カノン・12




「まったく、こういう所は変わりませんね」
 ルーク失踪の報告を聞いたジェイドの感想は、そんな微塵も危機感を感じられないものだった。
「ずいぶんと暢気だな」
 すでに一度衝動的に飛び出そうとしたところを諫められたアッシュは、苛立ちを隠すことなく目の前の男を睨みつけた。
「急がば回れと言いますからね。あの子同様にこちらも考えなしに動けば、単なる追いかけっこにしかなりませんから」
 優雅にカップを傾ける余裕さえ見せるジェイドに、アッシュは自分の目の前に置かれたカップを睨みつけた。
 澄んだルビー色の紅茶が、静かに湯気を立てている。その静かさが、逆に内にある苛立ちをさらに煽る。
 だが理性は、ジェイドの言葉にも一理あることを受け入れていた。
「元の箱入りのままだったら、追跡ももっと楽だったんですがね。ルークも旅慣れしてますから、それなりに手を尽くさないと逃げられてしまいます。あれで、意外と頭もまわりますし」
 そう言ってカップを傾けたジェイドを、アッシュは奇妙な生き物を見るような目つきで見た。
「なんですか?」
「……いや、おまえがあいつについて具体的に認めるようなことを言うとは思わなかった」
 歯切れの悪いアッシュの言葉に、ジェイドはかすかに唇の端をあげた。
「たしかに彼は世間知らずであきれかえるほど無知でしたが、それが頭の良し悪しを決定づけるものではないですしね。むしろ頭の出来は悪くないと思いますよ。特に必死になればなるほどこっちの意表を突くようなことをしてくれますから、そう言う意味ではやっかいですね」
 わりと抜けているところがあるのが救いですけれど、と付け足して微笑んだジェイドに、アッシュは複雑そうな顔になった。
「よく見ているな……」
「ええ、まあ」
 ジェイドはそのことにはそれ以上言及することなく、ただ小さく頷くことだけで答えた。 「ところで、確認したいことがあります」 「なんだ?」 「ルークはどれくらい保ちますか?」  目線をあげた先のジェイドの瞳は、すでに笑みを消していた。アッシュは前に落ちてきていた髪を後ろへやると、溜め息をもらした。
「……おそらく三日が限度だな。音素を送りこんではあるが、直接体を繋げて送りこんだわけじゃねえ。効果はそれほど続かないはずだ」
 そう答えてアッシュは、ジェイドの反応を見た。しかし、予想どおりなんのリアクションも見せないジェイドに、アッシュは小さく舌打ちした。
「どうせ、察しはついてんだろ」
「まあ、気を取り込むなら一番手っ取り早い方法ですから、ある程度は……」
 いまさらこんなことでこの男が動揺するとは思えないが、逆にその反応のなさが勘に障る。もしかしたら、自分はルークのことに関して、この男に優越感を感じたかったのかもしれない。
「……さて、そろそろですかね」
 ジェイドはカップを置くと、宿の入口の方を見た。
 まるでそのタイミングに合わせたかのように、扉が勢いよく開かれる。入ってきたのは、先ほど慌ただしく出て行ったこの宿の従業員の男だった。
「バチカル側の道は、やはりまだ復旧してないそうです。あと伝言ですが、『復旧にはまだ時間が必要。終わり次第連絡します』だそうです。あと、こちらを」
「わかりました、ありがとうございます」
 ジェイドは短く礼をのべると、男から一枚の紙を受け取った。
「アルビオールの修理には、まだ少々時間がかかるようですね。どちらにしろ空から人一人捜すのは難しいですが、見つかってからはすぐに必要になりますから、間に合ってくれることを祈りましょう」
「さっきから待っていたのは、その件か」
「それもあります」
 ジェイドは意味ありげに笑うと、手にした紙片をひらりと振った。
「……もちろん、馬には乗れますよね?貴族のたしなみとして」



 用意されていた馬は、駿馬とまではいかなくてもこの小さな街にしては良質な馬だった。
 これはたしかに上手い判断だと、アッシュも認めないわけにはいかなかった。
 嵐の爪痕の残る街道を急ぐには、たしかに馬を走らせた方がはるかに早い。
 ついでを言えば、ルークはまだ乗馬の手ほどきを受けていない。
 徒歩にしろ乗合馬車を捕まえて移動しているにしろ、自力で馬で逃げられないだけましだと言える。
「なかなかお上手ですね」
「くだらねえこと言ってねえで、さっさと行くぞ」
 神託の盾にいる間に任務で馬に乗る機会はあまりなかったが、鍛錬は積んでいた。
 そう言うジェイドも、じつに危なげなく馬を走らせている。彼なら、馬上で譜術を操ることも可能だろう。
「方向は、こちらで間違いないですね」
「ああ」
 その点については、自信があった。精度の増した回路は、おおよその相手の位置を把握できる。それでなくても、完全同位体である自分たちには引きあう何かがある。
「できれば、ぎりぎりのところで捕まえたいと思います。少々弱っていないと、また逃げられては困りますから」
「手遅れになったらどうする気だ」
「それはないでしょう。あなたがここにいるのですから。ただ、あまり熱烈なのは年寄りには目の毒ですので、自重していただけるとありがたいですねぇ」
 おだやかに見せかけた笑みを隣で浮かべるジェイドに、アッシュはため息をもらした。
「……何が言いたい」
「不可抗力ですから」
 前を向いたままの主語を省いたジェイドの言葉に、しかしアッシュは彼が言わんとしていることをすぐに察することが出来た。
「……ですから特に追求しませんが、あなたのことですから、あの子を追い詰めるような言動をされていたのではないですか?」
 どこまで見抜いているのだろうか。無理矢理納得させるために手荒に扱っていたのは確かなので、アッシュはその問いには沈黙した。
「不器用なのも、いい加減にしていただきたいですね」
「おまえには関係ない」
 切り捨てるような勢いでそう答えたが、そんなことでひるむような相手ではないことはよく知っている。
「私たちは、今度こそ彼に幸せになって欲しいんですよ」
 言外に、何か問題があるのなら容赦する気はないと言いたいのだろう。『私たち』と言っていたが、おそらく個人であってもジェイドは微塵も容赦する気はないだろう。
「とりあえず、あいつを見つけるのが先決だ」
「ええ…」


 そう、なにもかも彼をこの手で捕まえてから。
 捕まえて抱きしめて、生きていることを実感してから。
 ルークがどれだけ拒もうと、絶対に生き延びさせてみせる。
 それが、たとえ間接的にルークを苦しめることになるとしてもだ。


 命ならいくらでも捧げるから、あの悲しい命を二度と消したくなかった。

 

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閑話休題。馬は笑うところ。