カノン・13




 雨上がりの空は、怖いくらいに澄んだ青さを見せていた。
 空や景色がとても美しく見えるのはとても悲しいときだ、と誰かが言っていた気がしたが、たしかにそうなのかもしれないとルークは思った。
 ああ、歩かなくては。
 ともすればそのままそこで立ち止まってしまいそうな自分の心を叱咤しながら、ルークは足を前に踏み出した。
 まだ少し体がぎくしゃくするような気がするのは、気のせいだろうか。いや、そんなこともないのかもしれない、と自嘲げな笑みが漏れる。
 本当はもう、この体は壊れるだけなのだと知ってしまったから。
 そうでなくても、自分の体の中の音が乱れているのがわかる。
 あのゆるやかな乖離現象の時には感じなかった異常だが、正常な音をずっと保っていられたからこそ、今の異常さが際だって分かった。
 ずっと、アッシュが綺麗な音になるように調律してくれていたからだ。
 自然と、手が拳の形を作る。
 そうしないと、わけのわからないことを叫びだしてしまいそうだった。



 覚えのあるあの感覚に翻弄されて意識が途切れたあと、気がつけばいつの間にかベッドに寝かされていた。
 ベッドサイドの薄明かりだけが照らす部屋の中でゆっくりと体を起こすと、ルークはまだ鈍く痛む頭を押さえながら辺りの様子をうかがった。
 部屋の中には自分以外には誰もいなかったが、誰かが先ほどまでここにいたという気配だけは残っていた。
 ジェイドだろうか。ふと、ここまで一緒だった彼のことを思い出すが、なんとなく違うような気もする。本当にかすかな違和感なのだが、もっと違う誰かの気配がここには残っている。
 でも、それは誰だろう。
 そんなことをぼんやりと考えてから、ルークははっとしたように窓の外を見た。
 まだ雨は降っていたが、風はおさまりつつあるようだった。嵐も収束にむかっているのだろう。いまなら、ここを抜け出してバチカルに向かえるかもしれない。
 ベッドから足をおろすと、まだ少しふらついた。それでも何度か確かめるように踏みしめると、少しはましになった。
 ふと、隣の部屋から何かの気配がした。酷く惹きつけられるその気配にひかれるように、ルークは足音を忍ばせながら隣の部屋へとむかった。
 まだふらつく足をなんとか支えながら薄い宿屋の扉にすがりつくように立つと、声が聞こえた。ジェイドの落ち着いた声と、もう一つ。
 その声を、ルークが聞き間違えるはずがなかった。
 なぜここにという混乱と安堵の気持ちが、一度に押し寄せてくる。それと同時に、彼がアッシュがここまでやってきたということは、それだけ深刻な事態になっていたのだろうかという不安がこみ上げてくる。
 すこしでも早く、側に行かなくては。その時のルークの頭の中には、それしかなかった。
 だからその扉を押し開こうと耳を近づけた瞬間、そこから漏れ聞こえてきた二人の会話に、ルークは一気に地面が沈み込んでゆくような衝撃を受けたのだった。
 よく音を立てずにその場を離れられたものだと、我ながら思う。
 震える足をなんとか動かして部屋に戻り、そのまま簡単な身支度だけをすませると、ルークは宿を抜け出した。
 今度はアッシュの元に戻るためではなく、出来るだけ遠くへと逃げ出すために。
 どうして気がつかなかったのだろう。
 まだ強い雨の降る中で早足で街の外へと向かいながら、ルークは自分の迂闊さに苛立ちと泣き出したいような気持ちを同時に感じていた。
 アッシュの、あの矛盾した態度。
 意識のあるときには手酷く扱うくせに、意識のないルークに対するあの戸惑うほどの優しさ。強引に何度も求められたのも、すべて自分のためだったのだ。
 考えてみれば、わざわざアッシュが同じ部屋で寝起きすることを望んだのも、ルークの様子を近くで観察するためだったのだろう。そしてすこしでも不調が見えれば、強引に自分が望んでいるのだと言わんばかりに抱いて。
 でも、それらもすべてルークのためだったのだ。
 そして、もし自分がそうと知れば逃げ出すと分かっていたから。だから、すべてはアッシュのためなのだと思いこませて、逃げないように言葉で縛ったのだ。



「俺って、やっぱり馬鹿だな……」
 アッシュのために、自分を捧げているのだと思っていた。
 やっと、好きな相手のために役に立てているのだと。それも、誰にも出来ないたった一つの方法でアッシュを救えているのだと、そう自惚れていた。
 強引に求められるたびに虐げられる自分に酔い、悲壮感に浸ることにひそかな優越感を覚えていた。
 自分がいなければアッシュは生きていけない。そう思うことで、昏い喜びを感じてもいた。
 そしてそんな気持ちを誤魔化すために、新しく自分に課せられたこの運命を苦しいとさえ思っていた。
 アッシュにすべてを返せる。
 今度は彼が自分からなにかを奪ってゆくのだ。
 それで、自分が彼からすべてを奪ったこととつりあいが取れるとも思っていた。
 だけど実際はどうだ。
 またもや自分は生き延びたことによって、アッシュから今度は命まで奪っているのだ。ただ、そこに存在しているだけで。
 生まれた時には彼の名前と生活のすべてを、そして生き返った今は彼自身の命を。自分という存在は、いつでもアッシュを食い物にして生きている。彼が自分を憎むのは、当然だろう。
 それなのに、アッシュは自分を生き延びさせるためにすべてを隠した。
 それなのに、自分はもっと彼から優しさを欲しいとまで望んだのだ。
 その、目眩がしそうなほどの傲慢さ。
 もし今すぐこの命を絶つことですべてを返せるなら、何の躊躇いもなく自分はこの剣を自分の体に飲みこませるだろう。
 だが、そんなことに何の意味もないことを知っているから、だから歩き続けている。すこしでもアッシュから遠く離れた場所で、たった一人で消えなくてはならなかった。
 アッシュは優しいから、目の前で自分が死にかけていたら手を伸ばさずにはいられない。
 だから消える。
 たった一人で、消えなくてはならないのだ。
「あれ……」
 顎を伝った雫が胸元に落ちる。それは後から後から続いて落ちてきて、襟元に小さな染みをつくる。
 そのうち、視界までぼんやりと滲んでくる。
 でも、瞬きを一つすればクリアになる視界。
 泣いている。
 そう気づくのに、少し時間がかかった。
 早足だった歩調がだんだんとゆっくりになって、だけど立ち止まることは出来なくて前にすすむ。
 後から後からこぼれてくる涙は、もう止めようがなかった。
 しゃくり上げないだけまだましなのかもしれない、と軽く痛む頭で考えながら、そんなことを考える余裕があることに自嘲する。
 一人は怖い。
 死ぬのも怖い。
 だけど仕方がないとわかっているから、泣くことくらい許してしまおうと思った。



 街道をそれて、かなりの時間が経っていた。
 森の木の陰になっているが、日がかなり高くなっているのがわかる。
 アッシュたちはもう、自分の不在に気づいているだろう。そして、間違いなく自分を追ってきている。
 先ほどよりもずっと重く感じられる足を引きずりながら、ルークはできるだけ森の奥へと逃れるように進んだ。
 体の中の音が、不協和音を奏でている。
 じりじりと体力が落ちていっているのが、自分でも分かる。少しでも気を抜けば、そのまま地面に沈み込んでいってしまいそうだ。
 それでも、もしかしたら追いつかれるかもしれないという強迫観念だけが、いまのルークの足を動かしていた。
 どれくらい森の奥に入り込んでのだろうか。
 ルークは不意に横合いから飛び出してきた気配に、反射的に腰の剣をなぎ払っていた。
 そのまま軸足で体を回転させると、さらに追ってきた二撃目を剣で受け止める。受け止めた剣で押しやるようにして相手を切ると、バックステップで後ろに下がって構えなおした。
 たったこれだけの動きなのに、もう息が上がっている。
 ルークはすばやくあたりに目を配ると、続いて飛び出してきた獣型のモンスターを二匹屠った。
 気づけば、まわりを囲まれているのが気配でわかった。ルークはさらにもう一匹を切り伏せると、その屍を踏み越えて走り出した。
 先ほど切り伏せたモンスターと同型の物が追いかけてくるのが、視界の隅に見える。さして強いモンスターではないが、その早さと群れをなして獲物を襲ってくるのが厄介な相手だ。
 もちろん普段のルークなら余裕で切り抜けられる相手だが、今は分が悪かった。
 背後から飛びかかってくるのを切り捨てながら、ただひたすら森の中を走り続ける。
 自分は死ななくてはいけないが、こんな奴等に殺されるわけにはいかないのだ。
 なぜなら、今の自分のこの命はアッシュの命をもらったものだから。
 だから、自然に朽ちるままに死ぬのはかまわないけれど、絶対に誰かの手にかかるわけにはいかなかった。
 しかし後から後から湧いてくるモンスターはきりがなく、だんだんと足元がおぼつかなくなってくる。それでも最後の一匹をどうにか切り伏せると、ルークは荒い息を整えようと手近の木に背をあずけた。
 喉が笛のような音を立てて鳴っている。心臓が、耳元で鳴っているような激しい音を立てて鼓動を刻んでいるのがわかる。このままへたり込んでしまいたかったが、頭は前に進むことを命じていた。
 だからだろうか、その気配にすぐに気づかなかったのは。
 ざわりと背筋を撫で上げるような冷たい気配を感じた瞬間には、反射的に体を横に倒していた。
 ルークの頭を掠めて、鋭い一撃がさきほどまで背をあずけていた木の幹に襲いかかる。そちらに目をやると、先ほどまでルークの体があった場所の幹がするどく抉られている。
 視線を動かす。その先にいる相手を見て、思わず舌打ちした。
 どこに潜んでいたのだろうか。さきほどのモンスター達よりも明らかに強いと思われる、見たこともないモンスターがひたりとこちらに視線をむけている。
 その黒い大きな影のような姿に、それでもルークはなんとか体を起こそうとした。
「……っ」
 突然、体の中のなにかがずれたのが分かった。踏ん張ろうとした手に力が入らず、そのままずるずると地面の上に崩れ落ちてしまう。
 目の前のモンスターが、鋭い爪を振り上げたのが見えた。
 不思議と、その瞬間の動きまでがはっきりと目に映る。
 振り下ろされる爪が、うなりをあげて迫ってくる。それを目を見開いたまま見つめていたルークは、突然視界を覆った黒い影がそのモンスターが落とした影だと思っていた。
 それが間違いだと理解したのは、続けて視界の中に降りてきた鮮烈な赤の色彩のせいだった。
 踊るように流れる、鮮明な赤。
 流れるような剣がモンスターの胴を貫き、その動きにつれて赤い髪が軌跡を描く。
 その、恐ろしいまでに美しい色彩。
 泣き出したいほど嬉しくもあり、叫びだしたいくらいに深い絶望を感じてもいた。
 また自分は、彼に助けられたのだ。
 涙が一筋、頬を伝い落ちてゆくのが分かる。
 そのままルークは、まるで眠りに落ちるようにして意識を闇へと手放していった。



 モンスターにとどめを刺すと、アッシュは剣についた血を払いながら背後をふり返った。
「レプリカ!」
「……大丈夫、気を失っているだけのようです」
 先にルークの元に駆けよったジェイドはざっとルークの体を調べると、彼にしては珍しくほっとしたような表情を一瞬だけ浮かべた。
「ですが、あまり良い状態ではないようですね。急いで引き返しましょう」
 アッシュも硬い表情のまま頷くと、当然のようにジェイドの腕の中からルークの体を抱き上げた。
「どうかしましたか?」
 一瞬見せたアッシュの妙な表情に、ジェイドが怪訝な目をむける。
「……軽い」
 その答えに、ジェイドの表情も硬くなる。
「間隔が、早まってきてやがる」
 舌打ちせんばかりの声色でそう呻くように呟くと、アッシュは抱えあげたルークの体を強く抱きしめた。
「とにかく、急ぎましょう。細かいことは、その後です」
 ジェイドはアッシュを促すと、先に立って歩き出した。
 まるで子供のように軽く感じるルークの体を抱き上げながら、アッシュはそっとルークの唇にキスを落とした。
 気休めでも、そうやって少しでも気を与えていなければ、腕の中の軽さがいまにもほどけて消えてしまいそうで怖かった。


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色々ぐるぐるしている人達。