりとそれらをただ感じるままにしていたアッシュは、突然我に返ると勢いよく起き上がった。
 くらりと歪んだ視界に顔をしかめ、軽く頭を押さえる。
 目を閉じ、深呼吸を一つしてからそろそろともう一度目を開く。
 今度は夜露に濡れた草が視界に入ってきて、アッシュは大きく瞬きをくり返した。

 ──自分は、死んだはずだった。

 死んだ瞬間のことも覚えているし、第一あれだけの怪我を負って生きているはずがないことは、自分が一番良くわかっている。
 しかし、ここは音譜帯にも冥界にも見えない。それどころか、なんとなくだが覚えのある景色のようにも思えた。
 空を見上げれば、大きな月が浮かんでいる。
 周囲がよく見えるのは、どうやらこの月のおかげらしい。
 アッシュはあらためて周囲を見回すと、いま自分が置かれている状況の確認に入った。
 どういうことなのか分からないが、自分は生きているらしい(それは何度も手をつねってみたりして確かめてみた)。
 一番初めに気になったのはあの戦いはどうなったのかと言うことだったが、どうしてか、あの自分のレプリカはやり遂げたのだとすぐに納得できた。
 この世界は滅びなかった。
 そしてローレライも解放され、音譜帯にもどったのだと。
 ふと気付いて自分を見下ろすと、なぜか着慣れた教団服ではなく覚えのない服に身を包んでいる。
 いつも身につけていた黒い教団服ではなく、まるでレプリカのような白い上着。それに自分でも気付かぬうちに顔をしかめながら、アッシュは立ち上がった。
 そこは緩やかな傾斜が続く、草原だった。
 微かに水の音と匂いがするところをみると、近くに川があるのだろう。
 周囲は切り立った崖に囲まれていて、その上に空が見える。おそらくどこかの渓谷だろうとあたりをつけると、アッシュはとりあえず川の音のする方へ足を踏み出した。
 そういえば剣はと腰を探れば、いつものように左側に帯剣しているのがわかった。無意識のうちに柄をさぐりながら見下ろして、ぎょっとする。そこには、確かにルークに託したはずのローレライの鍵が元のようにおさまっている。
 じりじりとこみ上げてくる嫌な予感に、アッシュは無意識のうちに自分の髪を手にした。月明かりの中ではっきりとはしないが、赤い色を持っていることだけはわかる。だけどそれがどんな赤なのかまでは、分からない。
 まさかという焦りに似た予感が、じわじわと膨れあがってゆく。
 死んで消えるのは、自分だったはずだ。
 少しずつ自分の中から音素が流れ出し、それが自分のレプリカに流れこんでゆくのをアッシュはずっと感じていた。
 自分の居場所を奪われただけではなく、その存在すらもあのレプリカに喰われるのだと初めて知ったときは、あらためて殺してやりたいとも思った。
 だが、運命は変えられない。
 ルークを殺しても、どのみち自分も死ぬ運命にある。それなら欠片でもいいから自分という存在を残し、自分はその一部になろうと思っていた。
 それなのに、どうして自分はここにいるのだろう。
 大爆発が回避されたなどという、楽観的な考えは持てなかった。
 だが、今の自分は衰える前の自分とほとんど変わらない力を持っている事が分かるし、それどころか以前よりも力が体に満ちているのが分かる。
 そう、なにもかも元に戻ったかのように。
「まさか……」
 思わずこぼれた呟きに、答える者はない。
 アッシュはどんどん膨れあがってゆくある予感に、押しつぶされそうだった。



 どれくらい歩いただろうか。
 ただ水音に引かれるままに歩いてきたアッシュは、ふと先の方に何かの気配があることに気がついて、反射的に剣に手をやった。そして気配を消しながら足音を忍ばせると、いつでも剣を抜けるように身構えながら前に進む。
 その時、強い風が草原を吹き抜けた。
 黒い波のようにうねる草の中、まるでその中に紛れるようにして一瞬だけ赤い色彩が覗く。
 血の色にしては明るい、赤い色彩。
 その色を目にした瞬間、アッシュは自分でもわけが分からないままに走り出していた。
 足音を消すことも忘れ、ただひたすら走る。
 丈のある草が足に絡みつくのに舌打ちしながらもようやくそこにたどり着くと、アッシュはその場に立ちつくした。
 なぎ倒された草の上、うつぶせに倒れているために顔は分からないが、その髪の色をアッシュが見間違えるはずがなかった。
「おい!」
 抱き起こして顔を覗きこめば、ぐったりとしながらも息はあるようだった。そのことにほっとしながら、そう感じる自分をアッシュはすこしだけ不思議に思った。
 しかしとりあえずはこのレプリカを起こすのが先決とばかりに強く揺さぶるが、一向に目を覚ます気配がない。
「おい! 起きろ、レプリカ!」
 さらに強く揺さぶると、ようやくため息にも似た声がルークの唇から漏れた。
 微かに睫が震え、ゆるゆると新緑色の瞳があらわれる。目覚めたばかりのせいか、ぼんやりと潤んだ瞳に見上げられてぎょっとするが、何度か瞬きをくり返した瞳に光が戻ると、ルークは不思議そうにアッシュの顔を見上げてきた。
「……アッ…シュ?」
「ようやく起きたか……」
 頭でも痛むのか、額を片手で押さえながら起き上がったルークに、アッシュは小さくため息をもらした。
「どこ……?」
「俺の方が知りたいくらいだ」
 突き放したような口調になってしまうのは、もう条件反射みたいなものだろう。一応あの時に認めると言ったとはいえ、意識を切り替えることはそう簡単にはいかない。
「何があった?」
「なに……?」
 ぼんやりとした口調で鸚鵡返すルークに、アッシュは小さく舌打ちした。どうやらルークの方も、この状況が分かっていないらしい。
「仕方ねえ……、とりあえず人のいるところまで出るぞ。いいな」
「……うん」
 やはりぼんやりとした返事しか返ってこないルークに、もともと気が長いとは言えないアッシュは苛立ちながらルークを睨みつけた。その鋭い視線に、怯えたようにびくりとルークが肩を震わせる。
 まるでこちらが虐めてでもいるかのようなその反応に、さらに苛立ちがつのる。だがこれ以上余計なことで時間を取りたくなかったので、アッシュは舌打ちするだけにとどめた。
「ぼさっとしてんじゃねえ、行くぞ」
 ともかく。自分もだが、こんな惚けた状態のルークを、このまま置いてゆくわけにも行かないだろう。
 まったく世話がやけると苦々しく思いながら立ち上がろうとしたアッシュは、衣服を引っ張られる感触に気づいて、忌々しげにルークを見下ろした。
「なにしてやがる。放せッ!」
 思わず声を荒げると、びくりとアッシュの服の裾を掴んでいたルークの手が震える。だが、震えるだけで放そうとはしない。
「てめえっ! いいかげにしろっ!」
 さすがになけなしの忍耐も切れて怒鳴りつけると、めいいっぱい開かれた新緑色の瞳からぼろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
 予想もしていなかった反応にぎょっとして固まるアッシュをよそに、ルークの瞳からは後から後から涙があふれてくる。
 泣くなと怒鳴りつけることも出来ず、アッシュはただ呆然とその顔を見下ろした。
 きまずい空気の中、次第に震えるような泣き声があたりに響き渡りはじめても、アッシュはその場から動くことが出来なかった。


→NEXT(07/07/25)(改訂:08/06/24)


一応ギャグじゃないはずです…。