Little flower waltz・9




まずいと思ったときには、もう引き返せなかった。


ルークは路地裏を必死に走りながら、自分の迂闊さやもの知らずの酷さに舌打ちしたい気分だった。
明け方前に屋敷を抜け出し、下層階までおりてきたまではよかった。しかしあいにくと街に降りたのがこれで二度目のルークには、広大なバチカルの街の地理知識などもちろん皆無である。
それでも歩いていれば街の外に出るだろうと軽い気持ちで歩きはじめたのだが、それがまずかった。気がついたときには入り組んだ細い道が続く下町へと迷い込んでいたルークは、まるで迷路のようなその街から抜け出せなくなっていた。
いくつもに別れる細い道に、いくつも現れる行き止まり。自分がどこにいるのか、どこが辿ってきた道なのかわからなくなってしまたのはすぐだった。しかも運の悪いことに、そうやって迷っている間にルークは二度と会いたくなかった顔に出くわしてしまったのだった。
最初は奇声をあげて自分を指さした相手に、ルークは文字通り目を丸くして首を傾げた。しかしすぐに彼らの頭に見える耳族の証である獣耳に気付き、それでようやく昨日遭遇した耳族の少年達だと気がつくありさまだった。

「昨日はよくもやってくれたな!」

犬耳を生やした、ルークよりも一回り大きな少年が威嚇するように牙をむき出す。実際の所はルークはアッシュに間違われただけで、攻撃もルークではなくシンクがおこなったのだが、どうやらそんないい訳は聞いてもらえそうにない。そして、そこでどうしようかとぼんやりしてしまうほど、ルークもうっかりではなかった。
ルークはすぐにくるりと身を翻すと、一言も答えずにそのまま駆け出した。



まさか相手もルークが逃げるとは思っていなかったのか、一瞬の間があく。だがすぐに背後から怒声が響いてきたのに、ルークはさらに足を速めた。そうして追いかけっこが始まったわけなのだが、ルークはますます入り組んで細くなってゆく道に、焦りを感じはじめていた。
走っていれば大通りにたどり着けるだろうと思っていたのに、なんだかますます入り組んだ迷路の中心へと迷い込んでいってしまっているような気がするのは、多分気のせいではないだろう。
助けを呼びたかったけれど、昨日の今日ではルークにはそれもできなかった。
本当は、アッシュやイオンにも知られないうちに、バチカルの街を出てしまうつもりだったのだ。それなのに、どうして自分はこんなところで追い回されているのだろう。本当に自分だけでは何一つ出来ないのだと、改めて実感させられて情けなくなってくる。
走り回り続けているせいで息は完全にあがってしまい、だんだんと足が重くなってくるのがわかる。屋敷の中でしか暮らしたことのないルークは、町で暮らす耳族達に比べれば圧倒的に体力がない。もうダメかもしれない。そう思った瞬間、もの凄い力で後ろに引きずられて、ルークは横倒しに転んだ。

「……ったく、手間をとらせやがって」

思い切り石畳の上に体を打ち付けて呻くルークの上から、息切れした忌々しげな声が降ってくる。それと同時に思い切り横腹を蹴られて、ルークはさらに悲鳴を上げて丸くなった。
それでもなんとか上体を起こして見上げると、そこにはさきほどルークのことを指さした犬耳族の少年の顔があった。

「いままでの礼をたっぷりさせもらうぜ、アッシュ」
「……人違いだ」

どうせ聞き入れられないとはわかっていたが、一応訂正を口にする。主に言えば、アッシュの名誉のために。

「見え透いた嘘つくんじゃねえよ。そのすかした顔と赤い髪が、お前以外に誰がいるって言うんだ」
「よく見ろよバカ。赤の色がちげーだろ」

小馬鹿にしたような少年の言葉にムッとしながらも、ルークは相手の顔を睨みつけながらタイミングを計った。ルークの言葉に半信半疑という顔になった少年が、じりじりとこっちに寄ってくる。
そして、ほとんど覆い被さらんばかりに少年の顔が近づいてきたところで、ルークは容赦のない勢いで少年の向こう臑を思い切り蹴り上げた。
奇妙な声をあげて飛び跳ねた少年の横からすばやく転がり出ると、ルークはそのまま立ち上がって走り出そうとした。しかし飛び起きて地面に足をつけたところで、左足の足首に痛みが走るのを感じて顔をしかめる。
それでもなんとか走り出そうと前に踏み出そうとしたところで、背後から怒りに満ちた声が上がる。何か鋭い気配が背中の方に迫るのを感じて、ルークは反射的に横に逃げた。
何か固い物が、すごい勢いで背中の側を走ったのがわかった。そのせいだろうか、背中のあたりの感覚が一気にぶわりと膨れあがったような不思議な感覚が走る。

「ルークっ!」

突然大きな声で名を呼ばれたと同時に、強い力で手を掴まれる。とっさに振り払おうとすると、焦れたようにその手がルークを引き寄せ抱きしめる。

「くそっ……っ!」

抱きしめた手がルークの背中を撫で、髪が、と呟く。
あまりに突然のことに呆然としたルークを、その手の主はそのまま自分の後ろに押しやると、ルークを追いかけてきた犬耳族の少年とのあいだに立ちはだかる。
その相手の背に流れる髪の色を見て、ルークは思わず目を見開いた。
自分よりも鮮やかな赤の色。その色を見間違えるはずがない。

「ずいぶんと好き放題にやってくれるじゃねえか」

低く唸るような、厳しい声。しかし相手が自分ではないことは、さすがのルークにもすぐにわかった。アッシュの鋭い視線は、先程ルークに殴りかかってきた少年へと向けられている。

「こいつに手を出したことを、後悔させてやる」

長い尻尾が地面と叩き、強い光を宿した翠の瞳が獲物を狙うように細められる。それをルークは地面に座り込んだまま、ただ眺めていることしか出来なかった。



BACK← →NEXT(08/02/08)