ガラスの向こう側から・4
月明かりに浮かぶおなじデザインの扉を、アッシュは少し離れた場所からぼんやりと眺めていた。
綺麗なシンメトリーを描く、離れの建物。
まるで鏡を真ん中に置いたかのような、完璧な左右対称。
双子の部屋としてはできすぎな、まるでなにかを象徴しているかのようなその建物の形に、アッシュは首筋のあたりにちりっと嫌な痛みが走ったのを感じた。
結局、今日の夕食の席にルークは現れなかった。
それに双子の母親のシュザンヌは気遣わしげな表情を見せたが、ルークが食卓にあらわれないのはそう珍しいことではない。
食事自体は離れにガイが運んだらしいので、食欲がないわけではないと聞いてほっとしたような彼女の正面で、アッシュは彼女に気づかれないように眉を軽くひそめた。
昼の件のことが後を引いているのだろうと頭では考えながら、やはりまだつきまとう違和感にアッシュは戸惑っていた。
口に運ぶ食事は温かく、咀嚼する感覚もきちんとある。
味が今ひとつわからないのは、いまのアッシュの気分の問題もあるのだろうから、あまり参考にはならないだろう。
握るカトラリーのひんやりとした銀の感触も重みも、きちんと現実のものとして感じられる。
唇に当たるグラスの感触にも、ぼんやりとした曖昧さはなかった。
早々に食事を済ませて席を立った彼に、シュザンヌは残念そうな顔を見せたが、なんとかそれを無視してアッシュは自分の部屋へと戻ってきた。
そして部屋に入る前に、こうやって外からあらためて自分たち二人が住む場所を、あらためて眺めてみたのだった。
幼いころから見慣れた部屋なのに、なぜかまったく知らない建物のようにも見える。
ステップをあがって自分の部屋の扉の前にたったアッシュは、ちらりともう一つの扉へと目をむけた。
ふとそちらを訪ねようかと一瞬だけ思うが、すぐにちいさく頭をふってその考えを追い出すと、アッシュは自分の部屋に入った。
アッシュの部屋は、当たり前だがルークの部屋とそっくり同じ造りになっている。
置かれている家具もほとんど同じで、ただ部屋を彩るファブリックなどの色彩は少々異なっている。
あとは部屋の片隅に執務用の大きな机が据えられていることが、大きな違いといえるかも知れない。
ベッドに腰をおろして部屋の中をあらためて見回したアッシュは、大きなため息をもらしながら額へ手をやった。
いくら確かめてもここが自分の部屋であることは間違いないのに、アッシュの中のなにかが違和感を訴える。
そして、それを強引に上書きしようとする強い力。
はじめはなんの疑問もなくそれを受け入れていたのだろうが、意識してしまってからはその強制力は緩くなっている。
それでも、少しでも気を抜けば記憶を浸食するようにあらたな情報が上書きされてゆく。
(いったい、何が起こっている)
異変の核がわからなければ、どれが現実でどれが偽りの記憶なのかわからなくなってくる。
まるで少しずつ狂ってゆくような怖さが、そこにはあった。
そういえば、どうして自分はルークについての預言を忘れていたのだろうか。
アッシュはふと、昼間のことを思い出していた。
信じられないものを見るようにして自分を見つめてきた、幼なじみたちの瞳。うつむいてしまった、ルークの横顔。
そうだ、どうしてそんな大事なことを自分は忘れていたのだろう。
二十歳になるまで屋敷を出られないのは、その預言が破られればルークの身の上に災いが訪れると言われているから。
預言の絶対性は、身代わりを立てればさけられないわけではない。しかし、ただでさえ体の弱いルークに関して、そんな賭に等しいことをしようと思うものはファブレ家には存在しない。
ルーク本人は多いに不満があるようだが、アッシュたちの制止を振り切ろうとするほど我が儘でもない。
そんな弟が不憫だと思うと同時に、アッシュはやりきれない苛立ちを感じることもある。
この複雑な気持ちは、兄弟という間柄にあるたがいにしかわからないだろう。
それが、アッシュを取り巻く世界のすべてだ。
貴族の家柄に生まれたとはいえ、まだ爵位もなく成人もしていないアッシュは、どれだけ優秀であっても国政に参加できるわけではない。
ナタリアの婚約者として、未来の王位は約束されたも同然の身ではあるが、それだけである。
忙しくはあるが、平和で穏やかな毎日。
それがすべてのはずなのに、アッシュの中にあるなにかがそれを否定しようとする。
本当に、自分は狂いはじめているのかも知れない。
記憶が飛ぶことも、現実に違和感を感じることも、その一端なのかもしれない。
そんなことをつらつらと考えていたアッシュは、いきなり響いたノックの音に、自分でも滑稽なくらいに反応した。
「アッシュ、いいか?」
一拍おいて聞こえたのは、ガイの声だった。それにさらに驚きながら入室を許可すると、開いた扉からするりとガイの長身が部屋にすべり込んできた。
「なんだ?」
「奥様がお前のこと心配していたから、様子を見に来たんだ。……そのようすだと、来て良かったみたいだな」
ガイは端正な顔に苦笑を浮かべると、運んできたカップをテーブルの上においた。
「昼間からお前、ちょっと様子が変だったからな。ここのところ忙しかったし、疲れているんじゃないか?今夜はさっさと寝ろよ」
さすがと言うべきか、自分の変調をこの世話係は気づいていたようだ。
普段はどうしても手のかかるルークの方につきっきりの彼だが、こういうさりげない気の使い方はこちらが舌を巻くほど上手い。
「ココアか……」
テーブルの方へ向かったアッシュは、カップの中身を見てかすかに顔をしかめた。
「子供扱いかって顔すんなよ。寝る前にはこういう飲み物の方がいいんだぜ」
そういって笑うガイの手にある盆には、もう一つ同じカップがのっている。
それがルークのために用意されたものであること、そしてココアという選択が彼を優先的してなされたものであることを、アッシュは知っていた。
ガイがどんなときも自分よりもルークを大事にしていることを、アッシュは知っている。
そっくりな双子である自分たちに、他人の愛情はそっくり同じにあたえられるわけではないのだと教えたのは、他でもないガイだったのだから。
さすがに幼いころはそれに傷ついたこともあったが、いまではそういうものだと受け入れていたはずだった。
それなのに、なぜか今日はそれがひどく気に障った。
「俺の方はいいから、さっさとあいつの方へ行ってやれ」
自分でも驚くくらい硬い声が出たことに、しまったと内心舌打ちする。
ガイの青い瞳が一瞬気遣わしげな色を見せるが、すぐに消える。そうやって気遣われることを、アッシュが嫌っていることを知っているからだ。
優しい、幼なじみ。
だけどこんなふうに優しい目を、彼が自分にむけたことがあっただろうか。
また浮かんできた疑問に、ざわりと胸の奥が騒ぐ。
「……じゃ、そうさせてもらうよ。カップはそのままにしておけよ。明日起こしに来たときに持ってくからな」
何かを考え込むような顔になったアッシュに、ガイはちいさく肩をすくめると、部屋を出て行った。
扉の閉まる小さな音が、いやに部屋の中に響き渡る。
手にしたカップの中にあるココアは、しずかに湯気をあげている。
ひとくち口に含むと、ちょうど良い甘さがひろがった。
本当は、何もか自分の気のせいなのかもしれない。
だんだんと、そんな気持ちが強くなってくる。
しかし、アッシュの中のなにかが、強く違和感を叫んでいる。
「……っ!」
ぼんやりとしていたせいだろうか、カップを取ろうとして勢いよく指先に引っかけてしまう。
(しまった!)
らしくない失態に慌てて手を伸ばすが、もちろん間に合わない。
カップは勢いよくテーブルの上を転がり、そのまま中身をまき散らしながら床に落ちてゆく。
そう、なるはずだった。
「な、に……っ?」
テーブルの端まで転がっていったカップは、床に落ちる前に、まるで空気に溶けるようにして消えていった。
同じように、テーブルの上にまき散らされたはずのココアも、キラキラと小さな光を放って消えてゆく。
その光景を目の当たりしたアッシュは一瞬呆然としたが、すぐに我に返ると、膝をついてテーブルの下にカップの破片を探した。
しかし床の上には欠片一つなく、絨毯にも染み一つない。
ゆるゆると驚きがのど元までこみ上げてくるが、かろうじて飲み下す。
そしてその時になってはじめて、自分の口の中にはまだココアの甘みが残っていることに気がつく。
「どういうことだ……?」
消えたカップ。それだけなら、かなり無理はあるが気のせいだったとすることができないわけではない。だけど、口の中に残る甘い後味がそれを否定する。
(もしかして……)
アッシュはある一つの仮定に思いあたって、そっと目を閉じた。
そして、頭の中でさきほどガイが運んできたカップの形を思い描く。
はたして目を開くと、先ほどからそこにあったと言わんばかりカップが目の前にあった。もちろん、中身もそのままに。
じわり、と腹の底の方で嫌な感じがさらに渦巻いたのがわかった。
おそらく自分の予想は、間違っていないだろう。
リアルにすべてが感じられるのに、どこかにつきまとう違和感。
そして、目の前に突然現れた、消えたはずのカップ。
ここは、夢の中だ。
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綺麗なシンメトリーを描く、離れの建物。
まるで鏡を真ん中に置いたかのような、完璧な左右対称。
双子の部屋としてはできすぎな、まるでなにかを象徴しているかのようなその建物の形に、アッシュは首筋のあたりにちりっと嫌な痛みが走ったのを感じた。
結局、今日の夕食の席にルークは現れなかった。
それに双子の母親のシュザンヌは気遣わしげな表情を見せたが、ルークが食卓にあらわれないのはそう珍しいことではない。
食事自体は離れにガイが運んだらしいので、食欲がないわけではないと聞いてほっとしたような彼女の正面で、アッシュは彼女に気づかれないように眉を軽くひそめた。
昼の件のことが後を引いているのだろうと頭では考えながら、やはりまだつきまとう違和感にアッシュは戸惑っていた。
口に運ぶ食事は温かく、咀嚼する感覚もきちんとある。
味が今ひとつわからないのは、いまのアッシュの気分の問題もあるのだろうから、あまり参考にはならないだろう。
握るカトラリーのひんやりとした銀の感触も重みも、きちんと現実のものとして感じられる。
唇に当たるグラスの感触にも、ぼんやりとした曖昧さはなかった。
早々に食事を済ませて席を立った彼に、シュザンヌは残念そうな顔を見せたが、なんとかそれを無視してアッシュは自分の部屋へと戻ってきた。
そして部屋に入る前に、こうやって外からあらためて自分たち二人が住む場所を、あらためて眺めてみたのだった。
幼いころから見慣れた部屋なのに、なぜかまったく知らない建物のようにも見える。
ステップをあがって自分の部屋の扉の前にたったアッシュは、ちらりともう一つの扉へと目をむけた。
ふとそちらを訪ねようかと一瞬だけ思うが、すぐにちいさく頭をふってその考えを追い出すと、アッシュは自分の部屋に入った。
アッシュの部屋は、当たり前だがルークの部屋とそっくり同じ造りになっている。
置かれている家具もほとんど同じで、ただ部屋を彩るファブリックなどの色彩は少々異なっている。
あとは部屋の片隅に執務用の大きな机が据えられていることが、大きな違いといえるかも知れない。
ベッドに腰をおろして部屋の中をあらためて見回したアッシュは、大きなため息をもらしながら額へ手をやった。
いくら確かめてもここが自分の部屋であることは間違いないのに、アッシュの中のなにかが違和感を訴える。
そして、それを強引に上書きしようとする強い力。
はじめはなんの疑問もなくそれを受け入れていたのだろうが、意識してしまってからはその強制力は緩くなっている。
それでも、少しでも気を抜けば記憶を浸食するようにあらたな情報が上書きされてゆく。
(いったい、何が起こっている)
異変の核がわからなければ、どれが現実でどれが偽りの記憶なのかわからなくなってくる。
まるで少しずつ狂ってゆくような怖さが、そこにはあった。
そういえば、どうして自分はルークについての預言を忘れていたのだろうか。
アッシュはふと、昼間のことを思い出していた。
信じられないものを見るようにして自分を見つめてきた、幼なじみたちの瞳。うつむいてしまった、ルークの横顔。
そうだ、どうしてそんな大事なことを自分は忘れていたのだろう。
二十歳になるまで屋敷を出られないのは、その預言が破られればルークの身の上に災いが訪れると言われているから。
預言の絶対性は、身代わりを立てればさけられないわけではない。しかし、ただでさえ体の弱いルークに関して、そんな賭に等しいことをしようと思うものはファブレ家には存在しない。
ルーク本人は多いに不満があるようだが、アッシュたちの制止を振り切ろうとするほど我が儘でもない。
そんな弟が不憫だと思うと同時に、アッシュはやりきれない苛立ちを感じることもある。
この複雑な気持ちは、兄弟という間柄にあるたがいにしかわからないだろう。
それが、アッシュを取り巻く世界のすべてだ。
貴族の家柄に生まれたとはいえ、まだ爵位もなく成人もしていないアッシュは、どれだけ優秀であっても国政に参加できるわけではない。
ナタリアの婚約者として、未来の王位は約束されたも同然の身ではあるが、それだけである。
忙しくはあるが、平和で穏やかな毎日。
それがすべてのはずなのに、アッシュの中にあるなにかがそれを否定しようとする。
本当に、自分は狂いはじめているのかも知れない。
記憶が飛ぶことも、現実に違和感を感じることも、その一端なのかもしれない。
そんなことをつらつらと考えていたアッシュは、いきなり響いたノックの音に、自分でも滑稽なくらいに反応した。
「アッシュ、いいか?」
一拍おいて聞こえたのは、ガイの声だった。それにさらに驚きながら入室を許可すると、開いた扉からするりとガイの長身が部屋にすべり込んできた。
「なんだ?」
「奥様がお前のこと心配していたから、様子を見に来たんだ。……そのようすだと、来て良かったみたいだな」
ガイは端正な顔に苦笑を浮かべると、運んできたカップをテーブルの上においた。
「昼間からお前、ちょっと様子が変だったからな。ここのところ忙しかったし、疲れているんじゃないか?今夜はさっさと寝ろよ」
さすがと言うべきか、自分の変調をこの世話係は気づいていたようだ。
普段はどうしても手のかかるルークの方につきっきりの彼だが、こういうさりげない気の使い方はこちらが舌を巻くほど上手い。
「ココアか……」
テーブルの方へ向かったアッシュは、カップの中身を見てかすかに顔をしかめた。
「子供扱いかって顔すんなよ。寝る前にはこういう飲み物の方がいいんだぜ」
そういって笑うガイの手にある盆には、もう一つ同じカップがのっている。
それがルークのために用意されたものであること、そしてココアという選択が彼を優先的してなされたものであることを、アッシュは知っていた。
ガイがどんなときも自分よりもルークを大事にしていることを、アッシュは知っている。
そっくりな双子である自分たちに、他人の愛情はそっくり同じにあたえられるわけではないのだと教えたのは、他でもないガイだったのだから。
さすがに幼いころはそれに傷ついたこともあったが、いまではそういうものだと受け入れていたはずだった。
それなのに、なぜか今日はそれがひどく気に障った。
「俺の方はいいから、さっさとあいつの方へ行ってやれ」
自分でも驚くくらい硬い声が出たことに、しまったと内心舌打ちする。
ガイの青い瞳が一瞬気遣わしげな色を見せるが、すぐに消える。そうやって気遣われることを、アッシュが嫌っていることを知っているからだ。
優しい、幼なじみ。
だけどこんなふうに優しい目を、彼が自分にむけたことがあっただろうか。
また浮かんできた疑問に、ざわりと胸の奥が騒ぐ。
「……じゃ、そうさせてもらうよ。カップはそのままにしておけよ。明日起こしに来たときに持ってくからな」
何かを考え込むような顔になったアッシュに、ガイはちいさく肩をすくめると、部屋を出て行った。
扉の閉まる小さな音が、いやに部屋の中に響き渡る。
手にしたカップの中にあるココアは、しずかに湯気をあげている。
ひとくち口に含むと、ちょうど良い甘さがひろがった。
本当は、何もか自分の気のせいなのかもしれない。
だんだんと、そんな気持ちが強くなってくる。
しかし、アッシュの中のなにかが、強く違和感を叫んでいる。
「……っ!」
ぼんやりとしていたせいだろうか、カップを取ろうとして勢いよく指先に引っかけてしまう。
(しまった!)
らしくない失態に慌てて手を伸ばすが、もちろん間に合わない。
カップは勢いよくテーブルの上を転がり、そのまま中身をまき散らしながら床に落ちてゆく。
そう、なるはずだった。
「な、に……っ?」
テーブルの端まで転がっていったカップは、床に落ちる前に、まるで空気に溶けるようにして消えていった。
同じように、テーブルの上にまき散らされたはずのココアも、キラキラと小さな光を放って消えてゆく。
その光景を目の当たりしたアッシュは一瞬呆然としたが、すぐに我に返ると、膝をついてテーブルの下にカップの破片を探した。
しかし床の上には欠片一つなく、絨毯にも染み一つない。
ゆるゆると驚きがのど元までこみ上げてくるが、かろうじて飲み下す。
そしてその時になってはじめて、自分の口の中にはまだココアの甘みが残っていることに気がつく。
「どういうことだ……?」
消えたカップ。それだけなら、かなり無理はあるが気のせいだったとすることができないわけではない。だけど、口の中に残る甘い後味がそれを否定する。
(もしかして……)
アッシュはある一つの仮定に思いあたって、そっと目を閉じた。
そして、頭の中でさきほどガイが運んできたカップの形を思い描く。
はたして目を開くと、先ほどからそこにあったと言わんばかりカップが目の前にあった。もちろん、中身もそのままに。
じわり、と腹の底の方で嫌な感じがさらに渦巻いたのがわかった。
おそらく自分の予想は、間違っていないだろう。
リアルにすべてが感じられるのに、どこかにつきまとう違和感。
そして、目の前に突然現れた、消えたはずのカップ。
ここは、夢の中だ。
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