カノン・3




 ふいに水面に浮かびあがるような感覚を感じて、ルークは目を開いた。
 眠るつもりはなかったのに、どうやら体は限界にきていたらしい。実際、まだすこし手足が重く感じられる。
 そういえば、ここで目を覚ます前に一度意識がつながった時、体中が軋んで痛みを訴えていたことを思いだす。
 いまはその痛みもひいていたが、違和感はまだそこかしこに残っていた。

 ルークは大きく深呼吸をひとつすると、ゆっくりと左腕をあげてみた。
 まだすこし感覚が鈍い感じはするが、たしかにそこにある。
 ただそれだけなのに、嬉しさに胸が熱くなるような気がした。
 そうやってすこし落ち着いてくると、ルークはぼんやりとアッシュのことを思い出していた。
 結局あの後眠ってしまったので、アッシュとは言葉を交わすことができなかった。
 ジェイドたちの話を聞く限りでは、アッシュが自分をこの世界に引き戻してくれたようなのだが、いったいどうして彼はそんなことをしてくれたのだろう。
 最後のすこし前まで、たしかにアッシュは自分のことを憎んでいたはずだ。
 そのことを思い出すと、やはりいまでも胸が痛むけれどそれは事実だ。
 最後の一騎打ちのあとではたしかに自分を認めてくれてはいたが、友好的という立場からは遠かったように思う。
 ああでも、最後に交わした約束があったから、それを守ってくれたのだろうか。
 なんのかの言いつつも、彼は優しいから。
 あの旅の間だって、何度も彼は自分を助けてくれた。だからほんの少しでも良いから、アッシュが自分のことを惜しんでくれたのだと思いたかった。
 アッシュと話がしたい。
 どうやって、そしてどうして自分たちは二人でここに戻ってきたのか、アッシュなら知っているような気がする。
 でもそれだけじゃない、これからどうするのかも話し合いたい。
 そのことを思うと、別の意味で胸が痛んだ。
 アッシュは、ファブレ家に戻るつもりがないと言い切っていた。強情な彼のことだから、いまでもそのつもりでいる可能性は高い。
 もしそうなら、どうやって説き伏せてバチカルまで連れて行くかが、まず当面の問題だ。
 いっそここはナタリアを利用して、などとぼんやりと考えていたルークは、小さな物音に反射的に息をひそめた。



 ちいさく軋む音がして、部屋の扉が開いたのがわかった。
 誰だろう、こんな夜中に。
 もしかしたら、いつまでも過保護なところのあるガイが自分の様子を見に来たのだろうかと思い、ルークは眠ったふりをすることに決めた。
 部屋に入ってきたその誰かは、なぜか戸口のところでためらうように立ちつくしている。静かな夜の中、その気配が痛いほど伝わってきて、ルークは身を固くした。
 ドキドキと高鳴る胸の音が、相手に聞こえてしまうのではないだろうかと思うくらい大きく鳴っている。
 誰だろう。
 どうして、そこにいるのだろう。
 どのくらいの時間が過ぎただろうか。
 実際にはほんの数分のことだったのかもしれないが、ルークにはもう何時間も経ったような気がしていた。
 ぎしぎしと床板が軋む音がする。
 カーテンを透かした月の光の中で、誰かの影が自分の上にさしたのがわかった。
 できるだけ呼吸をゆっくりとして、ルークは眠ったふりを続けていた。
 さらりと、掛け布団の中からはみ出ている髪を優しく撫でられる。
 それにびくりと反応してしまわないように、なんとか自分を押さえこむ。
 ガイではないことは、すぐにわかった。
 彼ならこんな、物慣れないふうに触ってくることはない。
 その手は何度かルークの髪を撫でると、そっと離れていった。
 それをすこし名残惜しく思いながら、ふとどうしてそんなふうに感じるのだろうという疑問が生まれる。
 そんなことをぼんやり思っていたせいだろうか、不意に間近に誰かの気配を感じた瞬間、髪に指以外のなにかが触れたのにびくりと反応してしまった。
 相手が、小さく息を飲んだのがわかった。
 そして、じっとこちらの様子をうかがっている。
 突然のことにルークは混乱したが、なぜかここで自分が気づいたことを悟られてはいけないととっさに思った。
「……んっ」
 小さな声をため息とともにもらしながら、少しだけ動いてすぐにまた動きをとめる。
 あまり褒められたことではないのだろうが、寝たふりは得意な方だ。
 その誰かはなおも探るようにルークの様子を見ていたようだが、すっかり眠っていると判断をつけたのか、ゆっくりと気配が離れてゆく。
 ルークは顔の半分を上掛けの中に隠したまま、自分の心臓の音が相手に聞こえないように必死に祈っていた。
 やがて、相手の気配が離れてゆくのがわかった。ルークは上掛けの影からそっと細く目を開くと、扉の方へ視線をむけた。
 月の光が薄くさしこむ青い闇の中に、部屋を出て行こうとする相手の背中が見えた。その背に流れる、闇の中でも見間違えようのない、鮮やかな紅。
(アッシュ?)
 そのまま飛び起きてしまいそうな自分をなんとか制して、ルークは息を飲んだ。

 なぜ彼がここにいる?
 それに、さっきアッシュは何をしていた?

 小さな音を立てて、扉がしまる。
 その音を聞いても、ルークはしばらく動くことができなかった。
 さきほどアッシュが触れていた場所が、まるで熱を持ったように熱い。
 指だけじゃない。
 あの時かすかに感じた、あたたかな吐息。
 あの感触を、自分は知っている。ガイがたまに、自分をなだめるためにしてくれることがあったから。
 だけどガイがしてくれたときは、ただくすぐったさをともなったやわらかな温かさしか感じたことがなかった。
 今みたいに、そこが熱を持って疼いているような奇妙な感覚を感じたのは、はじめてだった。
 だがそれよりも、なぜアッシュが自分にそんなふうに触れてきたのかがわからない。
 人目をはばかるように、髪にキスをしていくなんて。
 ルークはがばっと頭から上掛けを被ると、ぎゅっと強く目を瞑った。
 まだアッシュが触れた場所がほんのりとその感触を残しているようで、まるでその部分だけ自分のものではないような錯覚さえ感じる。
(どうして…)
 自分でも名前のつけられない感情が、一気に胸の中にあふれてくる。
 だけどそれがどういう場所からやってくる感情なのかは、ルークにもわからなかった。



「……ルークっ!いい加減に起きろよっ!」
 その声とともに一気に布団が引きはがされ、いきなりまぶしい朝日を浴びることになったルークは、一瞬自分がどこにいるのか理解できなかった。
「あれ…ガイ?」
「おはよう、ルーク」
 にこりとさわやかな笑みを浮かべると、ガイは腰に手をあててまだぼんやりとしたままのルークの顔をのぞき込んできた。
「疲れてるのはわかるけど、いいかげん起きろよな。もうみんな起きているぞ」
 呆れたような口調でそう言いながらも、ガイの表情はどこか嬉しそうだ。
「っと、体の調子の方はどうだ」
「だったら、こんな起こし方するなよ…」
「悪い悪い。でも、顔色は良いみたいだな」
 ははっ、と悪びれずに笑うと、ガイはむっとした顔になったルークの頭をくしゃりと撫でた。
「ほら、さっさと起きろよ。着替えはそこに置いてあるからな」
 ガイはそう言って枕元に用意しておいた着替えをさすと、着替えたら下りてこいよと言い残して部屋を出て行った。
 後に一人残されたルークは頭を掻くと、とりあえずベッドを下りた。
 しっかりと床に足をつけて立ち上がると、たしかにガイが言ったとおり体の調子は昨日よりも良くなっているように感じる。
 着替えをすませると、ルークはガイが開けていった窓の方へ足を向けた。
 窓から見える空は光に満ち、どこまでも青く高い。
 時々白く光って見えるのは譜石だろうか。
 本当に戻ってきたのだと、あらためて実感する。
 そして、同じく戻ってきた自分のオリジナルのことを思う。
 それと同時に昨日の夜の記憶もよみがえってくるが、まだルークはあれが現実のことだったとは思えないでいた。
 なのに、そっと昨日彼が触れた場所に自分で触れてみると、まだかすかに感触が残っているような気もする。
(ああ、もう…!)
 ルークは頭の中にあるぐちゃぐちゃなものを振り払うように大きく頭を振ると、軽く自分の頬を両手で叩いた。
 

 このままいつまでも考えこんでいても、仕方がない。
 それよりも、昨日はまともに話すこともできなかったアッシュに会いたかった。
 これからのことも、そして何があったのかも、きっと彼がすべて知っている。
 ルークは部屋を出ると、みんなが待っている階下へと駆け下りていった。


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まだあまり進展なし。