カノン・9




「招待状、ですか……?」
 きょとんと目を瞠りながら問い返したルークに、彼らの父親であるクリムゾンは小さく頷いた。


 夕刻城から帰ったばかりの彼に呼びだされて渡されたのは、一通の封書だった。
 同じように呼びだされたアッシュではなく自分に差しだされたそれに小さく首を傾げながらも、ルークは美しい飾り文字で書かれた自分の名前を見てから裏に返した。
 そこにあったのは、懐かしいひとつの名前。しかしそこには正式な刻印はなく、使われている紙などもたしかに高級なモノではあったが、差出人が使用するには随分と粗末なものだった。
「ピオニー陛下からだ……」
 その名に隣に立っているアッシュがぴくりとそれに反応したのに気がついたが、ルークは驚きの方が先に立って、問いかけるように父親の顔を見た。
「今日、城の方へ届いた。おまえをマルクトへ非公式に招きたいそうだ。公にするとなにかと大げさになるからお忍びでとのことだが、陛下への親書の中にその旨を打診する文書とともに添えられていたそうだ」
 ルークはもう一度自分の手の中にある封書の見てから、おもむろに中身を取り出した。
 封がされていないのは、誰に見られても困るようなものではないからだろう。中には封筒と同じように簡素なカードが一枚きり。そこには『一度顔を見せるように』との一言が、いかにもかの陛下らしい力強い筆跡で書かれていた。
「非公式とはいえ、皇帝陛下のお招きだ。どうする?ルーク」
「……ピオニー陛下にはお世話になりましたし、出来ればお目にかかりたいと思います」
「まあ、そうするのが妥当だと思うがな。私も」
 嬉しさを押さえきれないような顔で封書を見つめるルークに苦笑しながら、クリムゾンはアッシュへ視線をむけた。
「おまえはどうする?」
 クリムゾンの言葉に、はっとしたようにルークは傍らのアッシュの方をふり返った。
「招かれているのはルークだけなのでしょう?私はこちらに残ります」
「たぶん、陛下のことだからアッシュが行っても気にしないと思うけど…」
「そういう問題じゃないだろう」
 ひややかな答えに、ルークは嬉しさのあまり即答してしまった自分の迂闊さを悔やんだ。
「では、明日陛下にそうお伝えしておく。二人とも下がりなさい」
 また夕食の席で、と以前とは違って優しい表情を浮かべる父親に一礼すると、二人は書斎を出た。



「アッシュ、待てよ!」
 書斎を出るなり先に立って歩きはじめたアッシュを、ルークは追いかけた。
「なんだ?」
「その、ゴメン……勝手に答えちゃって」
 冷ややかに見つめてくる瞳に耐えきれず、ルークは視線をさげた。
「まったくだ……。おまえは自分の立場がわかっていない」
 呆れたようなその声に、ずきりと胸が痛む。
「……俺、父上に断ってくる」
 そのまま顔をあげずにきびすを返そうとすると、強い力で引き戻された。
 アッシュの手が、乱暴にルークの顎を掴んで上向かせる。それにさからわず顔をあげると、予想していたとおりに不機嫌そうに細められた翡翠の瞳が自分を見つめていた。
「馬鹿言え。仮にも相手はマルクトの皇帝だ。それに、一度承諾したことを簡単に断れるはずがないだろう。なにかと勘ぐられる」
「……でも」
 ピオニー陛下だけではない。ジェイドやガイに会えると思って嬉しさのあまり何も考えずに頷いてしまったが、いまの自分は自分の都合だけで動くわけにはいかなかったのだ。
 アッシュの命を繋ぐための贄。それが、いまの自分に課せられた役割なのだから。
 定期的に貪られるあの行為の間隔は、たしかに最近では以前よりも減りつつあった。しかし、それでも自分がアッシュの元を長く離れてはいけないのだということは、さすがにわかっている。なのに何も考えずに頷いた自分に、アッシュが呆れていないはずがなかった。
「だったら、やっぱりアッシュも一緒に行かないか…?」
「冗談じゃねえ」
 予想どおり、申し出は一刀両断される。どうして良いかわからず、ただオロオロとアッシュに問いかけるような目をむけたルークにアッシュは小さく舌打ちすると、顎を掴んでいた手を乱暴に離した。
「一週間だ」
「へ…?」
「一週間。それ以上は一分でも遅れるな。……ま、俺が消えた方が好都合なら、わざと遅れて帰ってくるのも手だろうがな」
 そんなことが出来るはずがないことを知っているくせに、わざと挑発するようにアッシュが言う。その嘲るような目に、心が刃物で切られたように鋭い痛みを感じた。
「そんなこと、するわけねえだろ」
「どうだかな」
「絶対にそんなことしねえ!」
 思わず勢いのまま詰め寄ると、まるでキスするときのような近さでアッシュと視線があった。
「そんなこと、しないから……」
「ちゃんと、自分の立場は理解できているみてえだな」
 近い距離で、翠の瞳が鋭く細められる。
「できの良い人形には、たっぷりと褒美をやらないとな」
 優しく背を撫でられて、ざわりと首筋のあたりが総毛立った。
「安心しろ、跡はつけないでやる……」
 低く耳元で笑われるついでに舐められ、その熱い舌の感触にルークは目を閉じた。
 最近では、こうやって求められることが嫌なのかそれとも嬉しいのか、自分でもわからなくなってきている。
 どんな理由であっても、アッシュに触れられると自分の体も心も一番最初に喜びを感じてしまう。
 それでも、あらためてこうやって冷たい言葉や視線を向けられると、やはり苦しくなる。
 もっと優しくして欲しいと願うのは、やはり無い物ねだりなのだろうか。
 甘やかして欲しいなんて望まない。それでも、眠ったふりをしているときに触れてくれるあの手みたいに、もっと優しく触れてくれればいいのに。
 そう願わずにはいられなかった。




 ルークにとっては数ヶ月ぶり、実際には二年ぶりのグランコクマは以前とあまり変わらないように見えた。
 そして、二年ぶりに自分を迎え入れてくれたピオニーも、驚くほどあの頃のままだった。
 強いて時間の流れを感じさせた事柄といえば、ブウサギたちの数が増えていたことぐらいだろうか。明るい金色に見える毛並みのブウサギにガイの名前がつけられていたのには思わず笑ってしまったが、それ以外ではあいかわらず皇帝とは思えない軽装な服装を好むところも、あいかわらずさぼり癖があることも変わっていなかった。
 ガイやジェイドもバチカルの屋敷で別れた以来で、しかもこちらに戻ってきてからもろくに話していなかったせいもあって、初日は皇帝陛下の私室で夜を明かして話こんだ。
 ガイはあいかわらずルークの世話を焼き、それをジェイドがからかう。その横からピオニーが口をはさんできたりとにぎやかな宴会になり、ルークは久しぶりに腹の底から大声を上げて笑ったような気がした。
 宿泊先は、ピオニーの言葉に甘えて王宮の一室に用意してもらった。
 あいかわらずルークの使用人兼親友であることを自負しているガイは随分と残念がったが、ルークははっきりと断った。
 いまの自分が必要以上にガイの側にいたら、きっと自分の変化を敏感に感づかれてしまうだろうという自覚がルークにはあった。
 おさない頃から自分の世話を一手に引き受けていたガイは、親友なだけでなくほとんど親代わりのようなものだ。他の誰が気づかなくても、ガイだけはきっとなにかを感じ取ってしまうだろう。
 いや、そうではない。ガイの側にずっといたら、きっと自分が耐えられなくなることがわかっていたから、ルークはあえてガイの屋敷で寝泊まりすることを拒んだのだ。
 自分はガイが優しくしてくれることを、本能で知っているから。
 だから、近くにいればどうしても甘えたくなる。
 甘えてしまえば、苦しいことに耐えられなくなってしまう。だけどいま自分が抱えている秘密を、彼らに打ち明けるわけにはいかなかった。



 久しぶりのグランコクマ滞在は、楽しいものだった。
 毎日のようにガイが街に連れ出してくれて、この二年のあいだに新しくできた建物や店、旅のあいだによく寄った店や場所などを案内してくれた。
 ときどきジェイドも執務の合間に付き合ってくれることもあったし、政務から逃げ出してきたピオニーがルーク達に合流することもあった。
 ただひたすら楽しい時間は、残酷なほど早く通り過ぎてゆく。
 三人がとにかく自分を楽しませようとしていることをルークも感じ取っていたし、実際それを満喫してもいた。
 でも本当は、ジェイドとガイが何かに感づき始めていることもルークは薄々感じてもいた。
 ジェイドはもともと察しが良いし、ガイはルークに関しては怖いくらいに勘が良い。
 それに、自分が嘘をつくのが不得手なこともよく知っている。
 それでも、あえて彼らは何かを問いかけてくることはしなかった。それが彼らなりの優しさであり、また自分に対する信頼の証なのだと思うと、泣きたいほど嬉しくもあった。
 ジェイドは滞在中何度かルークの診察をしてくれたが、それに対してははっきりと何も問題がないことを答えることが出来た。
 そう、問題があるのは自分ではなくアッシュなのだから。
 そのことをあらためて思い出すと、楽しい気持ちの中に小さな穴が不意に開いたような気持ちになることがあった。
 それともう一つ、これは自分でもあまり認めたくないことだったのだが、帰る日が近づくにつれて寝付きが悪くなってゆくのがはっきりとわかった。
 それこそ長くても三日とあけずにアッシュに触れられていた体は、はっきりとその違和感を感じていた。どんなに乱暴に扱われていても、あの手が自分に触れてこないことがこんなにも不安に感じるとは予想外だった。
 あの行為にすっかり体が慣らされてしまったのだろうかと思うと、どこか苦しい気持ちになる。
 自分が望んでいるわけでもないし、どちらかといえば無理やり行われる行為なのに、体だけが自分の気持ちとは別の思考をもっているようだった。




 そして、アッシュが告げた期限の一週間がやってきた。
 ピオニーはあれこれとルークを引き留めようとしたが、そのすべてをルークはきっぱりと断ると、バチカルを経由してベルケンドにむかうジェイドと共にアルビオールに乗りこんだ。
 帰りのアルビオールの操縦者は、ギンジだった。
 旅の最中、ほぼアッシュ専用のパイロットだった彼とはあまり言葉を交わしたことはなかったが、いかにもノエルの兄らしいおおらかな感じの人柄には好感が持てた。
 何より彼はアッシュのことを本当に慕ってくれているらしく、ルークへ生還の祝いの言葉を贈ってくれた後に彼の安否も気にして尋ねてきた。思えばアッシュ側で動いていた人に会うのはこちらに戻ってから初めてだったかもしれない。そして、その一人である彼がこれほどアッシュのことを気にかけてくれているのだから、意外と彼らも良い関係を築いていたのではないかとルークは思った。
 ギンジの操縦するアルビオールに乗るの初めてだったが、ノエルが言っていたように彼の操縦技術はすばらしいものだった。
「ジェイドは、ベルケンドへはなんの用事で行くんだ?」
「私がいまフォミクリーの研究を再開していることは、話しましたね?そのデータ情報の交換に、定期的にベルケンドへ行くことにしているんですよ。さすがに完全にグランコクマを離れるわけにはいきませんから」
「ふうん」
 きょとんと目を瞠ったルークに、ジェイドは小さく笑った。
「ところで、本当に体の方に問題はないんですね?」
「それはジェイドだって散々検査したんだから知っているだろ?」
「そうでしたね」
 グランコクマに滞在中、ルークは何度もジェイドの診察を受けていた。その結果はおおむね良好であり、そのことは彼も納得していたはずだ。
「それでも、念には念をですから」
「らしいっちゃらしいけどな……」
「あなたも、すこしでもなにか異常を感じたらかならず検査を受けてください。戻ってきた状況が状況でしたからね。何が起こるのか予測も出来ません。定期検診もですよ」
「はいはい」
 小さく肩をすくめたルークに、ジェイドは優しく笑うように目を細めた。
 ところがすぐに視線を外に向けると、ふと軽く眉をひそめた。
「ちょっと、雲行きが怪しそうですね……」
「ええ、一雨くるみたいですね。ちょっと急ぎましょう」
 操縦席からギンジが応える。
 その声を聞きながら、ルークは遠くにある暗い雲へと目をむけた。




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