カノン・11




 その時、誰もが一瞬その場を動くことが出来なかった。
 それはジェイドも例外ではなく、ルークを追いかけようと一歩踏み出したところで動けなくなってしまった。
 まるでネジの止まった人形のようにいきなり動きを止めたルークの様子はあきらかに異常で、そのまま崩れ落ちるように後ろに倒れこむ様子も、まるでコマ送りで映像を見ているような錯覚を感じさせる。
 ふわりと、白く長い上着の裾がひろがる。このままでは床に倒れこんでしまうとわかっていても、あまりに突然の出来事すぎてジェイドが反応できずにいた。
 あと少しで床に背中から激突するというところで、突然宿の中に激しい風と雨が吹きこんできた。
 とっさに手をかざしたその一瞬のあいだに、視界の中に誰かが飛び込んできたのが見えた。その誰かはルークの腕を掴むと、背中からすくいあげるようにして抱き上げた。
 激しい風の中、吹き飛ばされたフードの中から長い髪が舞う。
 色は、鮮烈な赤。
 その色だけで、ジェイドは彼が誰なのか理解していた。



 激しい音を立てて扉が閉められると同時に、宿の中を吹き荒れていた風もやんだ。
 扉の前には黒いマントをまとったアッシュが、横抱きにルークの体を抱きあげて立っていた。
「おい!空いている部屋はあるか?」
 突然の出来事に呆けたように彼らを眺めていた宿の亭主に、アッシュの鋭い声が飛ぶ。まだ状況を理解できていなかった亭主はいきなりあらわれた彼に目を白黒させていたが、アッシュが一睨みすると慌てて二階の一室の番号を答えた。
 アッシュはそれに応えることなく、ルークを抱えたまま慌ただしく階上に消えた。
 その様子をぽかんとしたまま見送っていた亭主に、ジェイドは苦笑いを浮かべた。
「もうしわけありません。彼も連れです。……それと、いま見たことはできたら他言無用に願います」
「へ?」
「お気づきになりませんでしたか?彼らの髪の色に」
 一瞬視界の中をかすめた、二つの赤い色彩。その意味するところに、ようやく気づく。
 亭主の顔色から、ようやく彼が事情の一端をのみこめたことを判断すると、ジェイドは見るものがすべてを忘れたくなるような綺麗な笑みを浮かべた。
「ご理解いただけたようでなによりです。それと、もう一部屋用意していただけますか?できれば近い部屋を」
 亭主が首振り人形のように何度も頷くのを確認すると、ジェイドは軽く眼鏡を押さえて階上を見あげた。
 そして、軋む階段を彼らの後を追ってゆっくりとのぼっていった。



 亭主に告げられた部屋の扉を乱暴に足で蹴り開けると、アッシュはルークの体をベッドの上におろした。そしてそのまま覆い被さるようにしてのしかかると、激しく唇をあわせた。
 指と指をあわせ、意識のないルークの唇を開かせて深く口内をさぐる。
 触れあった指先がかすかに燐光を放ち、細かい光の粒子が舞う。
 音を立てて何度も唇があわせられ、たがいの呼吸も交わされる。唇が交わされるたびに苦しげな呼吸が甘くやわらかなものにかわり、血の気のひいた指先に赤みがさす。
 どれだけのあいだ、激しいキスを交わしていただろう。最後に一度柔らかく唇を吸うと、アッシュは絡み合わせた指はそのままに、ようやく上体を起こした。
「のぞきとは、趣味が悪りいな」
「扉を閉め忘れたのはあなたでしょう?いや、熱烈なラブシーンを見せていただきました。年寄りには少々刺激が強いですね」
 戸口から飄々としたジェイドの声が聞こえてきたのに、アッシュは不機嫌な様子をまったく隠さずに背後をふり返った。
「ふざけやがって」
「……それで、ルークは大丈夫なのですか?」
 同じような口調でいながら、どこかに真剣な色を混ぜたジェイドの問いにアッシュは眉間に皺を寄せた。
「ひとまずはな。最低限の応急処置はした」
「そうですか」
 ジェイドは部屋に入ってくると、ベッドの脇で足をとめた。
 ぐったりとベッドに横たわったままのルークの手は、アッシュの手としっかりと繋がれている。その手が淡い光を放っているのを見て、ジェイドはかすかに目を細めた。そして問いかけるような目をアッシュにむけ、ゆっくりと口を開いた。
「詳しいお話を、聞かせていただけますね?」
「どうせ、無理やりにでも聞き出すつもりだろうが」
「話が早くて助かります」
 食えない笑みを浮かべたジェイドに、アッシュは小さく舌打ちした。
「もうすこしかかる。どうせ隣に部屋を取っているんだろう?」
「ええ。それでは、あちらでお待ちしています」
 ジェイドが部屋を出て行くのを見送ると、アッシュはルークの手を握っている手に力をこめた。
「……くそっ」
 ぴくりとも動かないルークの手を握りしめながら、アッシュは小さく呻いた。
「消えるな…」
 まるで祈るような声でそう呟きながら、アッシュは空いている方の手でそっと優しくルークの髪を撫でた。
「消えるな、ルーク……」
 髪にキスを落とし、もう一度唇を吸う。
 優しく、確かめるようにそっと唇を舌でたどる。
 やわらかな唇の感触に、甘い髪の匂いに、それだけで胸がいっぱいになる。
 ルークの手を握る手の指がかすかに震えていることに気づいて、アッシュは苦笑いした。
 恐ろしかった。もう、間に合わないかと思った。
 この手からこの愛しい存在がすり抜けていってしまうのではないかと、本気で恐れた。
「俺の命は、いくらでもくれてやる。だから…」
 だから、消えないでくれ。
 もう二度と。
 祈るような強さで、そう願った。




「なにからまずお聞きしましょうか?」
 食えない笑みを浮かべて自分を見ているジェイドに、アッシュは険しい表情で相手を睨み付けた。
 しかし、もちろんジェイド相手には、その睨みもまったく効果がない。薄く笑みを浮かべたまま自分が切り出すのをまっているジェイドに小さく舌打ちすると、アッシュはゆっくりと口を開いた。
「テメエが知りたいのは、あいつの今の状態だろう?」
「もちろんそれが最優先事項ですが、できればすべてをお聞きしたいですね」
 すっと赤い瞳が細められる。
「本来ならあなた方は二人で戻ってこれたはずがないことは、私が一番よくわかっています。信じたくなかったのは、事実ですが……」
 そこでジェイドは一度言葉を切ると、まっすぐアッシュを見かえした。
「大爆発は、どうなっていますか?」
「それはすでに解決済みだ。問題はもっと別なところにある」
「別なところ、ですか」
 促すような視線に、アッシュはため息混じりに口を開いた。
「……細かい説明は必要ないから省くが、本当は俺だけがこっちに戻される予定だった。テメエの仮説どおりな。だが俺はそれを拒否した。すでに俺たちは別々の人間なのだから、なんの不思議もねえだろう」
「意外ですね、あなたがそれをあっさりと認めるとは」
 からかうようなジェイドの口調に、じろりと一度アッシュがジェイドを睨みつけた。
「そこでローレライは、俺たちを別々に構成しなおそうとした。俺は一度死んでいたが体は残っていたからな、すぐに再構成出来た。だが……」
「ルークは、完全に音素乖離してしまっていた」
 あの当時の彼の状態を考えると、それはなんの不思議もなかった。もうすでに死が間近に迫っていたあの体で、ローレライの解放などという大きな力を使う儀式に耐えられるはずがなかった。

「音素乖離していたとはいえ、ローレライの奴はあいつを構成していた音素をひとかたまりにして抱えていたから、再構成にはそう時間はかからなかった。問題は、その後だ。……レプリカは第七音素のみで作られているが、あいつは自分の体の中で第七音素が作り出すことが出来なくなっていた」

 レプリカが自力で第七音素を作り出すことが出来ないということは、そのまま緩やかな死が訪れることを意味している。予想していたよりも悪い事実に、ジェイドの眉がかすかにひそめられる。
「音譜帯にいるあいだは第七音素に取り囲まれている状態だから、形を維持することは難しくない。だが地上ではそのまま放っておけば、また音素乖離を起こして消滅する。それから逃れるには、定期的に外部から第七音素をとりこむしかない」
「外部から、ですか……」
「ああ。一番良いのは同位体の俺の音素をあいつに分けることだ。一番なじみが良いし、もともと俺のレプリカだからな。一番量も少なくてすむ」
 だから、嵐がひどくなるにつれていても立ってもいられずに屋敷を飛び出したのだ。ルークを騙して必ず今日帰ってくることを約束させたが、この嵐ではとうていバチカルまでたどり着けるとは思えない。
 いや、ルークのことだからこの嵐の中を歩いてでも自分の元に戻ろうとするだろう。
 だが、もしたどり着けなかったら。ここにたどり着く前に力尽きてしまったら、自分は彼を永遠に失うことになるのだ。
 だから、無謀とは思いながらもアッシュは嵐の中を駆けた。途中までは馬を駆り、その後はただひたすらここまで走った。わずかにつながる、自分たちのつながりをたどりながら。
 そして、ぎりぎりのところで自分は間に合ったのだ。
「ですが、それがあなたの体に全く影響を与えないとはとうてい思えませんが?」
 探るような目をむけてきたジェイドに、アッシュは苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「……本当に、嫌なことだけには勘の良い野郎だな」
「思慮深いといっていただきたいですね」
「たしかに、あいつに音素を分けている分俺の体には負担がかかっている。だが、それ以外にどうしろというんだ?」
「他に、方法はないのですか?」
「あるにはあるが、そっちの方がもっとあいつには残酷だろう」
 アッシュはさらに眉間の皺を深くすると、呻くような声で続けた。
「……あいつが正常に生きてゆくには、一定の間隔で俺が必要な音素を分け与えるかレプリカ一人分の音素を食らうかどっちかしかねえ。おまえに、あいつに自分が生きるためにレプリカ達を犠牲にしろと言えるか?」
 最後はまるでたたき付けるような口調でジェイドに問いかけると、アッシュは唇を噛んだ。
「あいつの性格は、おまえらが一番よく知っているはずだ。自分が生きるためには誰かを犠牲にしなくちゃならねえなんて、耐えられるわけがねえ」
「だから、あなたは自分がルークの音素を必要としていると嘘をついたんですね」
 ようやく、どうしてあんなにルークがバチカルに帰ることにこだわっていたのか、ジェイドは理解できた気がした。自分が戻らなければ、いま目の前にいる彼が消えてしまうとルークは信じていたのだろう。
 ルークがアッシュに特別な感情を持っているのは、あの旅の最中でも強く感じられた。それはレプリカと被験者のあいだにあるジレンマのようでもあり、ルークにとっては自分の存在を確かなものにするための認められたい対象でもあった。
 たとえるなら、自身の中にある神のような存在だったのだろう。ルークにとっては。
 だから、あれだけ必死になっていたのだ。
「ですが、さすがにもう誤魔化すことは無理だと思いますよ…」
「ああ、明日になったらあいつに全部話すつもりだ」
「最後にもう一つ、聞いても良いですか?」
 ジェイドは眼鏡の位置を直すと、まっすぐアッシュの瞳を捕らえた。
「あなたは、それでもルークをこのまま生き延びさせたいと思いますか?」
 一瞬、何を聞かれているのかわからないという顔をアッシュはした。だがそれは彼にとって理解できない問いだったからというわけはない。むしろ、なぜそんなことを聞かれるのかわからなかったのだ。
「愚問だな」
 だから、答えはその一言。それだけだった。



 だがその翌日、ルークは彼らの前から忽然と姿を消したのだった。


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