ガラスの向こう側から・3
小さなノックの音の後、いらえをまたずに扉が開かれた。
「悪い、遅くなった」
明るい声とともに茶器を持ったガイが部屋に入ってきて、その場の雰囲気に気づいたのか、おやという顔になった。
「どうした?」
青い瞳が、問いかけるようにアッシュにむけられる。しかしふいと横を向いてしまったアッシュに、ガイは視線をルークへと移した。
「な、なんでもない」
慌てたように口ごもるルークに、ガイは器用に片方の眉を跳ねあげると、茶器をテーブルに置いてこちらにやってきた。
「何でもないって顔じゃないだろう?それと、起きるんならちゃんと上着を着ろよ」
いつの間にか肩からずり落ちていたらしい上着をルークに着せかけると、ガイはちらりと視線をアッシュの方へ流した。
軽く責めるような視線に促されるようにアッシュはガイの方を振り向くと、ちいさく肩をすくめた。
「言い過ぎた」
「ううん」
必死に首を横にふるルークに、自然と笑みがこぼれる。そんな二人の様子を、満足そうに青い瞳が見つめている。
くすぐったく感じるほどやわらかな視線を向けられて、なぜか嫌な感じに鼓動が跳ねあがる。
そのことに自分で驚きながら、アッシュはかいがいしくルークの世話を焼きはじめたガイの横顔へ視線を向けた。
幼いころから、自分たち二人の兄代わりともいえる存在であるガイ。
ルークほど感情を表に出すことが上手くなかったアッシュは、彼に対してあまり表だって甘えた態度をとったことはなかったが、ガイはどうしてかそれを上手く読み取って接してくれた。
ときどき抜けているところはあるが、ガイは頭も回るし腕も立つ。面と向かって口にしたことはないが、淡いあこがれのようなものをアッシュは彼に対して持っている。
もっと幼いころは、ルークに対して過保護すぎるガイの態度に複雑な気持ちを感じたこともあったが、そういう感情とも上手く折り合いをつけることができた。
「アッシュ?」
自分にむけられている視線に気づいたのか、ガイが不思議そうな顔でこちらを振りかえる。
意をはかるように軽くひそめられる眉。
その一瞬の表情に、自分でも不思議なほど違和感を感じる。
「……なんでもない」
「そうか?」
アッシュの性格を把握しているガイは、それ以上深く訊ねてくることはなかった。
そのかわり、ルークの碧の瞳が心配そうにむけられてくる。
「二人とも、お茶が入ったぞ」
その気まずさを救うようなタイミングで、ガイの声がかかる。
それに内心ほっとしながらテーブルの方へ行きかけて、アッシュはすぐに引き返すとベッドを降りようとしていたルークへ手を差しだした。
「もたもたするな」
差し出された手をきょとんとした目で見つめていたルークは、その言葉に嬉しそうな笑みを浮かべた。
「うん」
おなじ大きさの手が、重ねられる。
少し熱っぽい、だけどなめらかなさわり心地の手。
(剣を持つ手じゃない)
また、あの不安になるような違和感がわき上がってくる。
たしなみ程度の剣術はこなすが、もともと体力のないルークが激しい剣術の稽古を頻繁に行えるわけはないので、アッシュと違い剣ダコのできていないルークの手がやわらかいのは当然だろう。
なのに、感じる違和感。
「なあ、本当に大丈夫か?アッシュ」
握りかえされる、手の力。
そのたしかな感触に我に返ると、アッシュは深いため息をひとつついた。
「……どうやら、すこし疲れているようだな」
不安げに見上げてくる瞳に、心配ないと苦笑する。
「お茶を飲んだら、お前もすこし休めよ。旦那様にはいっておく」
ようやく席に着いた二人の前にカップをおくと、ガイはなにもかも見透かしたような表情でアッシュの方を見た。
ガイも、ナタリアと同じく、この双子の間にある特別なつながりのことはよく知っている。なにしろ、幼いころからこの二人の世話役として誰よりも身近にいたのだ。
三人でかこむ、ゆったりとしたお茶の時間。
子供のころから何度も繰り返されてきた、優しく穏やかなその光景。
なのにどうしてかアッシュは、今日に限ってそれに、理由のないいたたまれなさを感じずにはいられなかった。
「あら、だいぶ顔色がよろしいのね」
嬉しそうなナタリアの声に、アッシュははっとしたように顔をあげた。
水色の外出用のドレスを身をまとったナタリアは、そんなアッシュの様子には気づかずに嬉しそうに目の前でルークに話しかけていた。
誰にも話してはいないが、ここのところ頻繁にこういうことがあった。
一瞬、記憶が飛ぶと言えばいいのだろうか。
目が覚めたら知らない場所に放り出されていたような、そんな違和感を覚えるのだ。
もっともそれはほんの一瞬のことで、すぐにするりとその前の場面の記憶がすべり込んでくる。だから特に問題があるわけではないのだが、やはり気持ちの良いものではなかった。
「一昨日はありがとうな。美味かったぜ、あれ」
「美味しかった、でしょう?ルーク。素直な感想はとても嬉しいですが、あなたはもうすこし言葉に気をつけないと」
「うっせえな、わかってるよ」
子供のように拗ねた顔を見せたルークに、ナタリアは笑いながら姉のような優しいまなざしを彼にむけていた。
ナタリアは、双子たちよりもひとつ年上である。
もともと勝ち気なところのある彼女は、幼いころから、物語の中にいるようなふわふわとしたお姫様というよりは、昔語りの中にある女騎士のような勇ましさを持つ少女だった。
まして幼いころの年の差は、一つであっても大きいものだ。
その頃は彼等の姉のように振るまっていた彼女だったが、それも七つの祝いをすませるころまでのことだった。
勝ち気ながらも乙女思考なところも大いにある彼女は、アッシュと婚約の約束を交わしたころには、すでに彼に頼るようなしおらしさも見せていた。
だから彼女のこんな顔を見るのは、本当にひさしぶりのことで……。
そこまで考えて、本当にそうだろうかとアッシュは思いなおした。
いまアッシュが目にしたナタリアの表情は、なんとなくはじめて見るもののような気がする。それとも、ルークの前では彼女はいつもあんな顔をしていたのだろうか。
「……から、いいですわね?アッシュ」
突然名を呼ばれて完全に不意を突かれたような顔をしたアッシュに、ナタリアはまあと驚いたように空色の瞳を大きく瞠った。
「聞いてらっしゃらなかったのね。明日の天気はよろしいようですから、裏庭で軽いピクニックのようなことをしましょうって話してましたのよ」
ルークの具合もだいぶ良くなったことですし。
そういってにこりと笑ったナタリアに、アッシュは軽く眉をひそめた。
「裏庭?ピクニックなら外に行けばいいだろう?」
そう何気なく口にしたアッシュは、ナタリアだけでなくちょうどお茶の支度を部屋に運んできたガイまでもが驚いたように息をのんだことに、わけもわからず不安になっていた。
「アッシュ、それ、本気で言っていますの……?」
おそるおそるうかがうようなナタリアの言葉に、アッシュは彼等がなにをそんなに驚いているのだろうかと首を傾げる。
「どうやら、マジでおまえも少し休んだ方が良いみたいだな」
かちゃりと茶器をテーブルに置くと、ガイは困惑した顔をアッシュに向けた。
「アッシュ、ルークは二十歳になるまで屋敷の外に出られない。そう、予言に詠まれているんだ」
テーブルの角を挟んで右側に座ったルークが、ガイの言葉にびくりとちいさく肩をふるわせるのが見えた。
「体が弱いってこともあるけれど、だからルークはいままで一度も屋敷の外に出たことがない。それは、お前が誰よりもよく知っているはずだろう?」
困ったような、それでいてひそかに怒りを滲ませたようなガイの声。
かすかにうつむいたルークの、襟足にかかる短い髪の先。
そんな彼等を、どうすればいいのかわからないといった顔で交互に見つめる、ナタリアの水色の瞳。
そのどれもが、ひどく遠いものに感じる。
なのに。
たしかに違うとわかっているのに、なぜかアッシュの記憶や心は、ガイの説明によってあたえられた情報を、正しいものと認識しようとしている。
ようやくアッシュは、先日から感じているこの奇妙な違和感について強い疑問を持つようになった。
もう、気のせいではすませられないだろう。
たしかにま自分の目の前では、なにかが起こっているのだ。
アッシュは混乱する自分の記憶と心を押しとどめようとするように目を閉じると、ちいさく唇をかみしめた。
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「悪い、遅くなった」
明るい声とともに茶器を持ったガイが部屋に入ってきて、その場の雰囲気に気づいたのか、おやという顔になった。
「どうした?」
青い瞳が、問いかけるようにアッシュにむけられる。しかしふいと横を向いてしまったアッシュに、ガイは視線をルークへと移した。
「な、なんでもない」
慌てたように口ごもるルークに、ガイは器用に片方の眉を跳ねあげると、茶器をテーブルに置いてこちらにやってきた。
「何でもないって顔じゃないだろう?それと、起きるんならちゃんと上着を着ろよ」
いつの間にか肩からずり落ちていたらしい上着をルークに着せかけると、ガイはちらりと視線をアッシュの方へ流した。
軽く責めるような視線に促されるようにアッシュはガイの方を振り向くと、ちいさく肩をすくめた。
「言い過ぎた」
「ううん」
必死に首を横にふるルークに、自然と笑みがこぼれる。そんな二人の様子を、満足そうに青い瞳が見つめている。
くすぐったく感じるほどやわらかな視線を向けられて、なぜか嫌な感じに鼓動が跳ねあがる。
そのことに自分で驚きながら、アッシュはかいがいしくルークの世話を焼きはじめたガイの横顔へ視線を向けた。
幼いころから、自分たち二人の兄代わりともいえる存在であるガイ。
ルークほど感情を表に出すことが上手くなかったアッシュは、彼に対してあまり表だって甘えた態度をとったことはなかったが、ガイはどうしてかそれを上手く読み取って接してくれた。
ときどき抜けているところはあるが、ガイは頭も回るし腕も立つ。面と向かって口にしたことはないが、淡いあこがれのようなものをアッシュは彼に対して持っている。
もっと幼いころは、ルークに対して過保護すぎるガイの態度に複雑な気持ちを感じたこともあったが、そういう感情とも上手く折り合いをつけることができた。
「アッシュ?」
自分にむけられている視線に気づいたのか、ガイが不思議そうな顔でこちらを振りかえる。
意をはかるように軽くひそめられる眉。
その一瞬の表情に、自分でも不思議なほど違和感を感じる。
「……なんでもない」
「そうか?」
アッシュの性格を把握しているガイは、それ以上深く訊ねてくることはなかった。
そのかわり、ルークの碧の瞳が心配そうにむけられてくる。
「二人とも、お茶が入ったぞ」
その気まずさを救うようなタイミングで、ガイの声がかかる。
それに内心ほっとしながらテーブルの方へ行きかけて、アッシュはすぐに引き返すとベッドを降りようとしていたルークへ手を差しだした。
「もたもたするな」
差し出された手をきょとんとした目で見つめていたルークは、その言葉に嬉しそうな笑みを浮かべた。
「うん」
おなじ大きさの手が、重ねられる。
少し熱っぽい、だけどなめらかなさわり心地の手。
(剣を持つ手じゃない)
また、あの不安になるような違和感がわき上がってくる。
たしなみ程度の剣術はこなすが、もともと体力のないルークが激しい剣術の稽古を頻繁に行えるわけはないので、アッシュと違い剣ダコのできていないルークの手がやわらかいのは当然だろう。
なのに、感じる違和感。
「なあ、本当に大丈夫か?アッシュ」
握りかえされる、手の力。
そのたしかな感触に我に返ると、アッシュは深いため息をひとつついた。
「……どうやら、すこし疲れているようだな」
不安げに見上げてくる瞳に、心配ないと苦笑する。
「お茶を飲んだら、お前もすこし休めよ。旦那様にはいっておく」
ようやく席に着いた二人の前にカップをおくと、ガイはなにもかも見透かしたような表情でアッシュの方を見た。
ガイも、ナタリアと同じく、この双子の間にある特別なつながりのことはよく知っている。なにしろ、幼いころからこの二人の世話役として誰よりも身近にいたのだ。
三人でかこむ、ゆったりとしたお茶の時間。
子供のころから何度も繰り返されてきた、優しく穏やかなその光景。
なのにどうしてかアッシュは、今日に限ってそれに、理由のないいたたまれなさを感じずにはいられなかった。
「あら、だいぶ顔色がよろしいのね」
嬉しそうなナタリアの声に、アッシュははっとしたように顔をあげた。
水色の外出用のドレスを身をまとったナタリアは、そんなアッシュの様子には気づかずに嬉しそうに目の前でルークに話しかけていた。
誰にも話してはいないが、ここのところ頻繁にこういうことがあった。
一瞬、記憶が飛ぶと言えばいいのだろうか。
目が覚めたら知らない場所に放り出されていたような、そんな違和感を覚えるのだ。
もっともそれはほんの一瞬のことで、すぐにするりとその前の場面の記憶がすべり込んでくる。だから特に問題があるわけではないのだが、やはり気持ちの良いものではなかった。
「一昨日はありがとうな。美味かったぜ、あれ」
「美味しかった、でしょう?ルーク。素直な感想はとても嬉しいですが、あなたはもうすこし言葉に気をつけないと」
「うっせえな、わかってるよ」
子供のように拗ねた顔を見せたルークに、ナタリアは笑いながら姉のような優しいまなざしを彼にむけていた。
ナタリアは、双子たちよりもひとつ年上である。
もともと勝ち気なところのある彼女は、幼いころから、物語の中にいるようなふわふわとしたお姫様というよりは、昔語りの中にある女騎士のような勇ましさを持つ少女だった。
まして幼いころの年の差は、一つであっても大きいものだ。
その頃は彼等の姉のように振るまっていた彼女だったが、それも七つの祝いをすませるころまでのことだった。
勝ち気ながらも乙女思考なところも大いにある彼女は、アッシュと婚約の約束を交わしたころには、すでに彼に頼るようなしおらしさも見せていた。
だから彼女のこんな顔を見るのは、本当にひさしぶりのことで……。
そこまで考えて、本当にそうだろうかとアッシュは思いなおした。
いまアッシュが目にしたナタリアの表情は、なんとなくはじめて見るもののような気がする。それとも、ルークの前では彼女はいつもあんな顔をしていたのだろうか。
「……から、いいですわね?アッシュ」
突然名を呼ばれて完全に不意を突かれたような顔をしたアッシュに、ナタリアはまあと驚いたように空色の瞳を大きく瞠った。
「聞いてらっしゃらなかったのね。明日の天気はよろしいようですから、裏庭で軽いピクニックのようなことをしましょうって話してましたのよ」
ルークの具合もだいぶ良くなったことですし。
そういってにこりと笑ったナタリアに、アッシュは軽く眉をひそめた。
「裏庭?ピクニックなら外に行けばいいだろう?」
そう何気なく口にしたアッシュは、ナタリアだけでなくちょうどお茶の支度を部屋に運んできたガイまでもが驚いたように息をのんだことに、わけもわからず不安になっていた。
「アッシュ、それ、本気で言っていますの……?」
おそるおそるうかがうようなナタリアの言葉に、アッシュは彼等がなにをそんなに驚いているのだろうかと首を傾げる。
「どうやら、マジでおまえも少し休んだ方が良いみたいだな」
かちゃりと茶器をテーブルに置くと、ガイは困惑した顔をアッシュに向けた。
「アッシュ、ルークは二十歳になるまで屋敷の外に出られない。そう、予言に詠まれているんだ」
テーブルの角を挟んで右側に座ったルークが、ガイの言葉にびくりとちいさく肩をふるわせるのが見えた。
「体が弱いってこともあるけれど、だからルークはいままで一度も屋敷の外に出たことがない。それは、お前が誰よりもよく知っているはずだろう?」
困ったような、それでいてひそかに怒りを滲ませたようなガイの声。
かすかにうつむいたルークの、襟足にかかる短い髪の先。
そんな彼等を、どうすればいいのかわからないといった顔で交互に見つめる、ナタリアの水色の瞳。
そのどれもが、ひどく遠いものに感じる。
なのに。
たしかに違うとわかっているのに、なぜかアッシュの記憶や心は、ガイの説明によってあたえられた情報を、正しいものと認識しようとしている。
ようやくアッシュは、先日から感じているこの奇妙な違和感について強い疑問を持つようになった。
もう、気のせいではすませられないだろう。
たしかにま自分の目の前では、なにかが起こっているのだ。
アッシュは混乱する自分の記憶と心を押しとどめようとするように目を閉じると、ちいさく唇をかみしめた。
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