自鳴琴・10




 アッシュのファブレ家での生活は、ごく静かにはじまった。
 二人の帰還はキムラスカ・マルクト・ダアトの上層部のごく一部の者にだけ知らされ、正式な発表は一時見送られることとなった。
 それは当然の処遇だっただろう。いまのルークを人前に出すわけにはいかないのは、誰の目にもあきらかだ。それにアッシュも、自分の気持ちを整理するためにもうすこし時間が欲しかった。……たぶん、それも考慮してくれたのだろう。
 おかげで屋敷の外に出ることもままならなかったが、いままで忙しすぎる時間の中に身を置いていたアッシュにとって、かえってそれは良い休養になっていた。
 もちろん、あまりにゆっくりと流れる時間がもどかしくなることもあった。
 しかし実際にはルークがアッシュの側を離れたがらないため、半ば強制的に屋敷の中にとどめられる環境を強いられていることもあって、そのことをゆっくり考える暇もなかった。
 ルークも、一週間もすると徐々に屋敷になじみはじめた。
 はじめは警戒して離れの部屋から出てこようとしなかったが、アッシュがずっと屋敷の中にいるためここが安全な場所なのだと理解したのか、そのうち中庭のあたりまでなら一人で出てくるようになった。
 その頃になると、アッシュにべったりとくっついて離れなかったルークも、少しずつ周囲の者に慣れはじめていた。
 一番最初にルークが懐いたのは、当然のことだったがガイだった。
 まだ物心つかない頃のルークを世話していたこともあった彼は、実に根気強く、そしてやはり誰よりも一番ルークの性格を把握していた。
 当初ルークの変わり果てた姿に少なくない衝撃を覚えていたらしい使用人たちも、いつの間にか立ちなおっていたらしい。ルークが怯えるので手出しできないことがもどかしそうではあったが、彼らがルークを見守るその目には優しさがあった。
 そんな彼らの落ち着いた柔らかな態度は、当然のようにアッシュにもむけられた。
 突然現れたもう一人の子息にも、使用人たちは動じなかった。
 もともと事情を知っているということもあったのだろうが、好奇の目をむけることもなく、ごく自然にアッシュを主人の一人として受け入れていった彼らの順応力の高さには、さすがに彼も舌を巻いた。
 だがよく考えてみれば、この三年の間に起こった波乱含みの出来事にもめげず、公爵家に勤めてきた者ばかりなのだ。突発的な事態に慣れていても、不思議はないのかもしれない。
 それでも最初の頃は、いろいろと戸惑うことも多かった。
 自分はこのままここにいて良いのだろうかと、自問することもあった。だがそんなアッシュの衝動的な思いを押しとどめるのは、意外にもルークの存在だった。
 ルークには、相変わらず記憶の戻る徴候は見られない。
 ガイやシュザンヌにはだいぶ慣れて、アッシュが側についていなくても前のように大騒ぎをすることは少なくなったが、それでも長い間姿が見えなければ不安そうな顔をした。
 そんな後は、かならずと言っていいほどルークはアッシュを探して抱きついてきた。いまだにルークへの複雑な気持ちを決めかねているアッシュは、そのたびに振り払いたい衝動にかられるのだが、泣きそうな顔で必死にしがみつかれてはそれもできない。
 それに、あまり認めなくはないのだが、こうやってルークに懐かれることにアッシュ自身も慣れはじめていた。
 なにしろ四六時中抱きついてくるだけでなく、長い間離れているとルークが不安がるので、部屋も一緒なら眠るときも同じベッドで眠っているのだ。慣れない方がおかしいだろう。
 救いがあるとすれば、意外にもルークが眠っているときは大人しいのと、これは同位体であるせいなのか、一緒に眠っていてもさほどその存在が気にならないことだった。
 そうやってルークに振り回される毎日を送りながら、アッシュはふと、もしルークも元のままで戻ってきていたらどうなっていただろうか、と考えることがあった。
 エルドラントでの最後の決戦で一応の心のケリはつけたつもりではいるが、もしあの頃のルークがそのまま戻ってきていたら、自分は果たしてこの家に戻ってきただろうか。
 そんなことを考えるたびに、だがこのままではいけないのだと思い直す。
 たしかに、今回のルークの異変がアッシュのファブレ家復帰のきっかけのひとつになっているのはたしかだ。だが、このままルークが記憶を取り戻さなかったらどうなるのだろう。
 アッシュは、シュザンヌが時々ルークを見て悲しそうな表情を浮かべていることを知っている。
 彼女にとって子供に自分を忘れられるのは、これで二度目だ。もっとも、一度目は忘れられたのではなくて全く別の子供だったわけだが、それでも愛する子供に忘れられてしまうという苦痛にはかわりない。
 アッシュについても、ルークはどこまで覚えているのかわからない。だが他の者たちにしてみれば、その存在自体を覚えられていただけでもマシなのだと言われるだろう。
 ルークの記憶を取り戻すために、彼の仲間たちは各地に散ってそれぞれ独自に調べを進めている。とはいえ、彼らも多忙の身なのでなかなか上手くいっていないようだった。
 ひそかに医師にも診せてはいたが、やはり原因は不明のまま。
 もっとも、レプリカの権威であるジェイドでさえわからなかったのだから、当然の結果と言えるだろう。
 そんな中で、アッシュはひそかにジェイドが言っていた可能性のことを考えるようになっていた。
 あの時は馬鹿馬鹿しいと一蹴したが、たしかにジェイドが提示した可能性は、いまのこの状況において一番整合性が高い意見ではあった。
 しかしアッシュの中には、本来大爆発が起こった後に残るとされているルークの記憶がない。何度もあの頃のことを思い出してみるが、あるのは自分の記憶だけ。覚えのない記憶など欠片もない。
 それでも、アッシュは自分の記憶をなぞる行為をやめることが出来なかった。何度も記憶を辿ることは過去の傷口を抉ることにも似ていたが、それでもやめられなかった。
 だがそうやって過去の自分を思い出すたびに、アッシュはあの頃の自分の頑なさがひどく滑稽なものに思えて舌打ちしたくなることが何度もあった。もちろん、あの頃の自分の行動のすべてを否定するつもりはない。それでも後悔する事柄が多いのはたしかだった。
「アッシュ──っ! アッシュ、アッシュ!」
 突然、堂々巡りに陥りそうになっていた思考を破るようなルークの声が中庭の方から聞こえた。
 ふと気がつくと、書庫にこもってからかなりの時間がたっていた。長いあいだ自分の姿が見えないので、なにかをきっかけにぐずりはじめでもしたのだろう。その証拠に、アッシュを呼ぶルークの声には駄々をこねて泣き出す前の子供のような、苛立ちと心細さがない交ぜになったような響きがある。
 アッシュはため息をつくと、読むことなく広げていた本を閉じて書庫を出た。
 母屋の奥にある書庫から中庭までは、少し距離がある。その間にもアッシュを呼ぶルークの声は響き続け、最後にはぐずるような響きさえ混じりはじめる。その声に急かされるように足を早める自分を複雑に思いながらも、アッシュは中庭の方へと急いだ。
 中庭に続く扉を出ると、離れの前でガイがルークを必死に宥めている姿が見えた。ガイはすぐにアッシュに気がつくと、苦笑するような顔をこちらにむけてからルークにこちらを指し示した。
 緋色の頭が跳ねるようにしてこちらを向き、距離があってもわかるくらいに満面の笑みが浮かぶ。そのまま走ってこちらにむかってきたルークが、飛びつくようにして抱きついてくるのをなんとか受け止めると、アッシュは笑いながらこちらを見ているガイの顔を軽く睨んだ。
「笑って見ていないで、こいつをなんとかしろ」
「悪いが、それは無理だな。おまえの姿が見えないのに気がついてからも、ずいぶんと保たせたんだぜ?」
 ガイは小さく肩をすくめならがこちらにやってくると、アッシュに抱きついて満足そうな顔をしているルークの頭を可愛くて仕方がないというような顔で撫でた。
「四六時中つきまとわれるこっちの身にもなってみろ」
「仕方がないだろう。いまのルークにとって、おまえだけが最初からわかっている相手なんだから。たぶん、くっついていると安心できるんだろう」
 ほわんと満足しきった笑顔を浮かべているルークを見て、アッシュはため息をついた。
 ルークに対してのわだかまりが完全になくなっているわけではないとはいえ、好意をむけられることが嫌なわけではなかった。むしろ以前のような遠慮がちな好意よりも、いまのように素直な好意をむけられる方がずっと好ましいとも思っている。
 なんのかの言いながらも、アッシュもルークを受け入れつつある。
 なにかとくっついてこられるのは鬱陶しいが、あれだけ慕われていては邪険にするのも後味が悪い。それに、ほとんど幼子のようになってしまったルークに当たるほど、大人げないつもりもない。
 そしてなによりも、ルークに泣かれるのが苦手だった。
 一番はじめに泣かれて驚いてしまったせいもあるのだろうが、泣きそうな顔で見あげられるとどうしていいのかわからなくなってしまうのだ。
 くいっと袖を引かれてそちらに顔をむけると、自分と同じ色をした瞳が不思議そうに見あげてくる。そこには何の計算もなければ、思惑もない。ただ純粋に自分を慕い求めてくれているのだとわかる。
 アッシュは、自分が今のルークを見捨てることなど、もうできないことを自覚している。
 だがそれは、言い訳のひとつでしかない。本当はアッシュ自身、もうこの屋敷を出て行こうとは考えていなかった。
 ルークの異変に巻きこまれる形でなし崩しに戻ったファブレ家だったが、そこはアッシュが思っていたような自分の存在を否定する場所ではなかった。
 アッシュはずっとこの場所はもうルークのための場所なのだと、頑なに思い続けていた。同じ場所に同じ存在はいらない。そう思っていたから。
 だけど実際にここで暮らしはじめてみれば、そんなことなど忘れたかのようになじんでゆく自分がいる。ルークに振り回されて余計なことを考える暇がなかったというのもあるが、やはりここは自分の帰る場所なのだと、日がたつにつれて思うようになっていった。


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