カノン・10




 アルビオールがケセドニアの上空を通過する頃には、天候は最悪の状態に近づきつつあった。
 飛びはじめてすぐに降り出した雨も、はじめは砂粒がぶつかるような乾いた音を立てていたが、いまではまるで弾丸のような勢いで強化ガラスの窓を叩いている。
 横殴りの風になんども流されそうになりながらも必死に操縦桿を握るギンジの顔からは、完全に笑みが消えていた。
 ときおり突きあげるような振動があり、いやな音を立てて機体が軋む。
 旅のあいだにも何度かこんな悪天候の中を飛んだことはあったが、ルークは徐々にふくれあがってゆく不安感をすこしでもやわらげようとジェイドの隣に移動した。
 いつもならそんなルークをからかうジェイドもそれには何も言わず、真剣な顔つきで窓の外と操縦席のギンジを交互に見つめている。
 その横顔をぼんやりと見つめていると、視線に気づいたのかジェイドがふり返った。
「ノエルもですが、彼の操縦技術もすばらしいですね」
 ジェイドはそういうと、めずらしく子供を安心させるようなやわらかな笑みを見せた。
「この三号機は、私たちの使っていた二号機と違って錬成飛譜石を載せていません。それなのにこれだけ嵐の中を飛ぶことが出来るのは、彼の技術が優れているおかげですよ」
「うん……」
 きっと、今の自分は随分とひどい顔をしているのだろう。しかし自分の顔色が悪いのは、この天候が不安なせいだとジェイドは思っているらしい。
 もちろんそう思われていた方が余計な詮索をされないですむのでありがたいので、ルークもあえて否定しない。だが本当に怖いのは、この天候ではなく過ぎ去ってゆく時間の方だった。
 天候があやしくなりはじめた頃、実は一度ギンジから遠回しにどこかでやり過ごした方がいいのではないかという提案がされた。
 しかしルークはそれを拒否した。
 もっとも、ギンジの方もそのときはそこまで真剣な物ではなかったらしく、急ぎたいからというルークの言葉に笑って頷いてくれたのだ。
 もともと、アッシュの無茶をきいてエルドランドに突っ込むような無謀なことをやり遂げる彼である。腕に自信があるのも確かだろうし、出来る限りルークの意向をかなえたいとも思ってくれているのだろう。今もぎりぎりのところで頑張ってくれているのがわかる。
 また、大きく機体が軋む音がした。
 限界に機体が悲鳴を上げているのがわかる。それでもルークは、自分からもう飛ばなくて良いとは言いだせなかった。


「限界です……」
 しばらくして、呻くような声が操縦席から聞こえてきた。
「このまま飛び続けたら、たぶん機体自体がバラバラになります」
 どこか悔しそうなギンジの声に、隣に座っているジェイドが自分の方に視線を向けるのがわかった。
「海は……?」
「ダメです。こう荒れてちゃ、かえって海の方が危険です。高波にさらわれる恐れがあります」
 どうしても諦めきれずにそう呟いたルークに、もうしわけなさそうにギンジが唇を噛むのが見えた。それでも諦めきれずに何か言おうとしたルークの肩を、ジェイドが掴んだ。
「彼の言うとおりです。ここは一度どこかで嵐を避けた方がいいでしょう。それとも、なにかどうしても急がなければならない理由があるのですか?」
 眼鏡の奥にある赤い瞳が、なにかを探ろうとするようにのぞき込んでくる。ルークはそれに何も応えられず、うつむいた。
「決まりですね。お願いします……」
 最後の部分はギンジにむけて言うと、ジェイドの手がルークの頭をひとつ撫でた。
 そのやわらかな優しさに、ルークは泣き出しそうになる自分を誤魔化すために強く目を閉じた。




 そこから一番近くにあった街の外にアルビオールを着陸させると、ルークはこのまま自分一人でも街へ向かうことを二人に告げた。
 当然のことながら二人ともルークを引き留めようと説得してきたが、最後にはジェイドが自分を連れて行くことを条件にして折れた。
 ギンジは貴重なアルビオールをこのままにしておくわけにはいかないので残ることとなり、こちらが罪悪感を感じるほど真剣に謝ってくれた。
 嵐は、先ほどよりもますます激しくなったようだ。
 歩いていても油断すると吹き飛ばされそうなほどの横殴りの雨と風が、外に出た二人の体を叩いた。
 マントを頭から被りながら、二人は黙々と街への道をたどった。
 衣服が雨を吸い、だんだん重く体にからみついてくる。ブーツの中にも雨水が入り込んできて、歩くたびに足の裏に気味の悪い感触が伝わってきた。
 焦燥感からか、気持ちばかりが先に進んでしまい、何度もぬかるみに足を取られそうになる。
 何度目かに転びそうになったとき、強い力で腕を捕まれた。
 あまりに何度も転びそうになるルークに見かねたのか、ジェイドはそのままルークの腕を掴むとしっかりとした足取りで先に立って歩きはじめた。
 冷たく激しい雨の中、自分よりも体温が低いはずのジェイドの手が、なぜかとても温かく感じられる。
 雨の中で手を引かれて歩くなんて、まるで子供のようだと思ったが、その温かさに胸のあたりが熱いモノがこみ上げてきたように苦しくなる。
「明かりが見えます…」
 はっとして視線をあげると、たしかに言われたとおり遠くにぼんやりと明かりが見えた。
「急ぎましょう」
 ジェイドはルークの手を握ったまま、明かりの方へむかって歩きはじめた。
 ルークもはやる心をなんとか押さえつけながら、その後に続く。
 自分がとんでもない我が儘を言っている自覚はある。だけど、一刻も早く自分は彼の元に戻らなくてはならないのだ。

『もし、間に合わなかったらどうしよう』

 ふと、そんな考えが一瞬だけ頭をよぎる。
 そう考えただけで、目の前が真っ暗になるような気がした。
 絶対に、そんなことはあってはならない。だから一分でも一秒でも早く、自分は彼の元に帰らなくてはならないのだ。
 どんなことをしてでも。




 街の宿にようやくたどり着くと、出迎えてくれた宿の主人は二人の姿を見て目を丸くした。それから先に暖炉の前に行くように言うと、乾いたタオルを差しだしてくれた。
 しかしルークはそれを受け取るのももどかしげに前に出ると、主人に馬車の手配をしてくれるように頼みこんだ。
「あんた正気かい?こんな嵐の中を出て行くなんて」
 主人は呆れたような声をあげてまじまじとルークの顔を見つめると、行き先を聞いてさらに顔をしかめた。
「バチカルへは、行けないよ」
「なんでだ!?」
「この嵐で、途中にある崖が崩れたんだ。ついさっきそっちに向かった馬車が引き返してきたばかりだ」
 主人は気の毒そうにそう言うと、小さく肩をすくめた。
「歩いて行くにもこの嵐だし、また途中で崖崩れが起こるかもしれねえ。悪いことはいわねえ。おとなしくここで嵐が通り過ぎるのを待った方が良いと思いますよ、お客さん」
「……ここからバチカルまでは、歩いてどのくらいかかるんだ?」
「ルーク」
 なおも主人に食い下がろうとしたルークに、ジェイドの鋭い声が飛んだ。
「いいかげん馬鹿なことを考えるのはやめなさい。明日の朝になればこの嵐も通り過ぎるはずです。そうすれば、アルビオールですぐにもバチカルへ入ることができるでしょう。……それに、私はあなたを無事にバチカルに送り届ける役目を負っています。そんな無茶を見過ごすことはできません」
「でも……!」
「逆にお聞きします。どうしてあなたはそんなに焦っているのですか?」
「それは…」
 静かに探るような目をむけられて、ルークは言葉に詰まった。こんなとき、上手く誤魔化すことのできない自分が情けなくなる。もっとも、ジェイドを前にしてしらを切り通せるだけの図太い神経の持ち主は、そうはいないだろう。
「あなたは嘘がつくのが下手だと、前にも言ったでしょう?正直に話しなさい」
 優しくさとすような口調が、なぜか逆に追い詰められているような気分にさせる。
 だけど。
「……言えない」
 ルークを見つめているジェイドの赤い瞳が、すっと細められる。
「でしたら、私もあなたの要求をきくわけにはいきません」
「ジェイド!」
 ルークは目の前にある涼しい顔を睨みつけると、くるりときびすを返してそのまま宿の入口へ向かおうとした。
 ジェイドは素早くその前に回りこむと、ルークの腕を掴んだ。
「放せよっ!」
 捕まれた腕を振り払おうとするが、逆にもう片方の腕も捕まれて押さえこまれてしまう。至近距離でのぞき込んできたジェイドの瞳をきつくにらみ返すと、なぜか笑みが返された。
「あなたがそれほどまでに必死になる理由は、たったひとつですね。……何を隠しているんですか?ルーク」
「……ジェイドには関係ない!」
「おや、冷たいですね。それなら勝手に想像して差しあげましょうか。あなたが隠しているのは、アッシュとあなたに関することですね?」
 思わずびくりと反応してしまってから、しまったと心の中で舌打ちする。これでは、その通りだと認めたようなものではないか。
「やはりそうですか……」
「わかったんだったら、この手を放せよ!」
「いいえ。それだけでは、理由になりませんよ。なぜあなたはそんなにまでしてバチカルに帰りたいのですか?」
「それは……」
 言わないと、約束したのだ。
 自分たちのあいだに何が起こっているのか。そして、そのために自分たちがどんな関係を結んでいるのか。
 頑なに口をつぐむルークに、ジェイドは小さく肩をすくめた。
「そうも強情を張られると、こちらも強硬手段を取らざるを得ないようですね。なんでしたら、譜術で動きを封じて差しあげてもよろしいのですが?」
「冗談じゃねえ!」
 笑いながら言っているが、ジェイドはいざとなれば本気でしかけてくるだろう。そういうところでは、容赦がない相手であることをルークはよく知っている。
 早くここから逃げ出さなければ。
 ここを出て、アッシュの元に行かなければ。
 自分が間に合わなかったら、彼が消えてしまうかも知れない。
 またあの時のように彼を失うなんて、耐えられない。
「ジェイド、事情は後で説明する。とにかく、俺は行かないとダメなんだ…!」
 ルークはありったけの力でジェイドの手を振り払うと、扉の方へ走った。
 ジェイドの制止の声が背中にかかる。それに追いつかれまいとするように走り、ルークはそのままの勢いで扉を開こうとした。
(……え?)
 取っ手に手をかけた瞬間、突然視界が狭まったような奇妙な感覚を感じた。
 ルークはとっさに扉にすがるように手をつくと、いきなり動かなくなった自分の足を戸惑ったように見下ろした。
 まるで沈み込んでゆくような重さと、それとは反対の上に引っ張られるような奇妙な感覚。
 体の中の音がずれてゆく。
 熱に浮かされたような、それでいて体の奥底から凍り付いてゆくような何か。
 この感覚を、ルークは知っている。
 かつて身近に感じていた、恐ろしい感覚。
 だけど、なぜいま自分にそれが起こっているのだろう。


 どこか遠くで、誰かが叫んでいる声が聞こえたような気がした。
 あえぐように息を吸おうとするが、まるで呼吸のしかたを忘れたかのように息が出来ない。
 触れているはずの扉の、堅い感触までわからなくなってくる。
(どうして……?)
 視界が歪み、色彩が消えてゆく。
 そして、すべてが途絶えた。

 

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